146.【き】 『気(き)は心(こころ)』 (2002/09/17)
『気は心』
1.全部でなく僅(わず)かでも、気が済むようにすれば、気が休まるものだということ。
2.量や額は僅かでも、真心が篭もっていること。誠意の一端を示すこと。
 類:●塵を結んでも志志は髪の筋
 
★贈物などをする時に用いる<国語大辞典(小学館)>
 用例:雑俳・武玉川−九「出代りや三粒降ても気は心」
用例の出典:武玉川(むたまがわ) 俳諧の高点付句集。江戸座俳諧の宗匠、慶紀逸撰。寛延3年(1750)初編を刊行、撰者の死没した宝暦11年(1761)まで15編を続刊した。紀逸没後は二世紀逸が18編まで編んだが、それ以後は絶えた。「柳多留」に多くの影響を与えた。
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お杉が雇(やと)われている油問屋の主(あるじ)は「奈良屋庄助」というが、由緒正しいあの「奈良屋」の本家とは、縁も縁(ゆかり)もない御仁である。
朝寝と朝湯が大好きなぐうたら者で、朝酒をしないのがせめてもの慰(なぐさ)めである。いずれにせよ、心許ない主人である。
その点、長年勤め上げてきた番頭がしっかりした人で、巧(うま)い具合いに釣り合いが取れている。

>源:その番頭さんは「文吉」さんといって、そりゃあてきぱきしたお人だ。雇(やと)い人の面倒見も、結構良さそうだな。
>あや:番頭さんに直(じか)に聞いちゃったんですか?
>源:嘘を言いそうな人じゃなかったからな。その方が手っ取り早いだろう? 包み隠さず話して呉れたぜ。
>あや:乱暴なことをするんですね。お杉さんの立場が危うくなったらどうなさるんですか?
>源:そこんところは大丈夫だよ。却(かえ)って同情して呉れてるようだしな。
>あや:そうですか。それなら良いんですけど。
>源:倅(せがれ)は、文吉さんに内緒で別の娘さんを好いていたそうなんだ。話を切り出した後に、大揉(も)めに揉めたらしい。・・・でもまあ、それはそれで、結構巧くいってるそうだから、文吉さんは「唯々(ただただ)恐縮してます」って言ってた。
>あや:そうですか。でも、それなら、もう少しお杉さんのことも気に掛けて呉れていれば良かったんですけどね。
>源:それがな、破談の話があってから、何度か相手を勧めて呉れてたそうなんだが、お杉さんの方がみんな断(ことわ)っちまったそうなんだ。「もう暫(しばら)くお仕事をさせておいていただけませんか?」の一点張りなんだとよ。

>あや:そうなんですか。・・・困りましたねえ。
>源:でもなあ、25だろう? いくらなんでも、もう嫁入りしたいって言うだろう?
>あや:それがそうでもないから困ってしまうんです。わたしが話を聞きに行ったときも、生返事ばっかり。
>源:投げ遣りになっちまってるのか?
>あや:そういう訳でもないみたいなんですけどね。・・・もしかすると、お仕事が面白くなり始めちゃったんじゃないかと思うんですけど。
>源:そういやあ、近頃じゃあ、いくつかのお客を持たされてるって言ってたな。自分から望んだことだってよ。
>あや:そうですか。困りましたねえ。
>源:お前ねえ、さっきから「困った困った」ばかりじゃねえか。いつものお前ぇらしくもねえ。
>あや:お夏ちゃんじゃありませんけど、そういう娘さんが増えてるんでしょうかねえ。・・・わたしには、そういう考え方は、解(わ)かりませんから。

お咲やお夏に話せば、いくらか通じるところがあるかも知れないからと、源五郎はあやから、近々「だるま」に顔を出してみてはどうかと勧められた。
そういうことなら、近々といわず、早速(さっそく)行ってみようかということで、源五郎はそそくさと草鞋(わらじ)を履(は)いた。
実のところ、あやの口から「困ったわね」という言葉が出ないで済むように、なんとか早くお杉の縁談を纏(まと)め上げてしまいたかったのだ。

