101.【か】 『会稽(かいけい)の恥(はじ)』 (2001/10/29)
『会稽の恥』
敗戦の恥辱。他人から受ける酷(ひど)い辱(はずかし)め。
故事:「史記−貨殖伝」 春秋時代、越王勾践が呉王夫差に会稽山の戦いで敗れ、常に「お前は会稽の恥を忘れたか」と自分を励まして、ついに復讐を遂げたことから出た語。 →参照:『臥薪嘗胆
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内房翁から、「作戦を練(ね)っておくから夕方もう一度来るように」と言われて、旅籠(はたご)を後にしてきていた。
八兵衛は浮き浮きと足が軽いが、熊五郎の方は思うように歩が進まない。

>熊:なあ、このままご隠居に任(まか)せといて良いと思うか?
>八:良いに決まってんじゃねえか。上様の釣り仲間だぞ。いざとなったら葵(あおい)の印籠かなんかを出せば一件落着よ。
>熊:葵のご紋だと? そんなの持ってる訳がねえじゃねえか。
>八:そうか? おいらが上様だったら、薬入れくらいぽんと下げ渡しちまうけどな。
>熊:渡す方は容易(たやす)くても、いただいちまった方が大変なの。何をやらかしても構わねえっていうお墨付きなんだからな。悪用されたら大変なことになる。
>八:そうだな、盗られちまったら大事(おおごと)だよな。そう考えるとよ、天下御免の向こう傷ってやつは巧く考えたもんだよな?
>熊:なんだそりゃ?

>八:しかしなんだよ、侍は自分より目上の侍には滅法弱いってことは間違いねえよな? 町人が侍を懲らしめるんだからよ、そういう手でも使わないとできねえぞ。
>熊:町人がお侍を懲らしめるなんてことは、そもそも、あっちゃあならねえことなの。だから、そう軽々しく使っちゃいけねえの。もしもだぞ、なんでもかんでもそれで済んじまったら、また次を期待しちまうじゃねえか。使うんなら1遍(いっぺん)こっきり。それも、特例中の特例ってことにしとかねえと駄目なの。
>八:そんなの勿体ねえと思わねえか? ちょいと足を伸ばせば、旅籠にご隠居が居るんだからよ。
>熊:駄目。
>八:でも、今回の件くらい良いよな。ご隠居だってやる気満々なんだからよ。
>熊:止めたって無理だろうよ、あの調子じゃ。・・・でも、念のため、親方にもご報告しとかねえといけねえぞ。

報告の席には、源五郎のほかに棟梁・源蔵も同席した。
寄り合いでも、鞍馬屋のことは大変な話題として議論されているのだという。

>源:なんだかでかい話になっちまってるんだな。俺たち一大工が関わり合うような話じゃねえな。・・・どう思う? 親父。
>棟:ああ。俺たちだって下手なことはできねえ。・・・だが、兎も角、そのご隠居に会ってみねえといけねえな。
>八:棟梁がですかい?
>棟:決まってんだろ。話の次第じゃあ、これっきり一切(いっさい)手を引いて、頭から布団を被って大人しくしてなきゃいけねえかも知れねえ。
>八:それじゃあ詰まらないですよ。
>棟:詰まる詰まらねえの話じゃあねえ。お前ぇ、首が胴と離れちまっても構わねえってのか?
>八:そりゃあ、痛そうですよね。
>棟:お前ぇや俺の首くらいで済みゃあ良いが、嫁や孫娘の首まで掛かってくるかも知れねえんだぞ。
>八:熊も、ですよね。
>熊:当たり前ぇじゃねえか。
>棟:ま、兎に角今夜は、ご隠居さんのところへ同行して貰うが、後は、大人しく引っ込んどくんだぞ。

