161.【く】 『唇(くちびる)亡(ほろ)びて歯(は)寒(さむ)し』 (2002/12/30)
『唇亡びて歯寒し』[=竭(つ)きて〜・無ければ〜]
互いに助け合う関係にある一方が滅びると、他の一方の存在まで危うくなる。
類:●唇亡歯寒(しんぼうしかん)●唇歯輔車(しんしほしゃ)●輔車相依る
故事:春秋左氏伝−僖公五年」 晋候が虞(ぐ)に道を借りて隣接した<カク>を討とうとしたとき、宮之奇(きゅうしき)が、「<カク>が滅べば必ず虞も滅びる」として、引用した言葉。
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隣の間では、竹上の策を巡って喧喧囂囂の論議が白熱していた。
拙策と気付きながら意地を張る者、慎重なだけの者、独自の意見を繰り広げる者と、三者三様である。
どこまで行っても三つ巴で、一向に埒が明きそうになかった。

>内:のう、皆さん方。
>塩:なんじゃ、ご老体。聞き手に徹するのではなかったのか?
>内:聞き心地の良い話ならば聞き手も楽しいものですがね、足の引っ張りあいでは口を挟みたくもなります。あなた方には、謙譲の心というものがないのですか?
>竹:こちらが下手に出れば、鬼の首を取ったとばかり付け上がる御仁がいらっしゃいますからな。
>塩:なんじゃと? それは儂(わし)への当て付けか?
>竹:はて、誰がそのようなことを言いましたやら?
>塩:なにをこの若造が。
>竹:棺桶に片足を突っ込んだお人から言われたくありませぬな。
>塩:なにをーっ?
>内:まあまあ、それくらいになさいませ。
聞く耳を持たないのでは話し合いになりません。こちらとて、聞いていてもさっぱり分かりません。・・・申し訳ありませんが、1つだけ聞かせていただけませんかな。
>塩:何を聞きたいと申すのだ?
>内:はい。では、竹上様、あなたのお策はいったいどなたに良かれと思って立てられたものですかな?
>竹:そうですな、強いて言いますならば、幕府の蔵を満たすためであろうか。幕府が安泰でないと、庶民とて安心して暮らしては居られまい?
>内:なるほど。ご尤(もっと)もでありますな。・・・では、川田様、あなたはどなたに良かれと思って、竹上様の策に異を唱えておられるのですかな?
>塩:それは決まっておる。儂ら幕府の役人と商人との両方だ。保たれている釣り合いが崩れると、何かと破綻を来たすからな。双方が得心の行く策でないのなら、無闇に行使するべきではないのだ。
>内:なるほど。・・・では、坂田様、あなたの策はどなたに良かれと思って考えられたものですかな?
>太:わたしのは、専(もっぱ)ら庶民を第一優先にして考えたものです。お城から出て庶民と混じって暮らしてみると、庶民がいかに蔑(ないがし)ろにされているか分かるものです。
>内:なるほど。竹上様は上様のため、川田様は閣僚のため、坂田様は民のためですか。はてさて、如何(いかが)なものなのでしょうな?

>塩:民のためだと? 聞こえは良いが、民に施しをして人気稼(かせ)ぎでもしようというのか? はっ、小賢(こざか)しい。
>太:老中やら若年寄に媚(こび)を売るお方よりは増しだと思いますがな。
>塩:誰が媚を売っていると申す。聞き捨てならんぞ。
>竹:お二方とも、下心(したごころ)が見え見えですな。やはり日の本の者である以上、幕府を守り立てることこそ本分であろう? 閣僚やら庶民に阿(おもね)るなど、笑止千番。
>太:なんですと? 民をも顧(かえり)みずに放蕩三昧を尽くしている上様に取り入っていて、良い改革ができる道理がないではありませんか。それこそ、履き違えというものです。
>竹:お主は、上様を愚弄しようというのか?
>太:そういうことではありません。幕府が安泰であるのは庶民がその底を支えているからではあるませぬか。このまま庶民が飢えてしまったら、幕府の根底すら揺るぎ兼ねません。そうではありませんか?
>塩:ふん、詭弁(きべん)だ。儂は儂の方針に信念を持っておる。竹上などというどこの馬の骨かも知れぬ若造になど負けておられるものか。
>太:そういうことだから直るものも直らぬと申し上げているのです。お二人で、足の掬(すく)い合いなぞしている暇があったら、上様に諫言(かんげん)なさいませ。どちらかが転びでもしたらもう一方とて安泰ではいられないのですぞ。

