第38章「悩める三吉の塞翁が馬(仮題)」

316.【て】 『庭訓(ていきん・ていくん)』
(2005.12.26)
『庭訓』
1.家庭内で我が子に教育すること。また、親が子に与える教訓。
類:●庭の教え
故事:論語−季氏」 孔子が、庭を走る息子(伯魚)を呼び止めて詩と礼を学ぶべきことを教えた。 
2.庭訓往来」の略。
参考:庭訓往来(ていきんおうらい) 室町前期の往来物。1巻。玄恵法印の作と伝えるが疑問。応永年間(1394〜1428)頃の成立という。往復書簡の形式を採り、武士の日常生活に関する諸事実・用語を素材とする初等教科書として編まれ、室町・江戸時代に広く流布した。
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日本橋の土地買占めの一件も収(おさ)まったようなのだが、内房(うちぼう)老人からの説明はまだ来ていない。
お咲も「どうしたのかしらね。せっかちなご隠居様とは思えないわね」と首を傾(かし)げている。

>熊:大方、表へ出せねえような名が挙がってきちまったんだろうよ。
>咲:例えば?
>熊:お旗本(はたもと)とか御家人(ごけにん)とかじゃねえのか?
>咲:真逆(まさか)。それって、上様のご直参(じきさん)でしょう?
>熊:「例えば」って言ったじゃねえか。ほんとにそんなとこが絡(から)んでたら大事(おおごと)じゃねえか。
>咲:うーん。そうすると、さしものご隠居様も名を口にできないってことよね。
>熊:だから例えの話だっての。
>咲:そうね。そうだったとしたら、あたしたちには手も足も出せない話だもんね。ふふん。・・・あ、それじゃ、行ってらっしゃい。寒いから気を付けてね。
>熊:お前ぇ、また良からぬことでも考えてるんじゃねえだろうな?
>咲:あたしが? 滅相(めっそう)もない

今年の冬は寒くならないんじゃないかなどと、どこぞの学者先生が言ったらしいが、とんでもない
北風がひゅうひゅう吹いて、朝などは火鉢(ひばち)から離れられないような日が続いている。
いっそのこと雪になって呉れるのなら大工仕事も休みになるのだが、雪は越後(えちご)辺りに全部降ってしまって、空(から)っ風ばかりが吹き付けてくる。

>八:寒いなあ。どうにかならねえかねえ。
>熊:暑い寒いばっかりはどうしようもねえだろう。精々(せいぜい)厚着して乗り切るんだな。
>八:お前ぇは平気なのか?
>熊:平気な訳ねえだろう? 生身なんだからよ。・・・だがよ、冬ってのは、寒きゃ寒いほど火が出易いからな。休んじゃいられねえだろう?
>八:おお、そうか。火だよな。気を付けて貰いてえもんだよな。寒いのに朝から晩まで働かされるのはたくさんだからよ。
>熊:まあ、おいらたちゃ、それで仕事に有り付いているってとこもあるんだけどな。因果(いんが)なもんだぜ。
>八:そう言うなって。おいらたちが家(うち)を建ててやらなきゃ、焼け出された人らは吹きっ曝(さら)しの中で野宿だぞ。
>熊:ほう。お前ぇにしちゃご立派なことを言ったもんだな。
>八:当たり前ぇじゃねえか。おいらいつだって自分のことより人様のことを考えてるんだからよ。・・・なあ、気の毒千万(せんばん)? お前ぇたちもそう思うだろう?
>万:その呼び方は、好い加減止(や)めにしていただけませんか?
>千:そうですよ。それぞれに歴(れっき)とした名前があるんですから。
>八:細かいこと言うなっての。偶(たま)に正面(まとも)なこと言ったんだからよ。有り難く聞いておきやがれ。
>万:はーい。
>八:そもそも大工ってやつはだな・・・
>熊:おいおい、こんなとこで講釈を打(ぶ)つつもりか? 親方んとこへ着いてからにしねえか?
>八:それもそうだな。何も寒いとこに突っ立ってることもねえ。

源五郎の家に着いて、八兵衛がさて講釈の続きを始めようかというところへ、五六蔵が走り込んできた。

>五六:兄いたち、大変なことになりやした。
>八:朝っぱらから泡食ってどうしたってんだ? 悪い夢でも見たか?
>五六:そんなんじゃねえんですって。三吉の奴が、足を怪我(けが)しちまったんです。
>八:なんだと? だってよ、昨夜(ゆうべ)はぴんぴんしていやがったぞ。
>五六:今朝(けさ)のことだそうなんで。
>熊:足の小指でも箪笥(たんす)にぶつけたか?
>八:よ、止せったら。考えただけでも背中がむずむずするじゃねえか。
>五六:なんでも、井戸の桶(おけ)に張った氷を、足で割ろうとして引っ繰り返ったそうなんでやす。
>八:打ったのは頭じゃねえのか?
>熊:頭の方がよっぽど心配じゃねえか。
>八:あ、そっか。そりゃそうだな。
>熊:それで、どのくらい悪いんだ?
>五六:話すのも気持ち悪いんでやすが、足首がそっぽを向いちまってるってことでやして。
>熊:なんだと? そりゃあ大事だ。
>八:そ、そんなになるってのになんでもっと早く言わなかったんだよ。
>五六:だから慌てて駆けてきたんじゃねえですか。
>八:あ、そうか。

