299.【ち】 『茶腹(ちゃばら)も一時(いっとき)』 (2005.08.29)
『茶腹も一時』
1.茶を飲んだだけでも、暫(しばら)くは空腹を紛(まぎ)らすことができる。
2.本来の目的を達することはできなくても、急場を凌(しの)ぐことはできる。
類:●湯腹も一時
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午之助(うしのすけ)があやに語った話によれば、「お町の亭主になるのは、源五郎さんの弟子だって、端(はな)から決めてるんだ」とのことである。
梃子(てこ)でも動くもんか」とまで言ったという。

八兵衛は、昼とお八つで西瓜(すいか)の半分近くを食べたというのに、源五郎の家へ戻ってきても胡瓜(きゅうり)を食べている。
一黒屋(いちこくや)から八兵衛とみんなへの差し入れだと言って、与太郎が届けに来たものである。

>八:するってえと、なんですか? この盆暗(ぼんくら)の三吉が、あの別嬪(べっぴん)のお町ちゃんと一緒になるってことですか?
>三:盆暗とはなんですか。おいら、そんなぼんやりじゃありませんよ。
>八:だったら、唐変木(とうへんぼく)のすっとこどっこいか?
>三:ええええ。もう、なんとでも言ってください。
>八:ありゃ? もう引き下がっちまうのか? 面白くねえじゃねえか。
>三:ですがね、親方の弟子の中にゃ、独(ひと)り身はもうおいらしか残ってねえんですからね。
>八:そんなの分かるかってんだ。その秀(ひで)って奴が、大工になりてえって来たら、親方なんか人が好いから弟子にしちまうじゃねえか。
>源:「人が好い」ってのは褒(ほ)めて言ってるようには聞こえねえがな。
>八:そ、そうですか? ・・・でも、ほんとに来ちまったら、追い返さねえでしょう?
>源:そうは言っても、飾り職だろう? 大工になりてえなんて言い出しゃしねえだろうよ?
>三:ほらね。そうですよね。飾り職じゃね、無理ですよね。
>八:そんじゃ、もう1人の竜(りゅう)ってのはどうです?
>源:・・・おい。もう一方の奴の職はなんだって?
>あや:組み紐(ひも)職人だそうです。
>八:組み紐って、あの羽織(はおり)の結び紐なんかに使う奴ですか?
>源:そうだ。大工と比べりゃ細かい仕事だな。
>三:それじゃあ、そっちの方も大丈夫ですね。嗚呼(ああ)良かった。

>熊:でもよ。ほんとに本気んなってお町ちゃんと添(そ)いてえってんなら、一所懸命大工になろうとするんじゃねえのか?
>源:うーん。惚(ほ)れたらとことんか。
>八:高々(たかだか)1人の娘のためにですかい?
>三:何が「高々」ですか。惚れちまったら、もうそれしか見えないんですよ。高々なんて言って貰いたくないですね。
>八:おっ、お前ぇ、本気なのか?
>三:本気ですよ。そう言ったでしょう?
>八:そうか。そりゃあ参(まい)ったね。
>熊:そうすると、そいつら、弟子にしてくださいって頭を下げに来るかも知れねえな。
>八:そうなると、三吉とも五分五分になっちまうな。
>熊:同じ土俵(どひょう)に上がるってことか。
>三:そんなこと言わないでくださいよ。こちとら、もう4年も大工やってるんですよ。昨日までそこいらで簪(かんざし)作ってたってのとは訳が違うんですからね。
>八:午之助さんが「それでも良い」って言ったら終わりだな。
>三:そんなぁ・・・

八兵衛は、「食うか?」と言って、三吉に胡瓜を差し出した。
「要(い)りませんよ」と、三吉は突っ慳貪(けんどん)に答えた。

>八:おいらがそいつだったら、お町ちゃんと祝言(しゅうげん)を挙げた途端(とたん)、大工を辞(や)めちまうな。
>熊:なんだと? そりゃあ、如何様(いかさま)じゃねえか。
>八:良いじゃねえか。午之助さんの願い通り源五郎親方の弟子になっちまえば、まるっきり騙(だま)したって訳でもねえじゃねえか。それによ、近頃じゃ、そういう奴も多いらしいぜ。職に就いてもすぐに辞めちまう。・・・ま、貰っちまえばこっちのもんってことよ。
>熊:酷(ひで)え野郎だね。
>三:・・・親方ぁ。親方はそんなこと許しませんよね?
>源:そんなことにはさせねえよ。・・・それより、お町坊のことだ。お町坊は、家(うち)の弟子じゃなきゃいけねえなんて考えちゃいねえんだろう?
>あや:そうですね。それは、あんまり横暴(おうぼう)ですものね。
>三:やっぱりそうですか?
>あや:でも、「決め付けられるのは嫌だけど、どっちかって言えば、源五郎小父(おじ)ちゃんの下で働いてる人の方が安心できるかな」なんてことも言ってたわ。
>三:ほんとですかい?
>あや:今更(いまさら)嘘を吐(つ)いても仕方ないでしょう?
>三:はい。有難う御座います。
>源:まだまだ気が早いってんだ。

