184.【こ】 『光陰(こういん)矢の如(ごと)し』 (2003/06/09)
『光陰矢の如し』
月日が過ぎるのは、飛ぶ矢のように非常に早い。だから無為に送るな、という戒めの意味を含む。
類:●光陰逝水の如し●Time flies (like an arrow).<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
出典:李益「遊子吟」 「光陰如箭」
人物:
李益(りえき) 中唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威市南)の人。字(あざな)は君虞。748−827。大暦4年(769)進士に及第。地方官を歴任していたが、詩名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に抜擢、後に礼部尚書にまで至った。大暦十才子の一人で、当時、李賀と並び称された。嫉妬深い性格から「妬癡尚書李十郎」と呼ばれたという。
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どうやら桃池五條の方は新山隼人が気に入ったらしい。
それになんとなく気付いたのか、隼人の泣き上戸も、嬉し泣きに変わっているようである。
そんな頃合いに、奉行・根岸が現れた。

>根:新山、また泣いておるのか?
>隼:お奉行、遅いではありませんか。
>桃:お奉行様? ・・・で、御座いますか?
>根:根岸である。不束(ふつつか)な部下を持つと苦労させられる。・・・大方、見事(みごと)に断わられて落ち込んでおるのであろう?
>桃:そ、そのようなことは御座いません。不肖の娘は、隼人殿が殊(こと)の外(ほか)気に入ったようで、先ほどから恥じ入ってのの字なぞを書いております。
>根:なんと。これは瓢箪から駒である。ご老体のことも偶(たま)には当てにしてみるものだな。
>内:なんというものの言いようですか。そもそもことの起こりはですね・・・
>根:もう良いではないか。目出度い席に小言は禁物であろう。
>内:またそうやってお逃げになる。名奉行が聞いて呆れます。
>根:そう下げるでない。今宵は新山の後見人だぞ。もう少し増しな男だということにしておかぬと、新山の印象にも箔が付くまい?
>内:もう遅う御座います。・・・但し、新山様は、そんな暢気な上役の下で真面目(まじめ)に働く立派な方だということになっております。それで良う御座いますな、五條殿?
>五:はい。ご立派で、可愛らしいお方です。
>根:何? 可愛らしい? これは凄(すげ)え。俺もそこまでは気が付かなかったぜ。ふむ。・・・いやあ、そこもとは中々人を見る目がある。新山には勿体無いような女子(おなご)であるな。
>五:いえ、そのような・・・
>桃:そのような有り難いお言葉をいただいては、この話、纏(まと)めぬ訳には参りませぬな。

奉行の登場に酔いが覚めたのか、五條も隼人も平静を取り戻していた。
竜之介だけだけが、こっくりこっくりと、座ったまま舟を漕(こ)いでいた。

>猪:これ、竜之介。起きぬか。これ・・・
>八:起きねえみたいでやすね。放っときゃ良いんじゃねえですか?
>猪:お奉行様の御前で居眠りなど、許される訳なかろう。
>八:平気ですって。なんてったってご隠居さんの碁(ご)の仲間なんでやすから。ねえご隠居、このまま寝かしといても良いですよね?

>根:先ほどから気になっておるのだが、そちらに控えておる町人風体の者たちは何者なのだ?
>内:丸い方が八つぁんで、ひょろっとしてるのが熊さんといいます。読売りの太助という者のことはご存知ですよね? その太助と同じ長屋に住んでおります。
>根:で? その八つぁんと熊さんとやらがなぜここにいるのだ?
>内:それは、お奉行様が延ばし延ばしにしていることを、このようにてきぱきと進めて呉れたんじゃありませんか。
>根:何? 町人風情がか?
>内:そうで御座いますとも。町人だといっても、何にもしないお武家様なんかより、よっぽど役に立って呉れます。
>根:ううむ。耳の痛いことをずばりと言って呉れるではないか。・・・まあ良い。ご老体がこの場に呼んだのであれば、お構いなしと致そう。
>内:そのような、お白州で使うような言い回しはお止めください。折角の円満な雰囲気が壊れます。
>根:そ、そうか。これは済まん。・・・八つぁん熊さんとやら、今宵は無礼講である。心行くまで飲食していって呉れ。
>八:やったあ。そんじゃあ、お酒の追加も貰って良いんでやすね?
>根:無論である。
>八:摘みは若先生の食べ残しで十分でやすから、どしどし持ってきてお呉んなさい。・・・あ、そうだ、隼人さんと五條さんにもたんまりと飲ましちゃいましょう。
>2人:い、いえ。もう沢山(たくさん)。

やがて、悪乗りした八兵衛に頭をぽかりとやられて、竜之介が目を覚ました。

>竜:な、何事か? 敵襲であるか?
>八:そんな訳ねえじゃありませんか、若先生。
>竜:そ、そうか。見合いの席であったか。桃園(とうえん)で義を結ぶ夢を見ておった。確かに、敵が来る場面ではないな。
>根:ほう。そちは三国演義に詳しそうであるな?
>竜:そういう主(ぬし)は何者であるか? 大層立派な形(なり)をしておられる。さぞや名のある武将かと存ずる。名を名乗られよ。
>千:これ、竜之介。粗相があってはならぬ。
>根:良い良い。拙者は根岸と申す。
>竜:そうであるか、我は上総の銚子竜之介である。銚子竜ここにありーっ。・・・はて、根岸殿といわれると、南の奉行と同じ姓であるな。ご家中であるか?
>根:その者である。
>竜:へ? ・・・ぶ、奉行殿であるのか? 何故このような辺境の旅籠になど・・・
>根:何も知らずに列席していたのか? 新山の上役である。
>竜:こ、これは、また、奇遇である。我は、桃池殿の友人である千場道場の元門下で、詰まるところ、全くの他人である。なぜ呼ばれたのか我自身も良く分かっておらぬ。

