147.【き】 『杞憂(きゆう)』 (2002/09/24)
『杞憂』
必要のないことをあれこれ心配すること。必要以上に心配すること。
類:●無用の心配●取り越し苦労●杞人の憂い●The sky is not going to fall. --Chicken Little<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
例:「杞憂を抱く」「杞憂に終わる」
故事:列子−天瑞」 「杞」は中国古代の国名。その国の人が、天が崩れ落ちることを心配して寝食を取らなかった。
★「杞」の国は、現在の河南省開封(かいほう)の近くにあった国。周代に、過去の夏(か)王朝の子孫が集められ土地を与えられたという。祖先の霊を鎮(しず)めることだけが許され、細々と暮らしていたらしい。[阿辻哲次教授]
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お杉が言うには、別に好きで仕事に打ち込んでいる訳ではない、ということだった。
暖簾(のれん)を分けて貰ってお店(たな)を構えるなど、これっぽっちも望んでいないそうである。
だから嫁ぐ夢をなくしたのではなく、ただ単純に、時期を逸(いっ)しただけということだと言う。

>杉:そりゃあ、番頭さんのところの話が、あんなことで駄目になっちゃったのは、堪(こた)えましたよ。なんてったって、あたしより6つも若いんですもんね。15ですよ、15。
>咲:あら、あたしやお夏ちゃんより1つ下じゃない。そんなのに取られちゃったの? 驚いた。・・・ねえ?
>夏:唯(ただ)の若気の至り形振り構わずに、ただ背伸びしたいだけの年頃なのよ。
>咲:ありゃ、随分悟り切っちゃってるのね。
>夏:だから言ったでしょう? あたしはもう、俗の者じゃないの。「仁」と「義」と「孝」の人なの。
>咲:止してよ。それじゃあ、やくざ者かなんかみたいじゃないのよ。
>夏:あたしの天職をやくざなんかと一緒にしないで。
>咲:分かったわよ。ご免。・・・それよりお杉さん、その小娘に取られちゃって頭に来たでしょ? 怒髪天
>杉:その逆よ。なんだか気合い抜けしちゃった。
>咲:腰砕け
>杉:まあ、そんなところ。・・・番頭さんの息子さんは「景吉」さんっていうんだけど、店の女たちは少なからず淡い思いを寄せていたものよ。番頭さんから初めてその話を持ち掛けられたときには、あたし、自分でも恥ずかしくなるくらい舞い上がっちゃってたわ。

>咲:惜しいところだったわね。巧くいってりゃ今頃、分家の若女将(おかみ)だったかも知れないのにね。
>杉:それは無理よ。旦那さんには三男までいるんだもの。暖簾を2つも3つも分ける訳にはいかないでしょ?
>咲:それじゃあ景吉さんって人は今どうしてるの?
>杉:「小奈良屋」で手代をしてるわ。でも、あんまり巧くいってないみたい。
>咲:小奈良屋ですって? いかにも、流行(はや)らなそうな名前。
>夏:ねえお杉さん、それなら、破談になって良かったんじゃない? まだツキは逃げてないってことよ。
>八:なるほど。お夏ちゃんはいつも良いことを言うねえ。そんならよ、
心置きなく相手探しができるってことだよな? おいら気合い入れちまうぞ。

その気があまりない者をその気にさせるのは至難の業(わざ)である。お咲も、いつになく四苦八苦しているようだ。
こんなときには、却(かえ)って八兵衛の「的外れ」も効き目があるものなのかもしれない。
但(ただ)し、任せ切ってしまうのだけは、この上なく危なっかしいものなのだが。
熊五郎と源五郎は、寧(むし)ろ止(とど)める側に回りたいと思いながらも、その糸口を掴(つか)みあぐねていた。