>熊:それで、今、どうしてるんだ?
>五六:長屋のみんなが骨接ぎの出来そうな人を探し回ったんですが、それが中々見付かりませんで・・・
>熊:放(ほ)ってあるのか?
>五六:そんな悠長(ゆうちょう)なことをやってられますか。1人は小石川まで行って呉れてるんですが、ちょっと遠いし、いつんなるか分かったもんじゃねえんで、もう1人を千場(ちば)道場に行って貰ってやす。
>熊:あそこは剣術の道場だぞ。行くんだったら柔術の方だろう?
>五六:あそこしか思い付かなかったもんで。
>熊:まあ、大(おお)先生ならなんとかして呉れるだろう。
>五六:そうですよね? あのままなんてことになったら、あんまりにも可哀想(かわいそう)でやすからね。
>熊:おいら、親方に話といてやるから、三吉に付いててやれ。
>五六:良いんですかい?
>熊:あいつも独(ひと)りじゃ心細(こころぼそ)かろうからよ。

源五郎に報告すると、「怪我じゃ仕方ねえな」と言い、こんなことを言い出した。
「まだちょいと早いが、万吉と千吉に手伝いをさせてみろ」。

>熊:良いんですかい? まだ半年ですぜ。
>源:八の野郎から釘(くぎ)打ちを教わってただろう? それに、道具の扱(あつか)いも段々板に付いてきてるじゃねえか。
>熊:そりゃそうですが・・・
>源:お前ぇだって、早くあいつらに一丁前になって貰わねえと困るだろう?
>熊:おいらは、暫(しばら)くこのまんまでも良いと思っています。
>源:そうも行かねえんだよ。三吉と四郎にも、そろそろやる気を出して貰わねえと俺が困るんだ。
>熊:真逆、若隠居しようってんじゃないでしょうね?
>源:そんなことできるか。倅(せがれ)が玄翁(げんのう)を握(にぎ)れるようになるまでは、意地でも続けるさ。
>熊:それじゃあ・・・
>源:親父(おやじ)がそろそろ身を退(ひ)きてえって言いやがってよ。そうなると、余所(よそ)の親方どもの面倒まで見なきゃならなくなるだろう? お前ぇも含めて、だがな。
>熊:そりゃあ大変なことになりますね。
>源:何が大変なもんか。あいつらんとこは、家(うち)みてえに変わり者揃いって訳じゃねえからな。放っといてもなんとでもなるのよ。
>熊:そりゃ、とんだご迷惑をば・・・
>源:だからよ、万吉千吉はお前ぇに任(まか)す。好きなように教えてやれ。
>熊:へ、へい。分かりました。

源五郎が自分たちから離れていく。
いつかは必ず訪(おとず)れるものだと分かっていても、目出度(めでた)い話であると分かっていても、そういう気持ちになってしまうものである。
熊五郎の沈痛(ちんつう)な面持(おもも)ちを見て、八兵衛が尋ねてきた。

>八:どうしたんだ? 目刺(めざ)しを取り上げられちまった猫みてえな面(つら)しやがって。
>熊:変なもんに準(なぞら)えるんじゃねえ。
>八:そんじゃ、お預けを食らってる犬みてえだ。
>熊:食いもんのことしか思い付かねえのか、手前ぇは?
>八:だって、おいらにゃそんな風にしか見えねえんだもん、しょうがねえじゃねえか。
>熊:そうか。・・・あのな、三吉と五六蔵が抜ける分を万吉と千吉にやらせろって言われた。
>八:ほんとか? まだ見習いの身だぞ。
>万:良いんですか?
>熊:お前ぇたちはどうなんだ? 早く道具を持ちてえか?
>万:そりゃそうですよ。
>千:やらせてください。
>熊:そうだな。誰でもいつかは始めるこったからな。
>八:でもよ、落ち着いたら五六蔵は戻ってくるんだぞ。
>熊:それはそれで構わねえじゃねえか。手が増えればその分仕事が捗(はかど)る。それに・・・
>八:なんだ?
>熊:お前ぇがやる気を出して、一端(いっぱし)の親方らしくなるかも知れねえ。
>八:何を言い出すかと思(おも)や、おいらが親方だと? 弟子もねえのにか?
>熊:もしかすると、四郎と三吉を譲(ゆず)られることになるかも知れねえ。
>八:なんだと? 三吉とこの末成(うらな)りの夕顔(ゆうがお)をか?
>熊:それを言うんなら「末成りの瓢箪(ひょうたん)」だってんだ。
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