第30章「泣き落とし三吉の泣き言(仮題)

259.【そ】 『滄海(そうかい)の一粟(いちぞく)』
 (2004.11.22)
『滄海の一粟』[=大海の〜]
1.大海に浮かんでいる一粒の粟。広大なものの中の極めて小さい存在の喩え。
2.宇宙の中における人間の存在。その儚(はかな)さの喩え。
類:●大海の一滴九牛の一毛
出典:蘇軾の詩「前赤壁賦」
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信州では天明3年(1783)以来大人しくなっていた浅間山(あさまやま)が火を吹いた。
山焼け(=噴火のこと)の灰の影響で、農作物に甚大(じんだい)な被害が出ているらしい。
そうかと思うと、越後(えちご)では先月から地震(なえ)が群発しているらしい。
江戸で揺れを感じたものも、2つや3つではなかった。
甚兵衛長屋の井戸端(いどばた)でも、「もう世も末かねえ?」などと囁(ささや)かれている。

>熊:五六蔵、お前ぇ、田舎(いなか)が心配にはならねえのか?
>五六:そりゃあ、心配は心配でやす、結構近いとこですからね。でも家(うち)のもんは、先の変事(へんじ)んときだって、誰1人死にもしねえで生き延びてやすからね。ちょっとやそっとの煙くらいで、がたがた騒(さわ)いじゃいられませんや。・・・それより、越後の地震の方が大事(おおごと)でやすよね。
>熊:そうだな。豪(えら)いことになってるみたいだもんな。
>五六:信州は、蕎麦(そば)の実の取り入れさえ済ませばなんとかやっていけやすが、越後じゃ米の取り入れは済んでるんでやしょうかねえ?
>八:済んでるようだぜ。・・・おいらが内房(うちぼう)のご隠居から聞いた話じゃよ、造り酒屋の樽(たる)が壊(こわ)れちまって、献上用の酒がみんな土に吸われちまったんだとよ。越後の土は今頃ほろ酔い機嫌(きげん)のご機嫌さんらしいぞ。
>熊:馬鹿なことを言ってるんじゃねえっての。・・・酒樽(さかだる)なら作り直しもできるが、家が壊(こわ)れちまったとなったら、建て直すまでには時が掛かるぜ。もう直(す)ぐ雪が降り出すってのにな。
>八:なんだ? 家が壊れちまったとこが多いのか? そんじゃ、雨曝(あまざら)しか?
>熊:雨ならまだしも、雪だぞ。越後の雪となると5寸や1尺じゃねえぞ。
>五六:軒下(のきした)まで積もるそうですぜ。
>八:ひええ。凍(こご)えちまうな。そりゃあ大変だ。・・・しかし熊、お前ぇ、越後のことに随分詳しいじゃねえか。
>熊:聞いたんだよ。おいらが江戸から一歩も出たことがねえくらい、お前ぇだって知ってるだろ。・・・富山の薬売りの言うことだから、間違いねえと思うぜ。

>八:富山の薬売りだ? なんでお前ぇがそんなのと話をするんだ?
>熊:おいらじゃねえさ。磯次郎から聞いたんだとよ。その磯次郎は旦那の園部屋(そのべや)さんから聞いたそうだ。
>八:お前ぇが磯次郎と話すとは思えねえがな。
>熊:だから、偶々(たまたま)ばったり会ったって、お咲坊がよ・・・
>八:なんだよ。おいらの知らないとこで、こそこそと2人きりで会ってやがったのか?
>熊:そ、そういうんじゃねえよ。井戸端でみんなと話してたんじゃねえか。お前ぇは、寝坊(ねぼう)してるから聞きそびれちまうんだよ。変な風に受け取るな。そういうのをな、下衆(げす)の勘繰りって言うんだよ。
>八:なんだと? おいらのどこが下衆だってんだよ。
>熊:おいらがお咲坊から聞いたって言っただけなのに、まるで逢引きかなんかしてるみたいに・・・
>八:そりゃあお前ぇ、嫁入り前の娘と独り身の男が会ってるんなら、逢引きかも知れねえって思うのが人情ってもんじゃねえか。それも、お互いに憎からず思ってるとなりゃ、尚更(なおさら)だ。
>熊:だから2人きりで会ってた訳じゃねえんだって。
>八:ほんとか? 怪しいなあ。
>熊:嘘だと思うんならな、お花ちゃんにでも手前ぇの母ちゃんにでも聞いてみろ。
>八:そう熱くなるなってんだ。ちょいと揶揄(からか)っただけじゃねえか。