>八:なあお杉坊、ちょいと聞くが、行灯(あんどん)の仕替えをやってる蔵助って男を知ってやしねえかい?
>杉:蔵助さん? 勿論知ってるわよ。行灯には煤(すす)の少ないうちの菜種油が一番良いんだって、贔屓(ひいき)にして呉れてるわ。それがどうして?
>八:太助がよ、油と言えば行灯、行灯と言えば油だって言い張るもんだからよ。
>熊:言い張ってるのはお前ぇだろ。
>八:あ、そうだっけ? まあ良いや。んでよ、太助が言うにはあっちも独り身で、年回りも良さそうじゃねえかって言うんだよな。聞けばそりゃあ気真面目な昼行灯らしいじゃねえか。
>熊:昼行灯は誉め言葉じゃねえっての。
>杉:蔵助さんとあたし? ・・・冗談は止してよ。言っちゃなんだけど、あの人、本物の昼行灯なのよ。影が薄いってのか、何を考えてるのか分からないってのか。
>八:だがよ、そう悪い男じゃねえんだろ?
>杉:そりゃ、悪くはないけど、それ以上に、良いところがない人なのよ。
>八:そんなこと言ったらここにいる四郎だって似たようなもんじゃねえか。
>四:八兄い、おいらが幾ら無口だからって、そりゃあ言い過ぎですよ。
>八:な? 日頃無口な四郎だって時には言いたいことも言うし、田舎から追っ掛けてきて嫁になろうって女もいるんだ。良うく話してみねえとほんとのとこは分からねえのと違うか?
>杉:そんなこと言ったって、蔵助さんとはもう10年近くの付き合いなのよ。色恋の相手じゃないわよ。
>八:そんなの、これから先どう転がるか分からねえじゃねえかよ。
>杉:どうにも転がらない。
>八:天と地がひっくり返ってもか?
>杉:昼と夜がひっくり返ってもよ。

問答無用というような険悪な雰囲気になろうとしたところへ、当の蔵助を引き摺って太助が戻ってきた。
曲形(まがりなり)にも相撲取りをやっていた太助の図体に怖じ気て、どうやら蔵助は、逆らえずに付いてきたようだった。

>八:よ、待ってました。あんたが昼行灯かい?
>蔵:な、なんですか、あなた方は? 太助どんの長屋の方たちだって聞いてましたが、おっかない顔の人とかやくざ崩れの人までいるじゃないですか?
>八:ん? ああ、やくざ崩れは大工見習い中の五六蔵で、おっかない顔の人はその師匠の源五郎親方だ。気にしねえで良いぜ。見掛けは恐いが取って食いやしねえって。
>蔵:はあ。そうですか。
>太:まあ、お掛けよ蔵助さん。親爺さーん、お銚子と、それからおからの大盛りっ。
>三:凄(すげ)えな。よくもまあ、おからばっかり・・・
>蔵:・・・あ、奈良屋のお杉さん、ですよね。あの、太助どんって、お杉さんと一緒の長屋だったんですか?
>杉:蔵助さん、どうしてこんなとこに来ちゃったのよ。
>蔵:だって、太助どんが・・・
>杉:こんな背が高いだけの人畜(じんちく)無害な人のことを怖がるなんて、どうかしてるんじゃないの?
>蔵:そんなこと言ったって・・・
>杉:そんなだから、いつまで経(た)っても屑拾いみたいに扱われて小馬鹿にされるのよ。
>咲:お杉さん、何もそこまで言わなくたって。
>杉:だって腹が立つのよ。いつもおどおどしてて、はっきりしないんだから。見ちゃいられないわよ。
>蔵:はあ。す、済みません
>八:まあまあ、折角来て呉れたんだ、乾杯といこうじゃねえか、な?

>蔵:あの、おいら、酒はあんまり・・・
>八:何い? 臆病な上に酒も飲めねえのか?
>蔵:い、いえ。あの、癖が悪いようなんで、親方から止められてるんです。
>八:なんだそんなことか。構わねえさ。直ぐに酔い潰れちまう六さんよりは増しだろ。
>咲:八つぁん、言い過ぎ。
>八:はは、済まねえ。・・・だがよ、少しくれえ乱れてもここには腕っ節の強いのが揃(そろ)ってるんだ。下戸(げこ)って訳じゃねえんなら付き合って呉れても良いだろ。
>蔵:でも、相当酷(ひど)いらしいんですよ。もしかすると、皆さんに怪我をさせるかもしれませんし、この店を壊しちまうかもしれません。
>八:そんなに凄いのか? こりゃあ是非とも見せて貰わねえとな。

蔵助はそう言ったが、なんのことはない。唯の絡(から)み酒である。
飲み始めると程なく、自分の仕事への愚痴を零(こぼ)し始めた。
一同は、「なんだよ。こんな程度で酒を控えてやがったのか?」と、拍子抜けしていた。

