331.【と】 『豆腐(とうふ)に鎹(かすがい)』 (2006.05.01)
『豆腐に鎹』
意見をしてもまったく手応えがなく、効き目がないことの喩え。
類:●糠に釘暖簾に腕押し沢庵の重石に茶袋
*********

腹の具合いが悪いと言っていた割りには、八兵衛は喜んで「だるま」に付いてきた。
「お前ぇが余計に出して呉れるってんならな」とは
、まったく現金な男である。
今日は、おみなが給仕をしていた。

>みな:あら八つぁん、随分とお見限りね。
>八:「お見限り」なんてほどご大層(たいそう)な客かってんだ。
>みな:そうでもないわよ。・・・親爺(おやじ)さーん。待ちに待った八つぁんが来たわよー。
>八:なんだその「待ちに待った」ってのは?
>みな:八つぁんがいないと夜も日も明けないんですってよ。
>亭主:そんなどうでも良い奴んとこなんかで油売ってねえで、他のお客様の相手をしてやんな。
>八:なんてえ言い種(ぐさ)だよ。
>熊:嬉しいんだよ。
>五六:そうですって。昨夜(ゆうべ)なんてしんみりしちまって、茹(ゆ)でた菜っ葉みてえでしたよ。
>八:あの親爺がか? どういう風の吹き回しだ? 腐(くさ)った鯵(あじ)でも食ったんじゃねえのか?
>三:それは八兄いでしょう?
>八:おいらの腹は繊細にできてるの。
>熊:どこがだ。鰻(うなぎ)と梅干を一緒に食ったってなんともねえ癖しやがって。

>みな:それじゃあ、一先(ひとま)ずお銚子を3本くらい持ってくるわね。
>八:ああ。それと、筍(たけのこ)かなんかねえかい?
>みな:まだ味が沁(し)みてないわよ。
>八:おお、それが良いや。おいら、硬いくらいの方が合うんだ。何しろ、ここいらじゃ「硬きこと金剛(こんごう)の如し」って言われてるからよ。
>三:冗談も休み休み言ってくださいよ。まったく逆(さか)さまじゃないですか。
>八:何を? 逆さまってことはねえだろ。
>みな:はいはい、分かりましたからそれくらいにして。それじゃ、硬いうちのを1皿と、帰る頃に柔らかくなったのを1皿出すようにするわね。
>八:おお。そいつは有り難(がて)え。・・・そんじゃ、冷奴(ひややっこ)かなんかも出して呉れ。
>みな:はあい。

おみなの仕事ぶりも、もうすっかり板に付いてきている。飛脚(ひきゃく)屋の娘だけのことはある。

心成しかも知れないが、歩き方も弾(はず)むようである。
他の客たちの視線が、裾(すそ)から覗(のぞ)く脹脛(ふくらはぎ)の方へ向いているのも頷(うなず)ける。

>熊:八、そんじゃ聞くぞ。・・・家島様は、なんでお前ぇのとこに頼みになんか来たんだ?
>八:そんなの知るかよ。
>熊:なんだよ。だってよ、口利きしたのはお前ぇなんだろ?
>八:そうだよ。但(ただ)し、口を利いたのは内房のご隠居にだ。
>熊:なんだと? するってえと何か? お前ぇは会いもしてねえってのに、手間賃だってことで5日も集(たか)ったってことか?

>八:ま、まあな。
>熊:呆(あき)れた奴だねえ。それに、まるで子供の使いだ。
>八:そんなこと言ったってよ、竜(りゅう)にとっちゃ、要は売れりゃ良いんだろ? それで刀の柄(つか)を飾ろうが、紋付きの紐にしようが、そんなの知ったこっちゃねえ。
>熊:そりゃそうだが、お前ぇは気にならねえのか?
>八:おいらがか? そんなの気にしてどうする? 紐なんか食えたもんじゃねえしよ。
>熊:また食いもんの話かよ。まったくお前ぇって奴は、食いもんを目の前にすると他のことは目に入らなくなっちまうんだからよ。
>八:悪いかよ。
>熊:またそうやって開き直る。・・・分かったよ。お前ぇには何を言っても無駄だな。
>八:そうか。諦(あきら)めやがったか。そんじゃ、綺麗さっぱり忘れて酒を飲むとしようぜ。