朝から物笑いの種(たね)にされて、熊五郎はご機嫌斜(なな)めであった。
そう言えば、ここ暫(しばら)くは忙しくて「だるま」へも出掛けていなかった。適度の息抜きができていないことも、原因の1つであるのかも知れない。
どうして急に忙しくなったのか、追い立てられるように次から次へと仕事を請(う)けてくるのか、友助に聞いてみた。

>熊:ねえ友さん、まだ師走(しわす)まで間があるってのに、どうしてこんなに急ぐんですかい?
>友:親方と話し合って決めたことです。私の勘違いであって呉れれば良いですけど・・・
>熊:どういう裏があるんです?
>友:両替商時代の経験から思ったことなんですが、天災が起こった後には、色々なものの値(ね)が上がるのです。
>熊:天災って、越後の奴ですかい?
>友:そうです。それに、信州のもです。
>熊:材木の値が上がるってことですかい?
>友:多分間違いないでしょう。
>八:そりゃあ、どういう絡繰(からく)りなの? 風が吹くと桶屋が儲かるってんじゃないでしょうね?
>友:似たようなもんですが、もっと造作(ぞうさ)のないことです。・・・この辺りに入ってくるのは大方が武州(ぶしゅう)からですが、武州材が足りなくなると、信州から回して貰うことになります。実は、信州材も世にはたくさん出回っているんです。
>八:成る程ねえ。そこまでは分かりますよ。で、それから?
>友:山焼けで信州の木材が減るのも1つの理由ですが、広い信州にしてみれば大した損害ではありません。ですが、信州の材木が越後に流れてしまったら、江戸の材木は急に品薄(しなうす)になることでしょう。況(ま)して、火事の多い冬なのですから。

>八:はあ、恐れ入ったね。先の先まで考えちまってるってことだな。ふうん。
>熊:それなら、今のうちに材木を買い占めちまえば良いんじゃねえんですかい?
>友:そんなことをすると、材木商が過敏に反応して、あっという間に値が吊り上がってしまいます。それでは意味がないのです。
>熊:意味がないってのは、どういうこって?
>友:昨日までと同じ仕事をして手間賃が二層倍では、仕事をくだすった家主(いえぬし)さんに言い訳が立ちません。飽くまでも、源五郎親方のところは良心的な値で仕事をするってことにしたいんです。
>熊:成る程ね。親方と友さんは人間がでかいですねえ。それに比べて、おいらなんざ蚤(のみ)ほどもねえ、ちんけなもんですよ。
>八:するってえと、材木の値が上がった途端に仕事をしなくなるってことですかい?
>友:手間賃の話し合いで折り合わなければってことですけどね。でも、暫くは休んだ方が良いように思います。
>八:そんじゃ、下手(へた)をすると明日っから当分は仕事なしってことも有り得るんですかい?
>友:無いとは言い切れません。
>八:そんじゃあ、正月前だってのにのんびりできるってことですよね? やったあ。
>熊:「やった」ってお前ぇ、その間おいらたちだって稼(かせ)ぎがなくなるんだぜ。
>八:そんなのここ半月の仕事っ振りで元を取ってるんだろ? そんなら良いじゃねえか。暢気(のんき)にやろうぜ。
>熊:こいつはおいらよりもちんけな野郎だな、まったく。

友助と源五郎が予想したように、2日後に材木の値段が跳ね上がった。
源五郎から「当分休みにする」という決断が言い渡された。
その晩、熊五郎たちは、久方振りに「だるま」の暖簾(のれん)を目指した。