>八:それはそれとして、姐(あね)さん。その秀ってのと竜ってのは、どこでお町ちゃんを見初(みそ)めたってんです?
>あや:さあ。午之助さんもそこまでは分からないんですって。・・・もしかすると、同じ飾り職仲間の松吉さんだったら、何か知ってるかも知れないわね。
>八:それだ。・・・なあ、熊。松つぁんを「だるま」へ呼ぼうぜ。
>熊:待てったら。お前ぇ、お花ちゃんの具合いが悪いってのに今日も飲みに行こうってんじゃねえだろうな?
>八:なんでだ? おいらが家にいたってどうにもならねえんだぞ。
>熊:そこはそうでも、心配そうな面(つら)して傍(そば)に付いててやった方が、嬉しいんじゃねえのか?
>八:どうかな? ・・・どう思います、姐さん?
>あや:帰っておあげなさい。辛(つら)いときは、誰かがいると少しは楽になるものよ。
>四:・・・そんでもって、嬉しいときは、誰かが傍にいると、余計に嬉しくなるもんです。
>八:おっ。なんだよ、四郎。お前ぇ、まだ居たのか?
>四:まだ誰一人帰っちゃいませんけど。
>八:おお、そうか。迷惑千万(めいわくせんばん)の2人も大人しく道具研(と)ぎしてるか。感心感心。
>熊:だから、そういう呼び方するなってんだ。

八兵衛は、水っぽいものばかり食べたせいで、実のところ今日は飲みに行かなくても良くなっていた。
いつもなら、銚子2本くらいならなどと言い出しそうなものだが、素直に「今日は帰るか」と言った。
熊五郎は、松吉の話を聞いてから三吉に付き合ってやるかという気になって、三吉だけを長屋まで付いて来させた。
八兵衛は、何を勘違いしたのか、荷物持ちをして呉れるのだと早合点して、三吉に梨6個が入った包みを持たせた。

>三:おいら、荷物持ちで付いてく訳じゃないんですけど。
>八:良いって良いって。立ってるものは親でも使えって言うじゃねえか。
>熊:それはな、座ってるもんが言うことなの。お前ぇなんか、立って歩いてるし、その上手ぶらじゃねえか。
>八:細かいこと言うなってんだ。荷物なんてもんは、目下のもんが持つって決まってんの。
>熊:都合の良いときばっかりそんなこと言いやがる。
>八:まあ、そんなに怒るなよ。目が吊り上って、お咲坊から嫌われるぞ。
>熊:今更人相(にんそう)が変わったりするか。
>八:変わるかも知らねえじゃねえか。・・・ここまで来て破談(はだん)だなんてことになったら敵(かな)わねえから、梨を2個分けてやるからな。祝言まで持つくらいのご利益(りやく)はあるだろう。有り難く思えよ。
>熊:へえ、こりゃ魂消(たまげ)た。お前ぇから食いもんを分けて貰うなんて初めてじゃねえか?
>八:へへ。偶(たま)にゃ心の広いとこを見せとかねえとな。・・・それから、三吉。
>三:は、はい。
>八:お前ぇにも2個やるから、半分お町ちゃんに分けてやっとけよ。
>三:良いんですかい? なんだか、こりゃ・・・
>熊:雪でも降るんじゃねえか。
>八:梨4個くらいで雪が降るんだったら、買ってきてでも呉れてやるぞ。

松吉は、秀という男のことを知っていたが、お町とどう関わっているのかまでは聞いていないと答えた。
竜というのはどうかと聞くと、そっちはまったく知らないと言う。
そこへ、八兵衛の声が聞こえたからといって表へ出てきた半次が割り込んできて、「俺、知ってるぜ」と言う。

>熊:なんでお前ぇが知ってるんだ?
>半:だってよ、「どっかに良い娘はいねえかねえ」なんて聞かれちゃ、冷たくあしらえねえじゃねえか。
>熊:その竜って奴と、どこで顔見知りになったんだ?
>半:湯屋(ゆや)だよ。なんだか知らねえが、良く一緒になるもんでよ。こっちから声を掛けたのさ。そしたら、年もおんなじだって言うじゃねえか。そんでよ、「良い娘でもいねえかな」なんて溜め息まで吐きやがるから、どうせ目の正月だろうくらいの気持ちでお町ちゃんのことを話して聞かせたんだ。
>三:そんなことなんですか?
>八:あらま。
>半:どうかしたのか? そういや、近頃は見掛けねえな。
>熊:殴り合いで負けたから風呂にも入れねえんだろうよ。
>半:なんだと? 誰と喧嘩(けんか)したんだ?
>熊:飲み仲間の秀って奴とだ。お町ちゃんの取り合いだとさ。
>半:なんだと? 竜の奴、本気になっちまったのか?
>熊:どうやら、そういうことらしい。
>松:秀の野郎まで本気になっちまったのか。参ったね、どうにもこうにも。
>八:今じゃ、この三吉の立派な恋敵(こいがたき)よ。あっはっは、見ものだな、こりゃ。
>三:楽しそうに話さないでくださいよ、八兄い。
>八:良いじゃねえか。・・・なあ、半次。事の成り行きをお町ちゃんに話して聞かせてやって呉れねえか? 今どういうことになってるのか、一番分かってねえのは当のお町ちゃんなんだからな。
>熊:まあ、ご当人に考えて貰うのが、この際、一番増(ま)しなことかもな。
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