そこへおみなが、銚子と、筍と豆腐を運んできた。

>八:おお、来た来た。・・・おっ、削り節なんかまぶしてあるじゃねえか。親爺も洒落(しゃれ)たことをしやがる。
>三:おみなちゃんのとこじゃ、そうやって出すんですってよ。
>四:飛脚ですから、あちこちの美味しい食べ方なんかを知ってるんです。・・・ねえ?
>みな:はい。鰹節は、紀州の「熊野節」っていうのが有名なんですって。
>八:へえ、物識(ものし)りだねえ。こりゃ重宝(ちょうほう)だな。なあ、熊?
>熊:・・・ああ、そうだな。
>八:なんだよ。気の抜けた酢みてえな返事しやがって。飲みたくねえんだったら、お足を置いて帰ったって良いんだぞ。
>熊:誰が銭だけ置いて帰るかってんだ。
>八:そんなら食ってみろよ。おいらはどっちかってえと、紫蘇(しそ)とか茗荷(みょうが)とかの方が好きなんだけどよ。
>熊:紫蘇も茗荷もまだ出てきてねえじゃねえか。今出てたら勿体(もったい)なくて、こんなとこじゃ到底(とうてい)お目に掛かれやしねえよ。
>八:そりゃそうだ。ええと・・・

>熊:なんだ? 紫蘇は五月(さつき=現在の6月初め頃)にならねえと食えねえよ。
>八:そうじゃねえんだよ。・・・確か、数が少ないのは高いとか、値(ね)を吊り上げてる奴がいるとか、そんなことを言ってたような言ってなかったような。
>熊:誰がだ?
>八:ご隠居が、あのいけ好かねえ番頭とよ。
>熊:お、おい、そいつをもうちょっと詳(くわ)しく聞かして呉れ。
>八:詳しくってったって、それっきりだよ。それより詳しいことなんか、一言も耳にしちゃいねえ。ああ、断じてねえよ。
>熊:なんだよ。そうなのかよ。

ぼんやりながら、その輪郭(りんかく)が見えそうな気がしたが、やっぱりそれだけでは、何がどうなっているのかまでは分からない。

寺社奉行、組み紐、坊主(ぼうず)、値が張る、寺、組み紐、坊主、買い占め・・・。
熊五郎は、豆腐を見ながら呟(つぶや)いていた。
すると、おみなが口を挿(はさ)んできた。

>みな:それって、もしかしたら「被布(ひふ)」のことじゃないかしら?
>熊:うん? ・・・「ひふ」?
>みな:そう。偉(えら)いお坊さんとか、お茶のお師匠さんとか、俳句のお師匠さんとか、兎(と)に角(かく)、偉い人たちが着るものなんだって。
>熊:そんなもんがあるのか?
>みな:流行(はや)ってるんだってよ。そんでもって、物凄(ものすご)く高いんだって。
>熊:へえ。・・・八、お前ぇ聞いたことあるか?
>八:食ったこたぁねえな。
>熊:着るもんだってんだ。・・・四郎、お前ぇはどうだ?
>四:そう言えば、去年だか一昨年(おととし)から妙なものが流行ってるって聞いたことがあります。でも、寒いときに着物の上から被(かぶ)るものですよ。
>みな:あたし見たことある。寒い日だってのに、辻で立ち話をしながら、組み紐の模様(もよう)がどうだとか房(ふさ)の色がどうだとかって自慢(じまん)し合ってた。

>八:そんなもん腹の足しにもなりゃしねえじゃねえか。なあ?

>熊:お前ぇは黙ってろ。・・・しかしな、もしそいつのことだとしても、なんでまた、これから夏に向かおうってこの時期に態々(わざわざ)高い銭を払って組み紐を買い取るんだ?
>四:今のうちからたくさん作って大儲(おおもう)けをしようってことですかね?
>熊:あの家島様がか? そりゃあねえだろう。
>三:自分も着てみたいってことですかね?
>熊:自分のだけなら、組み紐を10本も買いやしねえだろう?
>五六:それじゃあ、暴利(ぼうり)を貪(むさぼ)ってる奴から買わねえで済むように、もっと安いもんにしちまおうってんじゃねえですか?
>熊:それだ。
>三:「一黒屋(いちこくや)」さんに持ち込めば、二束三文とまではいかないまでも、随分安くできそうじゃないですか?
>八:なに? ご隠居さんのところにか? そりゃあ、聞きに行かなきゃならねえってことだな?
>熊:ああ、そうだ。お前ぇ、行って呉れるか?
>八:待ってました。そういう話を待ってたんだよな。
>熊:それなら、もっと身を入れて思い出しとけってんだ。

つづく)−−−≪HOME