310.【つ】 『角(つの)を矯(た)めて牛(うし)を殺(ころ)す』 (2005.11.14)
『角を矯めて牛を殺す』[=角を直して〜]
少しばかりの欠点を直そうとして、却(かえ)って全体を駄目にする。枝葉の事に関わって、肝心な本体を損(そこ)なうこと。
類:●葉を欠いて根を断つ
出典:玄中記(げんちゅうき) 博物誌。中国六朝時代。東晋の郭璞(かくはく)。・・・調査中。
*********

八兵衛は、太市との約束が待ち遠しくて、仕事中も心ここにあらずという状態だった。
夕方に源五郎の家に引き返してきた時、土地買い占めの噂(うわさ)を聞いたことはないかと、皆に聞いてみた。

>五六:あっしは知りませんが、そう言や、お三千(みち)の奴が、奉公先から暇を貰っちまったとかで実家に戻ってきた娘さんがいるって言ってやしたねえ。
>八:そうか。お店(たな)を畳(たた)んじまったら、奉公人も要(い)らなくなっちまうんだもんな。
>熊:可哀想(かわいそう)に。そうやって割りを食うのは、いっつも下々(しもじも)なんだからな。
>五六:それで? どういう話なんでやすか、八兄い?
>八:坂田金時(さかたのきんとき)みてえな赤い顔した、坂田の太市ってお人を覚えてるか?
>五六:ええ、覚えてますよ。偉(えら)い学者さんでしょう?
>四:・・・あの、学者じゃなくって、元(もと)文士ですが。
>五六:おお、そうだったな。なんだか小難しいものを書いてたんだったな。
>八:そうよ。その太市の旦那がな、おいらに調べて呉れねえかって頼むもんでよ。
>熊:おいら「たち」にだろう?
>八:そんなのどっちだっておんなじだろ? ・・・そんでよ、力を貸してやろうってことなのさ。
>五六:また、淡路屋太郎兵衛が絡(から)んでるってんじゃねえでしょうね?
>八:そうかも知れねえぞ。なんてったって、おいらなんかとは違って、元手(もとで)をたんまり持ってる野郎だからな。
>熊:お前ぇのことなんか引き合いに出すなっての。
>八:お前ぇも、一々(いちいち)細かいことで兎や角(とやかく)言うなってんだ。
>五六:土地なんか買ってどうするってんでしょうね?
>八:そりゃお前ぇ、法外な値(ね)で誰かに売るに決まってんだろ?
>五六:そういうことですか。八兄いも中々鋭(するど)いですね。
>八:今頃気が付いたか。いつもみてえにお見逸(みそ)れしやがれ。
>熊:一切合財(いっさいがっさい)受け売りだろってんだ。

>友:その話なんですが、もしかすると、私が聞いた話と一緒かも知れません。
>八:友さん、知ってるのか?
>友:いえ、はっきりそうだとは言えないんです。私が聞いたのは、日本橋辺りに大きな天麩羅(てんぷら)屋を作りたがってるって人がいるという話なんです。
>八:天麩羅屋だと?
>友:はい。なんでも柳橋の辺りで結構繁盛(はんじょう)している田楽(でんがく)屋が、大坂で流行(はや)ってるらしいという話を聞いて、天麩羅屋を始めようと決心したといいます。
>八:しかしそれにしても、高々1本3文(=約60円)の田楽を売って儲(もう)かってるのか?
>友:その辺の事情については、さっぱり分かりません。
>八:へえ。天麩羅ねえ。・・・なんだか、腹が減ってきちまったな。
>熊:食い物の話をすると直(す)ぐそれだ。
>八:良いだろう。元気な証(あかし)だ。・・・なあ友さん。友さんも「だるま」に付き合わねえかい? 太市の旦那の奢(おご)りなんだ。
>五六:ほんとですかい? あっしも行って良いですかい?
>八:良いともよ。みんな纏(まと)めて面倒見るぜ。
>熊:お前ぇの銭じゃねえだろう?
>八:五月蝿(うるせ)えな。どうでも良いから、お前ぇはとっととお咲坊を迎えに行きやがれ。太市の旦那のご所望(しょもう)なんだからよ。
>熊:仕方ねえな。おいらは、あんまり気が進まねえんだがな。

