228.【し】 『出盧(しゅつろ)』 (2004/04/19)
『出盧』
「盧」は、庵(いおり)のことで、隠遁(いんとん)の草庵のこと。世間を逃れて隠遁していた者が、再び世に出て、官職などに就いて活躍すること。
故事:「三国志」 諸葛孔明が劉備の三顧の礼に感激して、草廬を出て仕官した。
出典:三国志(さんごくし) 192 呉下の阿蒙 参照。
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源蔵は、四郎の稚児(やや)の名付け親になっても良いと請(う)け合った。
「金吾」なんて付けるんじゃねえだろうなという源五郎の嫌味(いやみ)も軽く受け流し、慶二のために考えていたものが幾つかあると胸を叩いた。

>棟:茂太に智太に昌太に達太。どうだ? 然(さ)もなきゃ、太一なんてのもあるぞ。
>源:なんだよ、男ばっかりじゃねえか。女かも知れねえんだぜ。
>棟:お美奈におそのにお麻巳にお晃(あき)なんてのはどうだ? 然もなきゃ早苗とかさゆりなんてのも良いぞ。
>源:なんだってそう色々と湧(わ)いて出るかね。
>棟:そんなの当たり前じゃねえか。自分の孫なんだぞ。孕(はら)んだと聞いたその日から考えてりゃ、10や20くらい造作(ぞうさ)もねえことだろう。
>源:そういうもんかね。
>棟:お前は冷たいんだな。自分の稚児だってのに、可愛くねえのか?
>源:可愛くねえ親なんかいるか。
>棟:それじゃあ、お前が考えていた名前を挙(あ)げてみろ。
>源:そんなもん、今更言ったって始まらねえだろう。
>棟:ははあ。さては、考えてなかったな? 産まれてから決めりゃ良いなんて思っていやがったんだろう? 嗚呼(ああ)、まったく情けねえ。お前ぇって奴は、本当に人でなしだな。
>源:そうじゃねえって。なんでもかんでも勝手に決め付けるな。
>棟:それじゃあ言ってみろ。俺が判断してやるからよ。
>源:あ、あま・・・、「甘太郎」か「おやつ」だ。
>棟:なんだと? そりゃあ、亡くなったあやの両親の名前じゃねえか。
>源:も、文句あるのかよ。
>棟:そうか。お前ぇ、丸っきり唐変木(とうへんぼく)って訳でもねえんだな。・・・ちっとは安心したぜ。
>源:母ちゃんには黙ってて呉れよ。
>棟:分かってるって。俺の口が堅いのを知らねえ訳でもあるめえ?

まったく顔から火が出るようなことを言わせやがってと、源五郎は仕事場へと逃げ込んだ。
6人の弟子たちがいない仕事場は火が消えたように静まり返っている。
静(しずか)と源太は慶二のことに夢中らしく、夕飯もそこそこに、奥の間に引っ込んでしまっている。
こういう幸福も良いなと、暫(しばら)く道具類に触れて回り、やがて、帰るべき部屋へ戻っていった。

その頃「だるま」では、八兵衛が酔っ払い始めていた。

>八:よう、半次。お前ぇんとこはどうなんだ?
>半:どうって、何がだ?
>八:稚児に決まってんじゃねえか。まだできねえのか?
>半:そんなこと、俺に分かる訳ねえじゃねえか。・・・そうなりゃ、お八重がなんとか言って呉れるだろうよ。
>八:腹のでかい菜々ちゃんを毎日見てたら、自然に腹が膨れてきたりしねえか?
>半:するか、そんなもん。
>八:ものの序(つい)でだ。作っちまえ作っちまえ。こうなりゃ自棄(やけ)だ、熊、手前ぇもとっとと作っちまえ。
>熊:おいらにまで言うことねえだろう。
>八:お負けにもひとつ、友さん、あんたも身を固めた方が良いぞ。
>友:私はお負けですか・・・

>三:八兄い、どうしちまったんですか? 酔っ払っちまったんですか?
>八:これくらいで酔うかってんだ。楽しくって幸せなことは、のろのろやってねえで、さっさとやっちまえってことよ。そうだろ?
>三:そりゃそうでやすが。じゃあ、八兄いはどうするんですか?
>八:おいらか? そんなこと三吉が心配することじゃねえ。おいらはだな、今までこそ、娘どもを寄せ付けねえで生きてきたがよ、重い腰を上げりゃ、寄ってくる町娘なんかごまんと・・・
>熊:分かったから、もう飲むな。
>八:なんだと? お目出度(めでた)い日だってのにそうしみったれたこと言うなよ。・・・おーい、お花ちゃん。お銚子3ぼーん。それと、お花ちゃんもこっち来て飲まねえか? 今日はな、親方んとこに稚児が生まれた目出度い日なんだ。

お花は「はーい」と答えたものの、客と一緒になって飲むことなど考えたこともなく、唯(ただ)うじうじとしていた。
「うちはそういう飲み屋だから構わねえよ」と亭主から言われて、決心をした。