暖簾(のれん)を潜(くぐ)って入ってきた源五郎を逸(いち)早く見付けて、八兵衛が嬉々とした声を上げた。

>八:あっ、親方あ、丁度良いとこに来て呉れやした。これからお杉坊の婿(むこ)の目当てを呼びに遣るとこですよ。
>源:なんだと? もう見付けたのか?
>八:当たり前ですよ。こう見えてもこの八兵衛、遣るときは遣るんですよ。
>源:で? どこの誰なんだ?
>八:行灯(あんどん)の仕替えをやってる昼行灯(ひるあんどん)の蔵助(くらすけ)ってけちな野郎です。
>熊:おい八、人に薦(すす)めようって男のことを「昼行灯」だの「けちな野郎」だのはねえだろう。
>八:そんなこと言ったって、おいら、どんな奴なのか知らねえんだから仕方がねえだろ。
>源:一体誰の知り合いなんだ?
>八:太助のでさあ。・・・なあ、太助?

太助は齧(かぶ)り付いた丼ごとちょこんと頷(うなず)き、猛然(もうぜん)とした勢いでおからを掻き込んでいる。
肴(さかな)を殆ど摘(つま)まない三吉が「ほおー」と、感心しながら見入っている。

>源:どういう知り合いなんだって?
>八:なんでも、口入れ屋にいた時分に、蹴躓(けつまず)いて行灯を壊(こわ)しちまったそうで。それを仕替えて貰ったそうなんで。
>源:それだけか? 年恰好とか、気質とか、親兄弟はどうしてるとか、そういったことはどうなんだ?
>八:へい。仕事場まで受け取りに行ったことがあるそうなんですが、早稲田の方へちょこっと行った辺りだそうで。すぐそこらしいんですよ。それで、そんなら当人に来て貰った方が早いと思いやして。
>源:でも、どうしてその蔵助さんなんだ?
>八:そりゃあ親方、お杉坊が行ってるのは油問屋でしょう? 行灯とは相性がぴったりに決まってんじゃねえですか。
>源:おい熊、そんなんで良いのかよ。
>熊:はは。まあ、目当てがまったくねえんですから、「外堀から埋めてく」戦法で仕方がねえんですよ。1人目から当たりだなんて、誰も思っていませんから。
>八:何を抜かしてやがる。おいらは「油」と「行灯」に無性(むしょう)に縁を感じてならねえんだ。必ず巧く行くって。
>源:頼りねえな。お前ぇら、ほんとに大丈夫かよ。

もうそれだけ食わせたのだから良いだろうと、太助を追い立てて、蔵助の家に向かわせた。
箸(はし)を持っていないときの太助の方が、よっぽど昼行灯然(ぜん)としているようだった。

>源:それはそうと、お咲ちゃんはどうしたんだ?
>八:お杉坊か定吉が帰ってくるのを待って、連れて来てみるってことで。
>源:そうかい。・・・で? お杉さんってのはどんな人なんだい?
>八:あれ、親方はまだ会ったことがねえんでしたっけ?
>源:ねえから聞いてんだろ。
>八:そうですよね。・・・まあ、一言で言っちまえば真面目(まじめ)な娘ってことですね。男に色目は使わない、銭に汚(きたな)くない、そんでもって、口煩(うるさ)くない。嫁にするんなら一番良い質(たち)なんじゃねえですか?
>源:ほう。今時そんな娘さんもいるもんだな。
>八:浮気心を起こしたりなんかしたって駄目ですからね。
>源:当たり前ぇじゃねえか。余計な勘繰りなんかするんじゃねえ。
>熊:・・・あんな小汚い長屋にしちゃあ良い娘なのは間違いないですね。それに、器量も決して悪くはねえですよ。なんてったって、何の縁故も無しで奈良屋に雇って貰えたんでやすからね。
>源:まあ、器量だけで人を雇う訳でもあるめえが、事実、伝手(つて)も無しでってんなら、大したもんだな。

