第5章「堅物熊五郎の憂鬱A(仮題)」

45.【い】 『乙夜(いつや)の覧(らん)』 
(2000/09/25)
『乙夜の覧』
昔の中国で、立派な天子は22時頃から読書を始めたというところから、天子が書物を御覧になること。
類:●おつ夜の覧●乙覧
故事:唐の文宗が、臣下に「甲夜(8時ころ)まで政務を見、乙夜(10時ころ)になって読書をするようでなければ人君たることはできない」と言ったことから出た語。<太平広記−杜陽雑編>
出典:太平広記(たいへいこうき) 宋の太宗の時(981年)に頼命を受けた李肪らが、道教・仏教関係の説話や正史などには記載されていない記録や小説の類いを収録した書。数百種に及ぶ古書の中から集められた話を神仏・報応・書・画・酒・夢・神・鬼・再生・雷・雨・草木・虎・狐・昆虫...など92の項目を立てて分類し、五百巻に纏(まと)めたもの。引書のうち、半数以上は現在散逸しているので、古小説の資料としての価値は非常に大きい。未刊であった。
参考:乙夜(いつや) 昔、中国で夜を甲、乙、丙、丁、戊の五つに分けた、その一つ。現在の午後9時頃から11時頃。
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お夏に許婚(いいなづけ)がいるという噂が立ち、浮(うわ)ついただけの客が少しずつ減ってきていた。
季節は、夏の盛りを過ぎようとするところだった。
「葱(ねぎ)」こと、鴨太郎は、公務がどうだとかで、これまで一度も顔を出していなかったが、二助の話では、そのうち必ず熊五郎に会いに来るということだった。

>八:なあお夏ちゃん、鴨の字とのことはどのくらい進んでるんだい?
>夏:鴨太郎さん? ああ、許婚とかそういう話? 全然よ。
>八:だって、約束を交わしたってことだろう?
>夏:父上が発作を起こしたときに、ちょっと弱気になってね、勝手に言い出したってだけなのよ。
>八:じゃあ・・・
>夏:まるっきりよ。あたし、働きたいの。自分の才能を活かして人様のためになることをしたいのよ。目指すは自立した女よ。
>八:本当かい?
>夏:若い身空(みそら)でおさんどんなんてあたしの柄(がら)じゃないでしょ?
>八:お咲坊の話じゃあよ、お武家に嫁(とつ)ぐって決まってるそうじゃねえか。
>夏:あたしはあたし。父上の勝手になんかなるもんですか。
>八:こいつぁあ力強い。陰ながら応援させて貰うよ。

>熊:ささやかながら希望が出てきたってことか?
>八:へへへ。張り切っちまおうかな。
>熊:松つぁんにも教えてやった方が良いんじゃねえのか?
>八:へへーんだ。態々(わざわざ)敵を増やすこともねえだろう。
>熊:姑息(こそく)だねえ。
>八:「戦略」って言って貰いてえな。おいらだって少しは勉強してるんだぜ。
>熊:どうだか。

夏の話では、乾(いぬい)の刻(21時頃)に「だるま」を切り上げてから、四つ半(23時)の頃まで、書物を読むのだという。

>夏:兄上ったら物持ちなのよ。熱心に写本してたみたいなの。尤(もっと)も、途中から書写が目的みたいになってて、あんまり身に付いてないみたいだけど。
>熊:へえ、それで、お夏坊はその中身を理解してるのかい?
>夏:全部は無理よ。それに、学者になる訳じゃないから、殆(ほとん)どは無駄なのよね。
>八:でもよ、中には役に立つのもあるんだろ?
>夏:うん。西洋の医術の書はとっても面白いわ。
>熊:もやしの奴、そんな専門的なものまで写本したのか?
>夏:概論みたいなやつだけどね。それでね、兄上ったら、書の方は達者なんだけど、絵心がまるっきり無くてね、肝心要(かなめ)の図解が全然用を成してないの。
>八:なんだよ。しょうがねえな。
>熊:ほんとに興味があるんだったら、養生所の先生に見せて貰えば良いじゃねえか、お父上の診察の序(つい)でに。
>夏:見せて貰えるかしら。
>熊:秘術って訳でもねえんだろうから、大丈夫なんじゃねえの?
>夏:今度頼んでみようかな。
>八:もしも本当に医者様になっちまったら凄(すげ)ぇな。おいらも看(み)て貰いてえな。
>熊:お前ぇみてえな頑丈なやつは、生涯養生所とは縁がねえだろうな。
>八:そんときは、お頭(つむ)の中身を見て貰うさ。

そこへ五六蔵が、珍しく独りきりで、入ってきた。

>五六:やっぱりここでしたか。ご一緒させて貰いますね。
>熊:なんでえ、三吉と四郎は一緒じゃねえのか。
>五六:へえ。今日はちとご相談事がありやして。
>八:おいらにか?
>熊:お前ぇが何の相談に乗れるってんだよ。
>八:銭と娘以外のことならなんでも来いだ。話してみな。
>五六:へい。弟子入りしてまだ1年も経ってねえんですが、お暇を貰うことってできやすかね。
>八:暇って、辞めるってことか?
>五六:とんでもねえ。やっと仕事が面白くなってきたってのに辞めるもんですか。
>熊:1日2日だったら構わねえんじゃねえのか?
>五六:いえ、半月ばかし・・・
>八:一体どうしたってんだ?
>五六:へい。風の便(たよ)りで、寝込んでるらしいって聞きやして。
>八:親父さんがか?
>五六:いえ、曾祖父(ひいじい)さんなんですが。

>八:なんだと? 一体幾つまで生きてりゃ気が済むってんだ?
>五六:確か、米寿は過ぎてたみたいでやすが。
>八:なんだその米寿ってのは。
>熊:88歳のお祝いのことだ。ってえことは90年以上生きてるってことか? 長命だねえ。
>五六:へい。代々丈夫だけが取柄(とりえ)みたいなもんでして。
>八:なあ熊よ、ちょいと聞いても良いか? 米の上はなんになるんだ?
>熊:卒寿が90、白寿が99、茶寿が108で、皇寿が111。それより上は珍寿だとよ。
>八:お前ぇ物識(し)りだなあ。
>熊:おいらだって少しは書を読んだからな。
>八:勿体ねえな。そんだけ学があるのに大工じゃあよ。
>熊:学じゃなくって、雑学ってんだよ。こんなの知ってたってなんの足しにもなりゃしねえさ。
>八:お武家とかお大名の家に生まれてたら良かったのにな。
>熊:何を言ってやがる。お武家に生まれてたら、馬鹿らしくて学問なんか真面目にやってやしねえって。
>八:それもそうだな。この性格だもんな。

>熊:どうあっても帰るってんなら仕方ないんじゃねえか。
>八:着いた頃にゃあ、もうくたばってるかもしれねしな。
>熊:縁起でもねえこと言うもんじゃねえ。
>五六:いえ、年が年でやすから。
>八:新盆(にいぼん)ってことにしときゃあ、親方も許してくれるんじゃねえのか?
>熊:親方を騙(だま)すのか?
>八:方便(ほうべん)だよ。放っておいて本当に死に目に会えなかったらそっちの方が罰(ばち)当たりじゃねえか。
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