320.【て】 『梃子(てこ)でも動(うご)かない』 (2006.01.30)
『梃子でも動かない』[=行かぬ]
どのようなことをしても、その場から動かない。どのようなことがあっても、決意や信念を曲げない。
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お花のところへ八兵衛からの使いがやってきて、「三吉が足の骨を折ったから見てやって呉れ」と言付(ことづ)けていった。
お花は「あら大変」と呟(つぶや)き、義母(はは)に留守居(るすい)を頼んで家を出た。
まだ臨月(りんげつ)という訳ではないが、お腹(なか)の出っ張りは隠し切れないほどになってきている。

井戸端(いどばた)で手持ち無沙汰そうにぶらついている五六蔵を見付けて声を掛けた。

>花:五六蔵さん、こんにちは。三吉さんが骨を折ったんですって?
>五六:へい、そうなんです。丁度ここんとこですっ転んで、足をやっちまったようなんで。
>花:骨接(つ)ぎはちゃんとできてるんですか?
>五六:千場(ちば)の大(おお)先生がやって呉れたんですが、どんなもんでしょう?
>花:小石川からは誰か来て呉れてないんですか?
>五六:なんだか忙しいとかで、来ちゃ呉れねえんですよ。痛み止めかなんかを渡されただけなんで。
>花:そうなの。・・・あたしが診(み)ても構いませんか?
>五六:へ? そんな心得(こころえ)がありなさるんで?
>花:これでも、武道をやってましたからね。お役に立てるかどうかは心許(こころもと)ないんですけど。
>五六:あ、そうでやしたね。あっしはすっかり忘れちまってやした。
>花:そんなの、家(うち)の亭主だって、さっきまで忘れてたことなんですからね。さ、一緒に来てくださいな。
>五六:あ、あっしもですかい?
>花:ちょっと押さえてて貰うことになるかも知れませんから。

>五六:「ぎゃあ」とか「うう」とか言いやすか?
>花:ちょっとは言うかも知れません。
>五六:そ、そういうことでしたら、ご遠慮申し上げやす。そういうのは、どうにも苦手でやして。
>花:あら、喧嘩とか責問(せきもん)とかは得意(とくい)中の得意だったんじゃないんですか?
>五六:滅相(めっそう)もない。あっしらは、見て呉れと口先だけでやしたから。そんでもって、殴り合いになりそうになったら、すたこら逃げるようにしてやした。・・・だから、ここで待たしてくださいやし。
>花:それで、付き添ってないで、こんなところにいたんですか?
>五六:実は、そんなところでやして。あの足の曲がり方を見ちまったら、薄気味悪くって、気持ち悪くって・・・
>花:そんなの、女のあたしだって何度も見てますよ。大丈夫ですから、一緒に来てください。
>五六:そればかりはご勘弁を。

お花が、懸命に柿の木にしがみ付く五六蔵の両肩をちょこんと突くと、両腕がぶらんと下に垂れた。
五六蔵はじいんと痺(しび)れた両腕をぶらぶらさせたまま、長屋の中へ引き込まれてしまった。
三吉は横になってはいたが、先程のお町との会話が嬉しくて、眠ろうにも眠れずにいた。

>花:三吉さん、お加減(かげん)はどうですか?
>三:あ、こりゃこりゃ、お花さん。なんでまたこんなとこへ?
>花:骨接ぎの具合いを見るようにって言われたんです。ちょっと診させてくださいな。
>三:は、はい。でも、あの・・・
>花:千場の大先生よりは手馴れてますよ。
>三:あ、そうか。お師範ですもんね。すっかり忘れてました。
>花:はいはい、足を出して。ちょっと添え木と包帯を取りますね。

千場功次郎の手当ては、ほぼ申し分のないものだった。が、ほんの少し、押し込みが足りないようだった。
これでは、後々まで痛みが残るところだった。

>花:はい。それじゃ、五六蔵さん、ちょっとだけ押さえておいてくださいな。
>五六:ほ、ほんとにやりなさるんで?
>花:直ぐに済みますよ。ちょこっと押し込むだけです。
>三:押し込むって、ぐいっと来るんでやすか?
>花:ええ。手拭(てぬぐ)いでも噛(か)んでおきますか?
>三:そんなに痛いんですか?
>花:産みの苦しみと比べたら、大したことはないですよ。ちょちょいのちょいです。
>五六:お花さん、その言い方って、八兄いと似てきてますぜ。
>花:あら、そうですか? まあ、困っちゃいましたね。長くいると移っちゃうもんですかね? ・・・ま、そんなことは置いといて、さらっと済ませちゃいましょう。
>三:質(たち)まで、似てますよ。大丈夫なんですかい?
>花:質と腕とは別ものです。はい、行きますよ。・・・はっ。
>三:あぎゃぁあっ。
>花:はい、お終(しま)い。