二の間では、当の将軍様が聞き耳を立てていた。
遊山(ゆさん)気分で来たものの、自分の放蕩を持ち出されては、だらだら飲んでいる訳にも行かない。

>斉:酷い言われようであるな。そんなに度を越して居るのかの?
>八:そんな話、下々の方へは聞こえてきませんぜ。・・・ですが、太一の先生がそう言うんなら、きっとやり過ぎなんでやしょうね。
>斉:ほう、八つぁんは随分と坂田の肩を持つではないか。やはり、民のことを考えてくれる者の方が有難いかの?
>八:中身がどうのということじゃあねえんですよ。どの道、庶民の暮らしなんか良くなる道理がねえんですからね。そんなことじゃなくて、おんなじ縄暖簾のおんなじ卓で酒を酌み交わしたっていう仲間でやすからね。
>斉:ほう。そうか。それは羨ましいの。こんな殺風景な部屋の食べ慣れた肴(さかな)では、余もつまらぬな。
>八:こんな豪勢な膳を目の前にして、つまらぬもねえもんですぜ。そんなこと言ってるから放蕩三昧って言われちまうんです。少しは反省したほうが良いんじゃねえですかい?
>斉:そうか? ふむ。確かに、ちと、金子(きんす)をばら撒き過ぎたやも知れぬな。
>八:改めて呉れるってんですかい?
>斉:心掛けてはみよう。だがな、一国の頂点にあるものがあんまり質素であるのものう・・・
>熊:出過ぎたことかも知れやせんが、お爺様でいらっしゃる吉宗様はそれは倹約に励んだ方だとか伺っておりますが。
>斉:ああ、あれか。あれは半分は作り話じゃ。見えぬところでは豪遊していたぞ。ま、今更暴露しても詮無いことだがな。
>八:なあんだ、そうなんだ。そんなら適当に豪遊しても良いんじゃねえですか? なんならおいらも付き合わせて呉れると尚のこと良いんですがね。
>斉:おっ、それも面白そうであるな。
>熊:こら八、勝手なことばっかり言ってるんじゃねえっての。あわよくば改めようって気になりかけてたのによ。
>斉:まあ、良いではないか。

>斉:そんなことより、あの3人のいうことを比べてみてどう思うかな?
>五六:おいらたち下々のもんからすりゃあ、ちょっとでも自分らのためになって呉れた方が良いに決まってまさあ。太市の旦那に賛成でやす。
>八:お前ぇの考えなんか聞いてねえっての。・・・そうさな、要は、老中と庶民と斉ちゃんとがみんな満足するのが一番良いんでやしょう? そんなら、全部纏(まと)めてやりゃあ良いんじゃねえですか?
>熊:そんなことできる訳ねえじゃねえか。あんだけ角突き合わせてるんだぜ。
>斉:ふむ。やってみる価値はあるかも知れんの。
>八:でしょう?
>斉:まあ、塩十だけはどうあっても混ざらぬだろうから、首を1つ挿(す)げ替えれば良いかな・・・
>八:でも、巧い具合いに三つ巴になってるのに、1人おん出しちゃっちゃ釣り合いが取れねえんじゃねえですかい?
>斉:そちの心配には及ばぬ。代わりの若い者など掃いて捨てるほど居るわい。老人という生き物は、兎角(とかく)現状に拘(こだわ)り過ぎて適(かな)わん。
>八:・・・ってことは、ぽかりとやっても良いんでやすか?
>斉:苦しゅうない。存分にやるが良かろう。
>八:やりい。

「さて、そろそろ出る頃合いかの?」という言葉を合図に、八兵衛が襖(ふすま)を開け放ち、隣の部屋に躍り込んだ。
口角泡を飛ばしていた3人がぴたりと口を噤(つぐ)んだ。

>塩:へ、部屋をお間違えじゃあ・・・。え? う、上様?
>斉:苦しゅうない。ささ、話を続けよ。
>太:へへえっ。恐れ多くも畏(かしこ)くも・・・
>斉:坂田。お主の考案せし策、中々見るべきところがあるぞ。
>太:も、勿体ないお言葉で御座います。
>斉:竹上、お主の策も中々ではあるが、もそっと下々のことも考えに入れてみてはどうかの?
>竹:ははあ、有難きご忠言に御座いまする。
>斉:さて、塩十。本来であれば、年長であるお主が他の2人を取り纏めて、前向きな話に持っていこうとすべきではないのか? お主がしていることは、現状にしがみ付くことだけのようだな。
>塩:そ、そのようなことは・・・
>斉:黙らっしゃい。お前は少しばかり長居し過ぎたようだ。今、ここにおる八つぁんが引導を渡してやるから、甘んじて受けるが良い。・・・ほれ、良いぞ。
>八:そんじゃあ遠慮なく。・・・爺さん、おいら個人的にゃ恨みはねえんだが、人が一所懸命良かれと思ってるとこを邪魔するばかりじゃ、なんにも変わらねえんだよ。大人しく隠居してやがれ。せえの・・・

「ごきっ」っという鈍い音がして、塩十が蛙よろしく畳に張り付いた。

>熊:それのどこが「ぽかり」だってんだ? 下手したら死んじまうぞ。
>八:なあに、良く言うじゃねえか、「憎まれ爺さんは長生きする」ってよ。
>四:「世に憚る」なんですけど。
>八:おんなじだろ? ・・・ああ、清々した。そんじゃ、帰ろうか?
>斉:まあ、もう少し待つが良い。特別に、手土産を用意したからの。
>八:そんなもの要りませんや。貰ったら丸ごと熊のやつに呉れてやらなきゃならねえんでやすから。
>斉:いや、これは余の者に与えることは許さぬ。お主が受け取るが良い。
>八:良いんですかい? おい熊、ああ仰ってるんだ、構わねえだろ?
>熊:好きにしろ。おいらはなんにも要らねえ。
>八:で? 何をいただけるんだやすか?
>斉:ふふ。お主に福を授けよう。
>八:七福神の置き物ですかい? おいら、食い物の方が有難えんでやすが・・・
>斉:そうではない。「お福の方」を授けると言っておるのだ。嫁にでもなんでにもするが良い。
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