52.【い】 『韋編(いへん)三度(みたび)絶(た)つ』 (2000/11/13)
『韋編三度絶つ』
書物を何度も読むこと。書物を熟読することの喩え。
類:●韋編三絶(さんぜつ)
故事:史記−孔子世家」 孔子が晩年『易』を熟読し、そのために竹簡(ちくかん)の綴じ紐が三度も切れたといわれる。
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お夏が痺(しび)れ薬を調合するということによって、計画はかなり現実のものになってきた。
あとは、素人(しろうと)が薬剤を作りそれを使うことについての、「人道的判断」ということになる。
その辺のことに一番煩(うるさ)そうな奴に判断させようということで、鴨太郎の到着を待つことになった。

>熊:鴨太郎が駄目(だめ)だって言ったら別の方法にするからな。
>咲:別の方法ってったって、あれだけ考えても思い付かなかったんでしょう?
>熊:それはそうだが・・・
>八:いっそのこと河豚(ふぐ)の肝(きも)でも食わせて砂浜に埋めちまったらどうだ? 食い物だったら鴨の字だって駄目とは言わねえだろ?
>熊:そんなことしたらほんとに死んじまうじゃねえか。
>八:それじゃあ笑い茸(だけ)とか。
>熊:痺れるとか笑い出すとかなら良いが、ぽっくり逝っちまったらどうするんだ? 毒茸(どくきのこ)なんかとんでもなく種類があるんだろう? お前ぇ見分けなんか付くのか?
>八:いいや。乳茸(ちたけ)と占地(しめじ)の違いだって定かじゃねえ。
>四:おいらは分かりますよ。なにせ山育ちですんで。
>八:ほらどうだ。これで決まりだな。
>熊:何が決まりだよ。頼みもしてねえ肴(さかな)を出されたって食べやしねえだろ。
>八:そうか。それじゃあ仕方ねえな。やっぱり、お夏ちゃんに痺れ薬を作って貰った方が間違いなさそうだな。
>四:責任逃(のが)れという訳じゃないですが、おいらもその方が良いと思いますよ。
>熊:お夏坊、間違って毒薬なんか作ったりしねえだろうな?
>夏:大丈夫よ。兄上が写してきた医学書なんかもう20回も読み返してるんだから。表紙なんかぼろぼろよ。図解のいらないところなら空で言えるくらいに覚えちゃってるわ。
>八:こいつは心強いな。おいら、益々尊敬しちゃうぞ。
>夏:ありがと八兵衛さん。本当に医者になれたらその言葉承(うけたまわ)りますわ。

5つ(20時)になろうという頃になってやっと鴨太郎がやってきた。
お夏と目が合ったとき、一瞬、何か後ろめたいような顔をして、すぐに目を伏せた。
熊五郎は、やっぱり何かあるなと見て取ったが、そこでは敢(あ)えて口にしなかった。

>鴨:・・・何ぃ? 毒を盛るだと?
>熊:待て待て、そうじゃねえって。毒じゃねえよ、痺れ薬だ。
>鴨:同じようなもんじゃねえか。そもそも医者でもねえ奴が薬を作ろうってのがいけねえ。
>夏:大丈夫よ。作り方は分かってるんだもの。材料さえ揃(そろ)えばちょちょいのちょいよ。
>鴨:駄目だ。いくらお夏坊が医術に詳しいってったって素人は素人だ。もしものことがあったらどうする。
>夏:だから、もしもってこと
がないようにするって言ってるじゃない。相変わらず石頭なんだから。
>鴨:堅物なのは生まれつきだ。俺が聞いちまった以上は調合なんかさせねえからな。
>夏:何よ、この薄らとんかち。
>八:薄っぺらい玄翁(げんのう)のことか?
>熊:なに頓珍漢なことを言ってやがる。役に立たない奴って意味だ、こんなときに能天気なことを言い出すお前ぇみてえなのを言うの。
>八:へえ、なあるほどねえ。薄らとんかちねえ、へーえ。
>熊:詰まらないことに感心するなっての。それよりよ、じゃあどうするかってことを話さなきゃならねえな。
>夏:じゃあ取り止(や)
めにするの? 鴨太郎さんのご大層な正義感のために。
>鴨:なんだよ、随分刺(とげ)があるな。まあ、待てよ。何も取り止めにすることもねえだろう。
>熊:じゃあどうするって言うんだよ。段平(だんびら)を覚悟で待ち伏せか?

