165.【く】 『暗(くら)がりから牛(うし)』 (2003/01/27)
『暗がりから牛[を引き出す]』
1.暗いところに、黒い牛がいるのは矢鱈(やたら)に黒いばかりで、何が何やらはっきりしない。ものの区別がはっきり付かないこと。
2.動作が鈍(のろ)くて、はきはきしていない人のこと。 用例:浮・西鶴置土産−5「まことに暗がりから牛を引き出すごとくに、楽寝をおこせど目を覚さず」
類:●闇に烏(からす)●暗闇から牛を引き出す
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そんな頃八兵衛は、静(しずか)を引き受けたのを後悔し始めていた。
頭を叩く癖くらいなら笑って許せるのだが、木履(ぼっくり)で脛(すね)を蹴(け)られては堪(たま)らない。

>八:静嬢ちゃん、八は鞠(まり)や野良犬じゃないんですよ。
>静:あははは。
>八:分かってるんですかい? それにですよ、蹴飛ばすなんてことは女の子がしちゃあいけないことですぜ。
>静:いけない?
>八:そうですよ。いけないんです。
>静:あはは、いけない、いけない。あっぷっぷぅ。
>八:駄目だこりゃ。全然分かってねえ。
>咲:まだものの良し悪しなんか分かるもんですか。3つ〔数え年〕になったばっかりなのよ。
>八:もう3つだから、痛(いて)えんじゃねえか。それに当たるのが、ものの見事に弁慶の泣き所なんだからよ。それでなくたって昨夜(ゆうべ)敷居に蹴躓(けつまず)いて、しこたまぶつけたとこだってのに・・・
>あや:御免なさいね、八兵衛さん。棟梁が蹴られて喜ぶものだから、良いことをしてるって思い込んじゃってるみたいなのよ。いけませんって教えてるんですけどね、そうしたら今度は、睨めっこをしてると勘違いしちゃって大はしゃぎ。
>八:ある意味で、そりゃあ凄(すげ)え。よっぽど腹が据わってやすね。大物になりますぜ。
>咲:女の子のことを「大物」って言ったって誉め言葉にはならないの。
>八:そうなのか? だって、大物は大物だろ? 偉いってことだろ?
>咲:女はね、おしとやかな方が偉いの。
>八:そんなの誰が決めたんだ? お福ちゃんなんか、そりゃあ強くって、偉い女だったぜ。
>咲:それは特別な人だけのことよ。普通の女はおしとやかで奥床しいのが一番なの。分かった?
>八:ふうん、そうなのか。・・・じゃあよ、お咲坊は駄目だな。全然おしとやかじぇねえもんな。
>咲:なんですってーっ!

八兵衛が逃げると静もその後をひょこひょこと付いて回る。
そんな微笑ましい様子を、あやはにこやかに見守っていた。
難しい顔をしながら戻ってきた源五郎と熊五郎も、掌(てのひら)を返したように破顔して、追い掛けっこに加わった。

>咲:ねえあやさん。子育てって大変?
>あや:そりゃ、大変よ。でもね、楽しいこととか嬉しいことの方が多いから苦にはならないわ。どうして?
>咲:いえね、やがてはあたしも子供を産むんだしさ。将来のためにね、参考にと思って。
>あや:まだそんなに急ぐことでもないでしょ? お料理とかお裁縫とか、これからしっかり覚えなきゃならないことが沢山ある訳だし。
>咲:そんなのはちょちょいのちょいよ。ほら、あたしのとこ、早くに母上が亡くなっちゃったでしょ? 炊事洗濯掃除に繕い仕事、そんなの十(とお)の頃からやってるんだもの。
>あや:でもね、お料理1つにしたって、お酒を飲まない六さんと、お酒飲みの人が好むものは全然違うでしょ? まだまだ覚えなきゃならないことだってあるでしょう?
>咲:そう言われちゃうとそうだけど。父上は芋があれば満足しちゃうっていう安上がりな人だもんね。魚もあんまり食べないから、下(お)ろしたこと、ないもんね。
>あや:でしょう? まだ気が早いわよ。

>咲:でも、あたしももう16よ。早いところは15でお嫁に行っちゃってるわ。
>あや:それはほんの一握りの人でしょ? 例えば、先様がそれなりに良い家柄だとか、大店(おおだな)の若旦那だとか。
>咲:それはそうだけど、なんだかね・・・。じゃあ、幾つまで待てば良いと思う? 十八? 二十歳(はたち)? それとも、父上の仕官先が決まるまで? そんなの待ってたらお婆ちゃんになっちゃう。
>あや:真逆(まさか)。時が来れば自然とそういう風になるから大丈夫よ。
>咲:でも、あんな襤褸襤褸(ぼろぼろ)の長屋で燻(くすぶ)ってたら、ぴったりな殿方に廻り合うこともないないかも知れないじゃない。
>あや:そうかしら。案外そうでもないんじゃないの?
>咲:だって、まだ弟子も抱えられない大工が2人いるだけじゃない。選ぼうにも、それっぱかしじゃどうしようもないじゃない。良い男が5人も10人も言い寄ってくるなんて、素敵じゃない?

