290.【た】 『旅(たび)の恥(はじ)は掻(か)き捨(す)て』 (2005.06.27)
『旅の恥は掻き捨て』
旅先では知った人もいないし、長く滞在する訳でもないから、恥ずかしい行ないもその場限りのものである。旅先でなら、普段ならしないような恥曝(さら)しなことも平気でするということ。
類:●後は野となれ山となれ
反:●立つ鳥跡を濁さず
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熊五郎と万吉が甚兵衛の家を訪(たず)ねると、件(くだん)の招き猫が、床の間にでんと鎮座(ちんざ)坐(ましま)していた。
余程(よほど)布で拭(ふ)いたのであろう、新品同様に黒光りしていた。
ともすると、本当に新品なのかも知れない。

>熊:大家(おおや)さん、その招き猫、撫(な)でさして貰っても良いですかい?
>甚:良いですとも。熊さんも、やっと信心(しんじん)の大切さが分かってきたようですね。
>熊:そんなご大層なもんじゃありませんけどね、縁起(えんぎ)もんは縁起もんですから。
>甚:そうですとも。源五郎にも、熊さんの爪の垢(あか)を煎(せん)じて飲ませたいものですよ。
>熊:そんな言い方はしないでくださいよ。ああ見えても、結構信心深いんですぜ。親方ほどご先祖さんを大事に思ってる人なんて、そうざらにいるもんじゃねえんですから。
>甚:どうでしょうかね。幻祥(げんしょう)先生のことを疑(うたぐ)って掛かるなんて、人の風上にも置けません
>熊:酷(ひで)え言いようですね。
>甚:いえいえ。源五郎はあたしの弟子である源蔵の倅(せがれ)ですからね。ちょっと言いようはきついですが、それもこれも親心からですよ。
>熊:そういうことだったら良いんですけど。・・・それはさて置き、大家さん、この招き猫でやすが、まるで真っ新(さら)ですね。

>甚:そうでしょう? 大方、前の持ち主だったという人が大事に仕舞っていたのでしょう。
>熊:大事にしてたってんだったら、庭に埋まってたりしねえんと違いますか?
>甚:そんなことまでは分かりませんねえ。引越しのときに落としてしまったか、賊(ぞく)が荒らしたか、さもなければ、そこに埋めると良いことがあると言われたとか。
>熊:それかも知れませんぜ。
>甚:「それ」とは?
>熊:その八卦見(はっけみ)の先生から言われたのかもってことですよ。それなら、「どこそこを掘れば良い」なんてことが言えたんじゃないんですか?
>甚:真逆(まさか)、そんなことがあるもんですか。
>熊:ないって言い切れますかい?
>甚:だってね、熊さん、幻祥先生はつい3年前まで熊野で修行をしていたんですよ。あたしがここに住むようになったのは10年も前です。勘定(かんじょう)が合わないじゃないですか。
>熊:熊野の前は何してらしたんですかい?
>甚:諸国を行脚(あんぎゃ)していたということです。野州(やしゅう=下野国)やら甲州(こうしゅう=甲斐国)やら。そんな方が前の住人のところなどに来ますか?
>熊:なんだか、江戸から近いとこばっかりですね。そんなら、いつだって寄れるじゃねえですか。
>甚:修行の途中で江戸になど寄れますか。
>熊:生臭(なまぐさ)坊主の修行なら寄りますねえ。旅の汚れを落としに、吉原あたりとか。知り合いがなけりゃ、羽目も外すでしょうね。それが旅先となりゃ、もしかすると、盗みや集(たか)りだってするかも知れませんぜ。
>甚:く、熊さん。あんたまでそんなことを言い出すのですか。

>熊:い、いえ。そういう人もいるだろうってことですよ。坊さんの修行ってのは大変でしょうからね。
>甚:先生が生臭であるみたいになど、言うものではありません。・・・それにね、先生は修験者(しゅげんじゃ)であって、坊主ではありませんからね。
>熊:似たようなもんでしょう?
>甚:これだから、今の若い者は何も分かっていないというのです。虚無僧(こむそう)と修験者の違いも分からない。
>熊:格好が違います。
>甚:そんなどうでも良い違いではありません。体得(たいとく)するところのものが違うのです。
>熊:神さんか仏さんかってことですかい?
>甚:い、いえ。そういうことになると、どちらも仏様ではある訳ですが・・・
>熊:なんだ、それじゃあ、一緒じゃねえですか。
>甚:違うのですよ。座禅で心を無にして無我の境地に達するのと、苦行(くぎょう)によって霊験(れいげん)を体得するのとでは大変な違いですよ。先生は霊験を得ておられるのです。
>熊:ほんとですかい? 「きえーっ」とかなんとか言うんですか? そんでもって相手がぱったり倒れるんでしょう?
>甚:ほう、良く知っているではありませんか。中々物知りですね。
>熊:いえ。この間、祭りの見世物(みせもの)小屋でやってましたから。
>甚:なんということを。馬鹿にするのですか、青二才の分際(ぶんざい)で。