>内:ご相談を受けていたではありませんか、竜之介様。お生まれになった稚児(やや)のお名前のことで。
>竜:それはそうであるが、なにも見合いの席でそのような・・・
>内:ここにおられる根岸様は、唐(から)の国の書物にはかなり造詣が深いというものですから、いっそのことこの場を借りて聞いてみてはいかがかと思った訳ですよ。出過ぎた真似(まね)でしたか?
>竜:そのようなことは御座らぬが、奉行に申し立てるほどのことではなかろうかと・・・
>根:良い。新山のことでは世話になったようであるし、特別に話を聞こうではないか。
>竜:しかし・・・。一庶民の家内の事情に付き、然(さ)しもの我でも言上し難い。
>内:それでは、あたしの口から経緯をお話しましょう。

妻の聡(さと)との口論から始まって、義母の生家・水野家の件までを、整然と説明した。
根岸は、「ふむ」と呟いてから、暫(しば)し考え込み、やがて徐(おもむろ)に片肌を脱ぎ、片膝立てになった。

>根:1つだけ申し開きを聞こう。名は誰のために付ける? 親か、家か、子か、それとも周りの者たちの評判か?
>竜:周りの評判というのも否定はできぬが、そういう聞かれ方をすれば、子のためと答えねばなるまい。
>根:そうか。親たるものの自覚は持ち合わせておるようだのう。・・・さて、裁く前に1つ話をしておこう。こういうのを存じておるか? 唐の国では、字(あざな)というものがかなり重視されておる。歴史上に名を残している者は、好意的に、或いは、尊敬の気持ちを込めて字で呼ばれる者が少なくない。例えば、劉備だが、その字はなんと申した?
>竜:玄徳である。
>根:そうだな。では、名は何だ?
>竜:はて?
>根:備だよ。一文字で、「備」だ。関雲長は「羽」、張翼徳は「飛」である。更に、超子龍は「雲」、つまりクモだ。
>竜:うーむ。
>根:長男の字に「伯」を使うこともある。その場合、二男は「仲」で、三男は「叔」となる。
>竜:うーむ。
>根:そもそもが、儂(わし)らの姓名とは違っておろう?
>竜:とても我が子の名前に使えそうなものはないようである。しかし、1文字借りるくらいであれば・・・
>根:そうよな。そのくらいなら良かろうな。しかし、子は授(さず)かりものである。お主の希望ばかりを通しても、1人では格好が付かぬやも知れぬし、5人以上ではあぶれる者が出るやも知れぬ。・・・今は決められぬのだ。それで良いな?
>竜:うむ。
>根:では、申し渡すぞ。・・・稚児が元服するまでは、その名を決めてはならぬ。その後決めるに当たっても、お主の意向ばかりが強く出ていると思える名を付けてはならぬ。もし従わぬようであれば、江戸所払いとする。
>竜:ははあ。
>根:とは言ったものの、赤子が大人になるのなどあっという間だ。名前をどうするかなんていう下らないことに
現(うつつ)を抜かしてるくらいなら、剣術を教えるとか、学問を教えるとかに心を傾けるべきだと思うが、どうかな?
>竜:正(まさ)に。目から鱗(うろこ)が落ちたようである。では早速(さっそく)菖蒲(あやめ)丸に読み書きを教え込むとしよう。では、さらばである。

竜之介は、独りさっさと引き上げてしまった。本当に了解したかどうかは疑わしいが、当面の悩みは解消されたようだ。
隼人と五條も、今や殆ど素面(しらふ)で、奉行の裁きに見入っていた。
「拙者も稚児が欲しくなりました」と、隼人が呟くと、五條は「まっ」と顔を赤らめた。

>八:あっ、いけねえ。
>根:どうかしたのか? 八兵衛とやら。
>八:あ、いえね、そんなこと言うもんだからうちの棟梁のこと思い出しちまいやして。
>根:それが?
>八:棟梁ったら、孫が強く育つようにって武者人形の話ばっかりしてるんでやすがね、この国には端午の節句にゃ餅を食うっていう、立派で学問的な行事があるってのを、きっと忘れちまってるに違いねえ。
>熊:また食いもんの話かよ。
>根:なるほどの、それも学問的かの。・・・ご老体。どうだ? 世話になった例だ、代金は儂が出すから、その棟梁のところに柏餅を届けてやっては呉れぬか?
>内:お安い御用です。
>八:やったあ。今年の節句こそは死ぬほど美味いもんが食えるぞ。
>熊:喉に詰まらせて死ぬなよ。・・・何を考えて30年以上も生きてきてるんだか。まったく、お前ぇほど時間を無駄に過ごしてる奴も珍しいぞ。
(第20章の完・つづく)−−−≪HOME