>五六:こ、こいつ、白目剥(む)いてますぜ。
>花:五六蔵さんは平気でしょう?
>五六:そりゃあ、あっしは痛くありやせんでしたから。
>花:これで、足を引き摺るようなことにはならないで済みます。良かったですね。・・・後は、腫(は)れさえ引けばもう歩けます。一月(ひとつき)と掛からないでしょう。
>五六:そうですかい。そりゃあ良かった。・・・ときに、こいつ、どうしやす?
>花:そのままにしておいてください。寝ていた方が治りが早いですから。ご飯はしっかり食べさせてくださいね。それから、お酒は駄目(だめ)。痛みが取れて、足に力が戻ってからにしてくださいね。
>五六:へい。・・・いやあ、助かりやした。

お花は、添え木と膏薬(こうやく)を巻き直してから帰っていった。
五六蔵は、暗くなってお町が来たら起こしてやろうと、そっと外へ出て、また井戸端へと戻った。
三吉が失神したときの叫び声が、まだ耳に生々しく残っていた。

一方、八兵衛は文句を言いながらも仕事をこなしていた。
相変わらず鯱張(しゃちほこば)って玄翁(げんのう)を振るっている万吉と千吉に、時折り声を掛けている。

>八:ほれ、万吉。背中が丸まってるぞ。そんなに顔を近付けてたら、とんかちで頭をしこたま引っ叩(ぱた)くぞ。
>万:は、はい。
>八:千吉。釘(くぎ)の持ち方はそうじゃねえだろう。そんなに強く持ってたら指まで板っぱちに打ち込んじゃまうじゃねえか。
>千:は、はい。とんとんとんのだんだんだんだん、でしたね。
>八:そうよ。もっと調子を付けてやりなよ。
>千:はい。とんとんとんの・・・
>熊:八よ。お前ぇこそ余所見(よそみ)ばっかりしてると、仕事が遅れるんじゃねえのか?
>八:何を言ってやがる。おいらなんざな、目ぇ瞑(つぶ)ってたって上手にできるんだっての。新米どもと一緒にするなってんだ。なあ、四郎?
>四:おいらはまだ半人前ですから、あんまり話し掛けられると気が散っちゃう方です。
>八:何を暢気(のんき)に言ってやがるかねえ。「不慣れ千万(せんばん)」が釘打ちを始めたってことは、お前ぇはもっと上をやらなきゃなんねえってことじゃねえか。いつまでも「おいらは鑿(のみ)で御座い」なんて言ってられねえんだぞ。蚤(のみ)や虱(しらみ)じゃあるまいし。
>四:駄洒落(だじゃれ)ですか。・・・まったく、真面目(まじめ)なんだかそうじゃないんだか、分からない人ですね、八兄いは。

>八:おいらはもう、鑿でも酒飲みでも思いのままだからよ。
>熊:そんでもって、「鋸(のこ)でも数の子でも筍(たけのこ)でも」ってんだろ? まったく、代わり映えのしねえことばっかり言うなってんだ。
>八:おいらのどこがいけねえってんだ?
>熊:寝ても覚めても食いもんのことばっかり考えてたりなんかすると、そのうち痛い目に遭(あ)うぞってことだ。
>八:そんなことあるもんか。こいつはおいらの生き方なの。今更、誰に変えられるかってんだ。
>熊:お花ちゃんからでも言って貰うか?
>八:お花に何が言えるかってんだ。あいつはおいらの食いっ振りにぞっこんなのさ。
>熊:勝手に言ってろ。
>八:おうおう、言ってるともよ。・・・あ、そうだ。もう直ぐ正月(=新暦の2月初旬頃〜)だからよ、数の子とか昆布とかを用意しとかなきゃならねえな。あと、蒲鉾(かまぼこ)に長呂儀(ちょろぎ)に黒豆だろ。それからそれから・・・、あいたたた。
>熊:どうした?
>八:指を引っ叩いちまった。
>熊:目を瞑ってても平気なんじゃなかったのか?
>八:黒豆みてえな血豆の出来上がりだな、こりゃ。はは、一品分(ひとしなぶん)浮いたぜ。
つづく)−−−≪HOME