お咲は、「え? あたしも行って良いの?」と、喜びを隠せない風である。
祝言(しゅうげん)以来、どこへも出掛けないで家に篭(こ)もりっ切りでは、致し方ないことであろう。

熊五郎とお咲が「だるま」に着くと、店内は客でごった返していた。まだ、6つ半(19時頃)にもなっていない。
そこへ八兵衛たち6人と、坂田太市にお咲で、都合(つごう)8人の大所帯(おおじょたい)である。
亭主はにこにこしているが、お町はそれどころではない。

>咲:お町ちゃん、あたしも手伝おうか?
>町:助かるわ。始めの内だけで良いから、ちょっとだけお願い。
>咲:はいはい。・・・でも、なんでこんなに混んじゃってるの?
>町:あっちの隅(すみ)にいる4人は坂田様のお付きなんですって。
>咲:お町ちゃん、名前、知ってるの?
>町:「粗相(そそう)のないように」って言われたのよ。どっかの偉い人なのね、きっと。
>咲:どうかしら? あたしたちがそんな偉い人と一緒に飲むと思う?
>町:八兵衛さんが来て、「よう、旦那」なんて言ったとき、吃驚(びっくり)しちゃったわよ。なんだか親しそうよね。
>咲:後で教えてあげるけどね、ああ見えて、お夏ちゃんに惚(ほ)れてたのよ。
>町:そうなの? なんだか面白(おもしろ)そうな話じゃない?

明るい内からちびりちびりと飲み始めていたのであろう、太市の顔は既(すで)に赤くなっている。

>八:熊が来るのがもう少し遅かったら、太市の旦那が酔い潰(つぶ)れてたところだぞ。
>熊:遅いってったって、そんなに大差はねえだろう?
>坂:八つぁん、前にも言いましたが、あたしはこう見えてもそれほど酔ってはいないのですよ。
>八:そうですかい? なんだか坂田さんが坂田金時の火事見舞いになってるって話にした方が面白いじゃねえですか?
>坂:はは。洒落(しゃれ)ですか。八つぁんも中々粋(いき)ですな。さ、ぐっと飲んで追い付いてくださいよ。
>八:そうですかい? こりゃ参りやしたね。なんだか集(たか)ってるみたいで・・・
>熊:「みたい」じゃなくって、そのものだってんだ。
>八:なんか言ったか?
>熊:飲み食いばっかりしてねえで、話を始めろってことだよ。
>八:あ、そうか。すっかり忘れちまってた。・・・旦那、そんじゃ、一発打(ぶ)ち噛ますとしますか。
>坂:相撲ではないのですから、「打ち噛ます」はないでしょう。
>八:ものの喩(たと)えですって。さ、始めてくださいまし。
>坂:始めろと言われましても、どこから始めて良いものやら・・・