>蔵:親方は親切ごかしでよ、「蔵助の面倒見は大変だ」ばっかり言ってやがるが、人に頭を下げるのも、直しをするのも全部おいら任せだ。食わしてやってるのはこっちだってえの。なあお杉ちゃん、分かって呉れるだろ?
>杉:分かりません。あたしはあんたの親方の顔なんか一度だって拝見したことはないですから。
>蔵:「拝見」だって? そんなご立派な柄(がら)かよ。俺がせっせと働いてる傍(そば)で日の高いうちから大酒なんか食らいやがってよ。挙げ句の果てには、手前ぇは酒癖が悪いから一滴も飲むなたあどういうこった?
>杉:あたしが親方でも、あんたがいじいじ愚痴を零すのなんか見ていたくもないわね。
>蔵:愚痴を言いたくもなるさ。「そのうち嫁を取らせて一本立ちさせてやる」だと? 「そのうち上客を渡してやるからそうなりゃ妻子を食わすのだって簡単だ」だと? そのうちそのうち、一体いつなんだってんだ。
>杉:そんなこと言って、あんた自分から嫁を探そうとか、上客を捕まえようとか、したことあるの?
>蔵:こんな商(あきな)いのどこに上客なんかいる? 行灯を纏めて10個納めろって話があったとこで、次の注文は10年後か30年後だろ? そんなの上客じゃねえ。そうじゃねえか?
>杉:あんた馬鹿じゃないの? 1箇所だけを見てるからそういうことになるのよ。そういうお客を10箇所持ってみなさいよ。10個が10年続くのよ。安定収入じゃないのよ。20箇所なら半年毎に10個、120箇所で毎月10個よ。弟子だって雇えるじゃないのよ。
>蔵:へ? 俺が弟子だって? 無理無理。今時こんな地味な商いを継ごうって若いもんなんかいるもんか。それに、折角稼いだ銭は飲兵衛親方に啜(すす)り尽くされちまわ。
>杉:あんたね、あんたのそういう後ろ向きのところがどうしても我慢ならないのよ。虫唾が走るわ。嗚呼、反吐が出るわ。
>蔵:お杉ちゃん、飲み食いしてるとこで反吐はねえだろ。
>杉:何よ。元はと言えば、あんたがだらしないせいじゃないの。あたしだってねえ、好きでこんながらっぱちやってるんじゃないわよ。病気の母ちゃんと気弱な弟を食わすためには、このくらいじゃないとやっていけないのよ。あんたを見てるとね、定吉を思い出しちゃうのよ。見ちゃあいらんないのよ。

お杉の方も蔵助に負けず劣らずの絡み酒である。
それにしても、蔵助を弟と重ね合わせていたところを見ると、強(あなが)ち捨てたものでもないのかもしれない。

>八:お杉坊? 大丈夫か?
>杉:あ。・・・またやっちゃった? もうこれだから・・・
>八:なあに酒の上でのことだ。良くあることじゃねえか、なあ熊?
>熊:お杉坊、お前ぇ、もしかして、景吉さんとやらに見られたな?
>杉:そうよ。それで愛想尽かしされちゃったのよ。悪い?
>熊:それが元で破談したと思ってるのか?
>杉:決まってるじゃない。
>咲:あたし、違うと思う。
>杉:何が?
>咲:また醜態を見せちゃうんじゃないかって、景吉さんの前で何かと遠慮するようになっちゃったんじゃない? 原因はそっちの方よ、きっと。
>杉:嘘よ。そんなこと・・・
>咲:人間誰だって1つや2つ悪いところがあるわ。それもこれも引っ包(くる)めて好きんなって一緒になるんでしょ? 遠慮されてたんじゃ、身を退(ひ)いていかれちゃっちゃ、所帯なんか持てないわよ。そうでしょ?
>杉:・・・あたしって馬鹿みたい。全然見当違いなことを気にしてたのね。逃げられて当然ね。
>源:なんだかな。気に病む奴は気の優しい奴ってことか。寂しい役回りだな。・・・でもま、お杉さんも蔵助さんもそれぞれ1つずつ間違いに気付いた訳だ。2人が一緒になれとは言えねえが、明日っからそれぞれちょっとばかし、変わった生き方ができそうだな? そういう手伝いなら無骨な俺にも手伝えるかもしれねえな。
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