>鴨:・・・分かったよ。俺が痺れ薬を都合すれば良いんだろ?
>熊:今なんてった?
>鴨:薬を貰ってくれば良いんだろうって聞いたんだ。それで巧(うま)く運ぶんだろう?
>八:なんだ、手に入るんだ。なら造作もねえことじゃねえか。なあ?
>熊:なあって。・・・鴨太郎、お前ぇ薬は駄目って言わなかったか?
>鴨:素人が作っものはいけねえって言ったんだ。小石川の先生に頼んで分けて貰うんなら別に構わねえだろう。
>熊:使い道はどうなんだ? こんなことに使って良いのか?
>鴨:良いも悪いも、刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こし兼ねねえ奴を大人しくするんなら却(かえ)って使っとくべきだろう。
>熊:もしも効き過ぎちまったってことになったら?
>鴨:そんときは医術の心得があるお夏坊が介抱(かいほう)する。その位できるんだろ?
>夏:当たり前じゃない。一々突っ掛かるわねえ。
>鴨:言っとくが、とても上役に話せるようなもんじゃねえってことだけは覚えとけよ。これが譲歩できる限界だ。
>八:流石(さすが)。こんな物分かりの良い捕(と)り方も珍しいぜ、まったく。

>熊:鴨太郎、良いのかよ。
>鴨:何がだ?
>熊:ご政道を守る側が曲げちまうんだぞ。
>鴨:それほど大したことじゃねえさ。
>熊:大したことだろう。もしばれたら召し上げだ。
>鴨:それほどの扶持(ふち)を貰ってる訳じゃねえよ。
>熊:お夏坊のためか?
>鴨:そんな訳じゃあねえさ。
>熊:お前ぇ、本気なのか? お夏坊のこと。
>鴨:さあな。・・・飲もうぜ。再会を祝して。二助、お前ぇも飲め。・・・もう今晩は殺しがあったって何があったって出ばらねえぞ。

その後鴨太郎は、最近あった捕り物の顛末(てんまつ)を面白可笑しく話し、お夏との個人的な経緯(いきさつ)には触れようとしなかった。
八兵衛や二助はそんなことには一切(いっさい)気付きもしていなかったが、鋭いお咲は疾(と)うに気付いているらしかった。

>熊:なあ鴨太郎。徹右衛門のことだけどよ、何かの咎(とが)で捕まえるって訳には行かないもんかね。
>鴨:できてりゃこんな企(たくら)みに混ざったりしやしねえよ。
>熊:でもよ、片っ方に騙(だま)された女がいるのは事実なんだぜ。
>鴨:その泣いている側からの訴えがなきゃこっちからはなんにもできねえのよ。
>咲:お萩さんみたく養育費だけ取れれば堺屋の身代(しんだい)なんか関係ないって言われちゃね。
>八:実際に蛸の子供を産み落とした娘は今のところいねえのかい?
>鴨:さあな。分からねえが、俺が知ってる範囲じゃあ今度の3人が孕(はら)んでるってだけだな。
>熊:なんだとか罪を捏(で)っち上げて裁(さば)いちまえると世話がねえんだがな。
>鴨:別に無銭飲食をしてる訳でもねえし、酔って誰かを傷付けた訳でもねえからな。
>熊:他になんかねえのかよ?
>鴨:ねえよ。
>熊:ほんとにねえのか? 思い当たらねえだけじゃねえのか?
>鴨:舐(な)めるなよ。これでも昔の調べ書きを少なくとも30遍は読み返してるんだ。駆け出しの小僧じゃねえんだぞ。
>八:30遍もか? お夏ちゃんより10遍も多いじゃねえか。見掛けに拠らず意外と勉強してるんだな。
>鴨:役人に失礼なことをするのだって咎になるんだぜ。
>八:よせやい、今夜は出ばらねえぞって言ったとき、あんたはもう役人じゃなくってただの「
鴨さん」になっちまったのよ。鴨さんを貶(けな)そうが詰(なじ)ろうが咎になんかなる訳ねえじゃねえか。
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