そんなところへお夏が出勤してきた。

>夏:あらぁ、親方。来て呉れたんですかぁ? 嬉しい。あやさんは順調ですか?
>源:あ、ああ、順調そうだ。2人目だからそう心配することもあるめえ。
>夏:今度遊びに行っても良いですか? 静(しずか)ちゃんに顔を忘れられちゃうと困るから。
>源:もう顔を見分けるみてえだぜ。・・・それと、糠(ぬか)味噌の臭いが染み込んじまう前に婆さんから取り返しといて貰えると有難えんだがな。
>夏:ま、上手な誘い文句ね。女ってね、そういう然(さ)り気(げ)ない誘い文句1つでころっといっちゃうものなのよ。
>八:ほんとかい、お夏ちゃん? おいらにも教えて呉れよ。どういう風に言えば良いんだ?
>夏:それじゃあ駄目なのよ、八兵衛さん。女が考えた言葉じゃあね。女には思いも因(よ)らないような言い方をされるから、その「新鮮さ」みたいなのに惹(ひ)き付けられるんじゃない。
>八:そんなこと言ったってよ、おいら、気の利いたことなんかそう易々とは思い付かねえぜ。
>夏:それはね、八兵衛さんの気持ちが足りないのよ。親方みたいに、あやさんのこと大事に思ってる人は自然とそういう風な言葉が喋れるようになるの。ね、親方?
>源:止(よ)して呉れよ。そこら中がむず痒(かゆ)くなるじゃねえか。
>夏:照れない照れない。誉めてるんだから。・・・親方みたいな人が近くにいたら、あたしも考え直しちゃうかもね。
>八:ほ、ほんとかい?
>夏:いたらね。望み薄だけど。

やがて、お咲に引き摺られるようにしてお杉が入ってきた。
「こういうところは、あまり得意じゃないんです」と、言い訳しながら、隣りの卓にちょこんと腰掛けた。

>咲:あら、親方も来てたの? こちらがお杉さん。
>源:熊たちと一緒に仕事してる、源五郎です。
>咲:・・・というよりも、あやさんのご亭主って言ったのが通りが良いわよね。
>杉:まあ。そうでしたの? 来月ごろって言ってらしたけど、お変わりないですか?
>源:今度は必ず男の子だって言い張ってやすよ。元気な子ならどっちだって良いって言ってるのに。
>杉:押し掛け女房になるんだって、晴れ晴れした顔で出掛けていったときのことは忘れられないわ。
>源:なんだか夜逃げみたいな真似(まね)しちまってお恥ずかしい。碌(ろく)に挨拶(あいさつ)もしてねえんでしょう?
>杉:とんでもないですよ。お義母さまからのお使い物なのよって、洒落(しゃれ)た手拭(てぬぐ)いまでいただいちゃいました。
>源:へ? 母ちゃんが? いつの間に仕込んでやがったんだ?
>熊:気付かなかったのは親方だけですよ。なあ八。
>八:あの頃の親方ったら見てられませんでしたよ。完璧に逆上(のぼ)せ上がっちまってやしたからね。
>源:五月蝿(うるせ)えや。放っとけ。・・・それにしてもだ、何も手拭いなんかじゃなくって、もうちっと気が利いたもんはなかったのかねえ。
>咲:あら、そういうもんは却って手拭いみたいなものの方が有難いのよ。あんまり立派なものを貰っちゃったら、今度次にお返しするときに返せるものがなくなっちゃうでしょ? こっちはしがない笠貼りのその日暮らしなんだから。
>源:うーむ。なるほどな。・・・男ってもんは兎角(とかく)見栄を張りたがって、自分にできる上限のものを選びたがるからな。却っていけねえこともあるってことだな。
>咲:そういうこと。・・・ということで、お杉さん。お杉さんもそろそろ年貢を納めちゃいましょ。

>杉:お咲ちゃん、どうしてそういう話の展開になる訳?
>咲:あやさんは詳しく話さなかったかも知れないけど、お杉さんにはそろそろお嫁に行って貰いたいの。
>杉:出てけって言う意味?
>咲:真逆(まさか)。・・・あのね、定ちゃんがね、自分のせいなんじゃないかって勘繰っちゃってるのよね。結構思い詰めちゃってるのよ。知らなかったでしょ?
>杉:なんでそんなこと・・・。馬鹿ねあの子。あたしなんかのために・・・
>咲:だからって、直ぐにどうこうしてっていう訳じゃないのよ。ほんのちょっとだけそういう気持ちになって欲しいの。どう?
>杉:そんなの急に言われても・・・
>咲:あそこにいる「あたしは仕事と添い遂げるのよ」なんて言ってる変わりもんとは違うんでしょ?

お咲は奥の方で客と冗談を言っては笑っているお夏の方へ顎(あご)をしゃくった。

>夏:何よ。あんたが言うほど軽い決心じゃないんだからね。
>咲:ありゃりゃ、聞こえちゃったかしら?
>夏:態(わざ)と聞こえるように言ったんでしょ?
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