>八:いやあ、久し振りだねえ、ほんと。偶(たま)にはあの親爺(おやじ)の不味(まず)い煮っ転がしを食わねえと、身体(からだ)の調子が悪くていけねえ。
>熊:言ってることは無茶苦茶だが、まあ、言わんとしてることは良く分かるぜ。
>八:なあ熊よ。お前ぇはまだ知らねえだろうが、新しい娘が手伝いに来てるんだぜ。
>熊:ほんとか? だってお花ちゃんがまだやってるんだろう?
>八:少しずつ減らしても良いってよ。今じゃ3日に1回は休みだ。ちゃんと家で夕飯を一緒に食ってるよ。
>熊:そうなのか。・・・ははあ、そういう訳で無理には誘ってこなかったんだな?
>八:まあな。だがよ、正直言って、疲れ過ぎちまってたってのもほんとのことだからな。
>熊:そりゃそうだ。おいらだって這(は)って帰るって感じだったもんな。
>八:おいらは行っても良かったんだけどな。ちょっと訳ありでよ。
>熊:なんだ、隠しごとか? お前ぇ、嫁を貰ってからこっち、なんだか質(たち)が悪くなったんじゃねえのか?

>八:そんなことあるか。喋(しゃべ)る暇がなかっただけだよ。・・・それがよ。とんでもな別嬪だってことらしいぜ。
>熊:ほんとか?
>八:おいらは見たことがねえけどよ。・・・なあ三吉?
>三:へ? ああ、まあ。へへへへ。
>熊:なんだよ。妙な笑い方してやがるな、こいつ。
>三:実は、例の8番目の娘なんですよ。見合いの。
>熊:なんだと? するってえと何か? それなりに旨(うま)い具合いに行ってるってことなのか?
>三:そうと決まった訳じゃありませんよ、勿論。お咲ちゃんとは仲良しのように見えますけど。
>熊:なんだお前ぇ、おいらたちに内緒で行ってたのか?
>三:済みません。疲れが吹っ飛ぶんですよ、なんだが。
>八:けっ。言って呉れるじゃねえか。現物を良うく見てから、この八兵衛さんが見極めてやるからよ。
>三:へへ。お手柔らかにお願いします。

男という生き物は、嫁があろうが心に決めた相手があろうが、美人には目がないものである。
八兵衛に至っては、当の嫁のお花がいると分かっていながら浮き浮きと歩いている。
所詮(しょせん)は、どこにでも転がっている「唯(ただ)の男」ということである。

>八:親爺い、来てやったぜ。・・・っと、なんだ、この混みようは?
>亭主:よう、八公。もう二度と来ねえかと思ったぜ。まあ、来ちまったもんは仕方がねえ。お花ちゃん、済まねえがそこの客を寄せて、卓を空けてやって呉れや。
>花:はい。・・・いらっしゃい、熊五郎さん。それに皆さんも。
>五六:どうなっちゃってるんでやすか? こんなに一杯になったのなんか随分久し振りじゃねえですか?
>花:落ち着いたら紹介しますね。お町ちゃんっていうの。美人よ。ねえ、三吉さん。
>三:えへへへ。
>八:だらしなく笑うなってんだ。・・・まあなんでも良いや。忙しそうだから冷やのまんまで良いぜ。それと煮っ転がし。
>花:ね? 凄いでしょ? 半分以上はお町ちゃん目当てのお客さんなの。どこから噂を聞き付けてくるんだか、入れ替わり立ち代わりってとこよ。
>熊:どいつもこいつ下心が丸見えだぜ。
>三:どうせ、相手にもして貰えねえのにねえ。お町ちゃんにとっちゃ、みんな南瓜(かぼちゃ)にしか見えてねえっての。
>熊:なんだ? まるで、お前ぇだけしか見てねえような言いっ振りだな?
>八:あんまり逆上(のぼ)せ上がるなよ。お前ぇはおいらと違って、まだ駆け出し者ひよっこなんだからよ。
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