内房翁の隣に、一人の侍が正座して控えていた。
山村某(なにがし)と名乗ったその武士は、代々(だいだい)木曽代官を勤める家柄だと自己紹介した。

>山:彼此(かれこれ)15年にもなろうかな? 奥村という山地主の三男・冨三(とみぞう)が出奔(しゅっぽん)したという経緯についてお聞かせ申そう。・・・先ず、その頃木曽に大火事があり、武蔵の国の西川材が急に持て囃(はや)されるようになったという背景があったことをご承知いただきたい。・・・さてこの男、当時の材木奉行所の勘定役であった檜山杉良という者に賂(まいない)を贈り、木材の横流しをして小遣い稼(かせ)ぎをするという唯(ただ)の小物であったのだが、急に何かに目覚めて、「木曽材に再び目を向けさせる」という大目標をぶち上げたらしい。が、その矢先、運搬中に事故で材木共々2人の人足を失ってしまった。死人(しびと)が出たということで、我々が事情を聴取しようと奥村の家を訪れたが、時既に遅く、出奔した後であった。
>八:するってえと、その冨三ってのが鞍馬屋の富三郎なんでやすね?
>山:まず間違いはあるまい。
>内:それからね、八つぁん、もう一方の檜山という藩士も、尾張藩の江戸留守居(るすいやく)をしているお人らしいんです。
>八:その檜山っていう奴にはお咎(とが)めがなかったんですかい?
>山:そうなのだ。どこをどう立ち回ったのか、ちゃっかり江戸上屋敷の要職に納まっている。
>八:太(ふて)え野郎でやすねえ。
>内:外交経費だとか言って、随分な大枚(たいまい)をばら撒いているという話は聞えてきていますね。・・・どうです? 益々懲らしめてやりたくなってきたでしょう?

>山:お待ちください、ご老体。少なくとも、冨三に関しては、木曽の咎人(とがにん)なので、どうかお引き渡し願いたい。
>内:お気持ちは分かりますが、檜山と組みでないと、お仕置きも巧く進まないのです。召し取ってからのご相談ということで如何でしょう?
>山:こちらでお裁きを受けたら、我らの元へは戻ってきますまい。
>内:その辺は巧く計らいますので、ご心配なさらずにお待ちください。
>八:なんでしたら、山村様も一緒に混ざっちまえば良いじゃねえですか。どうです?

山村某は、そこまでは出しゃばれないと辞退し、早目の一報を期待していると言い置いて帰っていった。

>八:それにしてもご隠居、鞍馬屋の野郎、どういう積もりで火付けなんかやらかしたんでしょうかねえ。
>内:一つには、銭儲けのためでしょうね。
>八:「一つには」って、他にもあるんですかい?
>内:もう一つには、自分を逐電(ちくでん)に追い立てた西川材への怨(うら)みというやつでしょうか? 尤(もっと)も、こっちの方は、手前勝手な言い分で、逆恨(さかうら)みみたいなものですけどね。
>熊:15年も前の話ですぜ。それに、とんだ
お門違いだ。逃げなきゃならなかったのだって、元は自分で作ったことじゃねえか、なあ?
>八:悪いことをする奴ってのは、決まって、他人のせいにしたがるもんだよな。
>内:八つぁんは良いことを言いますね。まったくその通りですよ。大方、稼いだ銭を普請方(ふしんかた)かなんかに回るような算段も付けているんでしょう。
>熊:「木曽材に目を」だなんて、まだ言ってやがるのかな?
>八:決まってんだろ。そういう奴らは、自分を納得させるようなお題目がねえと、自分がへこんじまうもんなの。
>熊:お前ぇにしちゃ珍しく、随分と知ったようなことを言うじゃねえか。・・・でもよ、そいつぁあ、ちょいと宗教掛かってねえか? ・・・あ、いや、宗教を悪く言うわけじゃあねえんですよ。
>内:宗教にしろ、大目標にしろ、本来の人道を越えたてら、もうそのときからそうは呼べないものに変わり果ててしまっているもんなんですけどねえ。

>八:ねえご隠居。そういう難しい話はもうそれくらいにして、どんな風にして懲らしめてやるのかってことを話しちゃあ呉れませんか?
>棟:こら八兵衛、お前ぇ、まだ関わる積もりでいるのか? ここからは俺たち下々(しもじも)の者は関われねえ領分なんだぞ。
>内:まあまあ、棟梁、そうお堅いことを言いなさんなって。なにも捕(と)って食おうって訳じゃないんですから。棟梁たちには迷惑の掛からないようにします。お約束しますから、ちょいと八つぁんと熊さんをお貸しくださいな。
>棟:ご隠居さん・・・。
>内:大丈夫ですって。大船に乗った積もりでいてください。
>棟:そうは仰(おっしゃ)いますが、万が一、可愛い弟子や、延(ひ)いては孫娘にもしものことがあったら、千年でも万年でも祟(たた)りますぜ。
>内:怖い怖い。・・・けど、そうはなりませんよ。
>熊:なんですか、ご隠居、随分自信がお在りですね?
>内:だって、もう手を打ってきてしまいましたもの。後は、祭り上げられる英雄が2・3人必要なだけですから。・・・なんでしたら、棟梁も混ざっときますか?

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