>あや:ま、欲張りね。熊五郎さんたちのこと、「将来有望」って思ってる人もいるんだけどな。
>咲:本当に? おべっかでしょ?
>あや:違うわよ。「正式に見合いを」っていう申し入れよ。
>咲:ほんとなの?
>あや:安心して。断ることにしたから。
>咲:べ、別にあたしは・・・
>あや:そうね。お咲ちゃんに言っても仕方ないことよね。わたしの独り言だから、聞き流しておいてね。・・・でも、先方様は意外に本気なのよ。代わりにということで、五六蔵さんに会わせようと思うんだけど、どう思う?
>咲:五六ちゃん? 本気?
>あや:熊五郎さんほど立派じゃないけど、先様の希望には、むしろ五六蔵さんの方が適(かな)ってるみたいなの。
>咲:ふうん。変わってるのね。
>あや:見掛けが一番って思ってる女の人って、案外少ないのよ。「良い男」なんて言ってるようじゃ、お咲ちゃんもまだまだかな?
>咲:あたしだって、親方の良さくらい見分けられますよーだ。

お巫山戯(ふざけ)を早々に切り上げて、八兵衛があやに泣き付いてきた。

>八:姐さん、もう帰りましょうや。身体が冷えちゃいますぜ。
>あや:そうですね。そろそろ引き上げましょうか。
>咲:とかなんとか言って、静ちゃんの相手をするのが辛くなったんでしょ?
>八:そ、そんな、滅相もない。自分から引き受けといて、おいらがそんなこと言う訳ねえじゃあありませんか、ねえ。
>あや:そろそろ源太のお湿(しめ)も替えなきゃならないから、帰りましょう。
>咲:あ、そうだ。あたし、お御籤(みくじ)引いてこようっと。
>八:あ、おいらも。・・・姐さんはどうしやす?
>あや:わたしはいいわ。厄年の人がいるのに大吉の訳ないもの。
>八:なあるほど。凶なんか出たら目も当てられやせんものね。・・・やい熊、お前ぇも御籤を引きに行こうぜ。おいらの方が良かったら、今度「だるま」で1合奢(おご)れよな。
>熊:まったく、お御籤を賭けに使うなんて、神様が聞いてたら罰(ばち)が当たるぜ。

八兵衛が引いた御籤は「末吉」だった。熊五郎のが「小吉」で、お咲のは「中吉」だった。
八兵衛は、「小」が一番下だと言い張って譲らず、結局有耶無耶のまま、誤魔化してしまった。

>八:まあ良いや。今回の負けは帳消しにしといてやるよ。
>熊:良く言うよ。そんな料簡(りょうけん)だから碌(ろく)な御籤が当たらねえのよ。
>咲:あーあ、なんだか揃いも揃ってぱっとしない1年になりそうね。
>八:幸せなのは四郎んとこと、松つぁんたちだけだな。
>三:八兄い、そういうときはぱあっと飲むに限りますぜ。
>五六:そうそう。菜々が拵(こさ)えてきたお節(せち)も貧弱だけど中々いけませぜ。
>八:お前らだけだぜ、おいらのことを労わってくれるのはよ。ちょいと見てくれよ、この脛(すね)の痣(あざ)。
>三:あれまあ、紫色になっちまってやすねえ。昨夜転んだとこですかい?
>八:静嬢ちゃんに木履で蹴飛ばされたんだよ。
>三:へえ、そりゃあ災難でやしたね。・・・で、どこが昨夜のとこで、どこが今日のなんでやすか?
>八:いててて。こら、触るなってんだ。下の方が今日のだ。
>五六:でも、八兄い。上も下も分かったもんじゃありやせんぜ。
>八:ずきずきしてる方が昨夜ので、ひりひりしてる方が今日のだよ。そんなことも分からねえのか。
>熊:そんなこと分かる訳ねえじゃねえか。馬鹿馬鹿しい

>八:馬鹿馬鹿しいだと? おいらが蹴飛ばされてる間に親方に団子かなんかご馳走になっていやがった癖に、その言いようはなんだ。
>熊:団子なんか食ってねえってんだ。まったくお前ぇは、なんでもかんでも食い物のことだって考えやがる。お気楽で良いよな、お前ぇは。
>八:なんだと? こちとら痛えのを顔にも出さねえで、子守りしてるんだ。偉そうな口利くんなら静嬢ちゃんに蹴られるような、愛らしい男になりやがれってんだ。
>熊:そ、それに関しちゃあ、お前ぇに敵(かな)わねえから、全面的に任すよ。頼むから。な?
>八:そうか? そうまで言われちゃあ仕方がねえな。お前ぇには痛みを堪(こら)えるなんて芸当は出来ねえだろうからな。
>熊:だがよ、偶(たま)には痛そうな顔をしてやった方が良いんじゃねえのか?
>八:そんなことできるかよ。相手はまだ3つになったばっかりなんだぞ。泣き出しちまったらどうするんだよ。
>熊:そうやって好い顔ばっかりして見せるから、喜んで蹴飛ばすんじゃねえか。痛えときは痛そうな顔をして見せたのが、嬢ちゃんのためになるんじゃねえのか?
>八:そんなことおいらにゃできねえよ。あのくりっとした目に涙でも溜められてみやがれ、おいら、考えただけで悲しくなっちまうぜ。
>熊:分かった分かったって。お前ぇの優しいとこはようく分かったよ。だからもう、めそめそするのは止せってんだ。正月早々から泣き上戸になりましたって訳でもねえだろ?
>八:酒のせいじゃねえや。嫁も子供もねえまままた年が明けちまったのが悲しいんだい。・・・松吉、お前ぇも早く子供を作りやがれ。
>松:唐突にこっちに話を振るなってんだ。
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