>五六:ちょっと耳にしたんでやすが、日本橋の土地を買っているのは、天麩羅屋をやりてえってとこらしいじゃねえですか?
>坂:おお。これは随分とお詳(くわ)しい。五六蔵さんも隅に置けませんね。
>五六:いやぁ、これはここにいる友さんが聞いてきた話ですよ。
>坂:ほう、あなたが友さんですか?
>友:はい。友助と申します。1年半ほど前から、源五郎親方のところで世話になっております。
>坂:職替わりですか。商(あきな)いをしてらしたようですね。
>友:はい。両替商で手代を務(つと)めておりました。
>坂:成る程(なるほど)。両替商もここのところ、何かと風当たりが強いですからね。
>友:はい、仰(おっしゃ)る通りです。体(てい)の好い首切りです。
>坂:あなたのような優(すぐ)れた方を辞(や)めさせるなど、旦那さんも見る目がない。
>友:買い被(かぶ)らないでくださいまし。今の職の方が、案外性に合っているんですから。
>坂:玄翁(げんのう)を振ってるのですか?
>友:いえ。そちらの方は、素人(しろうと)に毛の生(は)えたようなものですので、材木などの買い付けのようなことをさせて貰ってます。
>坂:ほほう。適材適所ですか。確かに、無理に玄翁を握(にぎ)らせては駄目にしてしまいますからな。・・・好い親方の下に付けましたね。源五郎さんの評判はどこで聞いても上々です。
>友:それについては、まったくもってそう思います。

>坂:それで、その天麩羅屋のことなのですが、どこまでお聞きですか?
>友:柳橋辺りのなんとかというところだと聞きましたが、お店(たな)の名までは、はっきりとは。
>坂:「田伯楽(でんはくらく)」という名前です。田楽と伯楽を掛けた洒落のような名前ですな。天麩羅屋の名前も分かっています。「伯楽天」だそうです。白居易の白楽天の洒落のようです。
>八:なんだ、名前まで分かってるんじゃねえですか。旦那も人が悪いな。
>坂:いや、分からないのはここから先なのです。田楽屋風情(ふぜい)が買い集められるほど、日本橋の土地の値は安くないのです。誰かが、裏で糸を引いているのではないかと思うのです。
>八:やっぱりそうですよね? 田楽屋にゃ無理ですよね?
>坂:そうなのです。それに、1軒の天麩羅屋を出すにしては、大袈裟(おおげさ)な広さの土地を集めようとしているようなのです。
>八:太郎兵衛ですかね?
>坂:それは、どうやら違うようです。どなたかの働きで、いんちき道士(どうし)絡(がら)みの悪事を暴(あば)いてやったそうですので、西の方へ逃げているようなのです。
>八:そりゃ、おいらたちの働きだよ、旦那。幻祥(げんしょう)っていう八卦見(はっけみ)でしょう?
>坂:なんと。それは本当ですか? これは驚きました。益々以って尊敬しますよ、八つぁん。
>八:いやあ、それほどでも・・・

>熊:太郎兵衛じゃねえとなると、どこのどいつかを調べなきゃならねえってことですね?
>坂:そうなのです。あれほと大掛かりに土地を買い占められてしまいますと、不当に値が吊り上がって、庶民は愚か、お上(かみ)まで手を出せなくなってしまいます。
>熊:お上までですかい?
>坂:そうです。これは由々しきことなのです。
>八:止(や)めさせなきゃいけねえんですね?
>坂:そうです。・・・唯(ただ)、お上が直(じか)に手を下(くだ)してしまうと、何かと障(さわ)りがあるのです。日本橋一帯のお店の全てを敵に回すようなことになり兼ねない訳でして・・・
>八:おいらたちがやったってことにしてえと?
>坂:そういうことなのです。なんとかしていただけませんか?
>八:良うがす。おいらが引き受けちまいましょう。
>熊:おい。家(うち)を建てろってのとは訳が違うんだぞ。
>八:大丈夫だって。太市の旦那から頼み込まれちゃ、断わる訳には行かねえよ。・・・ねえ、旦那?
>坂:こちらとしても、出来る限りの力添(ぞ)えはいたしますから。どうか宜しくお願いします。
>熊:参ったね、どうも。・・・それじゃ、黒幕が誰だか分かったときにでも、もう1回話をさして貰うってことでどうです?
>坂:承知しました。そういうことにしておきましょう。
>八:するってえと、もう1回ご馳走に与(あずか)れるんですかい? うっひょう。こりゃあ良い。おいら、一肌も二肌も脱(ぬ)いじまいますぜ。
つづく)−−−≪HOME