>花:お待ちどうさま。でも、こんなに飲んで大丈夫なの?
>八:なあに。こんなもん、飲んだうちには入らねえって。・・・どうだい、ちょこっとだけでも座ってかねえかい?
>花:でも・・・
>熊:無理強(じ)いはするなよ。
>花:無理強いだなんて、そんなことはないんだけど、あたし、お酒はそんなに・・・
>八:舐(な)めるだけで良いさ。一緒に、親方んとこの「幸せのお裾分け」ってのを、分かち合おうってんだ。別に深い意味はねえさ。
>花:「お裾分け」? ・・・素敵ね。じゃあ、そうまで言うんなら、ほんとにちょっとだけね。
>八:そうこなくっちゃ。三吉、注いでやれ。
>三:へ、へい。それじゃあどうぞ。
>花:今日だったんですか。お目出度うございます。
>八:別に、おいらたちが言われるようなことじゃねえんだけどな。
>花:でも、甥(おい)ごさんや姪(めい)ごさんが生まれたのと同じじゃありませんか。名前は?
>八:「慶二」だってさ。慶長小判が二枚。
>花:へえ。男の子ね。それに、お目出度い名前。喜びが2つってことでしょう?
>八:そうなのか?
>花:だって、「慶祝行事」とかって言うじゃない。
>八:へえ、お花ちゃんって頭が良いんだ。凄(すげ)えな。
>花:そんなの、ちっとも凄くないわよ。あたしなんか・・・
>三:そんなことどうだって良いじゃないですか。乾杯しましょうよ、ね? そんじゃ、かんぱーいっと。

お花はくいっと酒を呷(あお)ると、猪口(ちょこ)の飲み口を拭(ぬぐ)い、卓に伏せて、台所へ引っ込んでいってしまった。
八兵衛は、朧(おぼ)ろな頭で、拙(まず)いことを仕出かしてしまったのかと、ちょっとばかり不安になっていた。
八兵衛には、その後の記憶がない。

>八:あいたたたた。なあ熊よ、おいらたち昨夜(ゆうべ)何を話してたんだっけ?
>熊:五六蔵と四郎の稚児にはどういう名前が良いかってことだ。
>八:ああそうか。そんで、結論は出たんだっけ?
>熊:出る訳ねえだろ? お前ぇが早々に潰れちまいやがったんだからな。
>八:なんだよ。おいらのこと抜きで決めちまえば良かったじゃねえか。なんだよ、おいらが混ざらねえとなんにも決められねえのか? だらしがねえな。
>熊:何を言ってやがる。自分のことは棚に上げやがって。お花ちゃんに絡(から)みやがって、まったく。
>八:何? おいら、絡んだのか?
>熊:ああ。そうだ。
>八:そんで? お花ちゃんは怒ってたか?
>熊:怒っちゃいねえさ。でもな、あんまりしつこくするなよ。お花ちゃんだって嫁入り前なんだからな。
>八:・・・そうか、怒っちゃいねえか。良かった。
>熊:お前ぇ・・・?
>八:ん? なんだ?
>熊:いや、なんでもねえ。・・・おらおら、愚図愚図(ぐずぐず)してねえで、とっとと顔を洗ってきやがれ。

そんな朝、源蔵の元を訪ねてきた者があった。
角蔵(かくぞう)というその男は、件(くだん)の「金吾」の父親の、元(もと)大物の棟梁である。今では隠居して左団扇(ひだりうちわ)で暮らしている筈であった。

>棟:どうしたんですかい、そんな形(なり)しちまって。隠居してたんじゃねえんですか?
>角:朝っぱらから済まねえな。
>棟:そんなことはどうでも良いんですよ。年を取ると、朝が早くて適(かな)わねえ。・・・それで?
>角:ちょいと若いもんを2人ばかし貸して貰いてえんだ。
>棟:そりゃあ良いですが、訳は聞かして貰えるんでしょうね?
>角:勿論(もちろん)だとも。だがな、刻(とき)があんまりねえんだ。話は1回で済ましてえから、その若いもんも一緒に呼んで貰えねえか?
>棟:分かりやした。丁度うちの倅(せがれ)と、その子分どもが揃(そろ)ってるようだから、仕事場の方へ回って貰っても良いですかい? 誰を行かせるかは倅に決めさせやすんで。
>角:源五郎か。もう一端(いっぱし)の大工になったことだろうな。

角蔵の話というのは、こんなものであった。
以前改築を請け負った然(さ)る藩の上屋敷(かみやしき)が火を出した。その建て直しには倅の金吾を当たらせるとして、延焼させてしまった長屋2棟の世話も見なければならなくなり、手が足りなくなってしまった。間もなく梅雨の時期がやってくるので、急ぐのは当然だが、一先ず、仮住まいができるような簡易住居を建ててやらねばならない。

>棟:そういうことでしたか。それなら、協力させて貰いますよ、棟梁。
>角:有難い。・・・それで、早速今日からなんだが、それでも良いかい?
>源:今日からですかい? そりゃあ・・・
>棟:お前ぇを混ぜて7人もいるんだ。2人や3人抜けたからって、そうそう遅れやしねえだろう?
>源:うん。まあ、事が事だからな。・・・それじゃあ、八と三吉。行ってやれ。
>八:お、おいらですかい? あの、二日酔いなんでやすが・・・
>源:お頭(つむ)は鈍(にぶ)ってても、手足はちゃんと動くだろう。任(まか)せたからな。
>八:そんなら、もう1人付けてくださいよ。2人だけじゃ忙(いそが)し過ぎますよ。
>源:駄目だ。五六蔵も四郎も、今日明日にゃ生まれるってときなんだ。途中で抜けたりしたら先様にも迷惑だろう。
>八:ああそうか。仕方ねえな。・・・しかし、なんでこんなときに生まれてくるんだ? まったくよ。
>源:そんなのこいつらのせいじゃねえだろう。ほれ、とっとと出掛けやがれ。
>棟:それで? 指図(さしず)は角蔵さんのところで都合を付けてくださるんで?
>角:生憎(あいにく)出払っちまっててな。仕方がねえんで俺が出張(でば)るよ。耄碌(もうろく)しちまったが、何とかなるだろう。昔取ったなんとかってやつだな。
>棟:へえ、こりゃあ有難え。・・・こら八、勿体無くも角蔵棟梁が直々に面倒を見て呉れるそうだ。しっかり勉強させて貰えよ。
>八:へーい。
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