甚兵衛は本気で怒り始めてしまった。こうなってはもう手が付けられない
熊五郎と万吉は、掃(は)き出される塵(ちり)のように放り出された。

>万:あの、私の考えを言っても良いですか?
>熊:おう。なんでも言ってみて呉れ。なんかの足(た)しになるかも知れねえ。
>万:あの招き猫は、何年も前に埋めたものじゃないんじゃないかと思うんです。もしかすると、お告げに来た日の数日前なんじゃないかと思います。
>熊:それで?
>万:もしかすると、仲間がいそうです。それで、示し合わせて、お年寄りのところばかりを狙(ねら)ってるんじゃないかと思います。
>熊:ほう。そりゃあ面白(おもしろ)い見方だな。って言うより、そんなに大掛かりなことをやらかしてるんだったら、見過ごしにはできねえな。
>万:他にも騙(だま)されている人がいるんじゃないでしょうか?
>熊:しかしよ、招き猫を只(ただ)でやっちまうんだぜ。そんなんじゃ、銭にならねえんじゃねえか?
>万:兄(あに)さんは、床の間に変な色の壷(つぼ)が置かれてたの、気が付きませんでしたか?
>熊:あ、あれか? 紫陽花(あじさい)みてえに青と赤が斑(まだら)になったような奴?
>万:ええ。ちょっと値の張りそうな感じのする・・・
>熊:でもよ、高々壺だろう?
>万:ええ。ですが、目が曇ってしまっている人なら、少々吹っ掛けられても買うでしょう?
>熊:ふむ。あんだけ信じ込んでりゃ、そうなるな。
>万:そういう人が5人も10人もいたら、相当なもんですよね。

>熊:ん? 待てよ。そう言や、ちょっと前に似たようなことがあったな。
>万:壺のことですか?
>熊:いや。年寄りばっかり狙ってよ、倅が人様に怪我(けが)をさせたから銭を払えって奴よ。
>万:ああ、確か、そんなこともありましたね。手口は似てますよね。
>熊:だがよ、今度のは騙(だま)された当人が、騙されたのに気が付いてねえって分、質(たち)が悪いぜ。
>万:まったく、悪いことを考える奴がいるもんですねえ。
>熊:おんなじ奴ってことも考えなきゃならねえな。
>万:え? でも、前の騙(かた)りの奴らってのは、お縄に掛かったんじゃないんですか?
>熊:蜥蜴(とかげ)の尻尾(しっぽ)だよ。頭目(とうもく)は、切られた手下どもを見捨てとんずらよ。
>万:へえ。そうなんですか。兄さんは、随分とお詳(くわ)しいんですね。
>熊:そりゃそうだ。もう一歩のところまで追い詰めたのは、おいらたちなんだからな。
>万:ええっ? ほんとなんですか?
>熊:もう少しだったんだがな。いつも惜しいとこで逃げられちまう。
>万:っていうことは、前にもその頭目のことを追い掛けたことがあるんですか?
>熊:嫌になるほどな。・・・淡路屋太郎兵衛って野郎だ。
>万:名前まで分かってるんですか?
>熊:ああ。姐(あね)さんや親方には曰(いわ)く付きの下衆(げす)野郎だ。今頃どっかで妙ちきりんな壺を拵(こさ)えてるかもしれねえな。
>万:それが、幻祥って八卦見とどう絡(から)んでくるんですかね?
>熊:下野(しもつけ)だか甲斐(かい)だかに逃げてるらしいから、大方、そこいらだろう。
>万:甚兵衛さんが言ってた幻祥の立ち回り先と一緒ですね。
>熊:騙りとか盗人(ぬすっと)みてえな屑(くず)野郎は一っ所に集まるって言うからよ。
>万:「類は友を呼ぶ」って奴ですね?
>熊:ご公儀(こうぎ)のお膝元じゃねえのを良いことに、相当あくどいことでもやっていそうだな。
>万:やっぱり、そいつが仕組(しく)んでるみたいですか?
>熊:ああ。恐らく間違いねえだろう。・・・そうか。段々読めてきたな。さ、六さんのとこへ戻ろうか。こりゃあ、5人だけじゃ片付かねえことになってきやがったぞ。

万吉は、この新米親方の得体(えたい)の知れなさに、益々、尊敬の念を膨(ふく)らませていた。
お咲と千吉がどういう情報を得てくるのか、楽しみになり始めていた。
つづく)−−−≪HOME