285.【た】 『立(た)つ鳥(とり)跡(あと)を濁(にご)さず』 (2005.05.23)
『立つ鳥跡を濁さず』[=後を〜]
立ち去る者は、自分が居た跡を見苦しくないように、良く始末しなければならない。また、退き際が潔(いさぎよ)く綺麗であること。 用例:日葡辞書「タツトリモアトヲニゴサヌ」
類:●鷺は立てども後を濁さず●飛ぶ鳥後を濁さず
反:●旅の恥は掻き捨て後は野となれ山となれ●旅の恥は弁慶状
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それにしても妙なのは源五郎の表情と、何も言ってこないあやである。
八兵衛の冗談ではないが、熊五郎は、何もできないもどかしさに少々弱気になっていた。
どうにも地に足が付かない状態である。
身体はくたくたなのに目が冴(さ)えてしまい、夜半までまんじりともしない有り様であった。
「いつまで寝てやがる。今日は早めに行かなきゃならねえんだろう?」という八兵衛の声に起こされたとき、昨日の疲れがどっと押し寄せてきた。

>熊:もうぎりぎりか?
>八:そうでもねえよ。見習いが来ると思ったら、嬉しくって早くに目が覚めちまった。
>熊:早めに来いって呼ばれたのはおいらと五六蔵だけじゃねえか。
>八:そう言うなよ。片一方こっちに呉れって言っておきてえじゃねえか。
>熊:お前ぇ、本気か?
>八:あたぼうよ。だってよ、「見習いと畳表(たたみおもて)は新しいに限る」って言うじゃねえか。
>熊:それを言うんだったら「女房と」だろ?
>八:そう言うのか? でもおいらは、ついこの前に貰ったばっかりだから、まだ変えるつもりはねえぞ。
>熊:当たり前だ。あんな良く出来た女房を捨てたら罰(ばち)が当たる
>八:そうだろそうだろ。良くぞ言った。
>熊:朝っぱらから手前ぇの惚気(のろけ)なんか聞かされたかねえや。直(す)ぐに用意するから飯でも掻(か)っ込んでろ。
>八:もう丼(どんぶり)一杯食っちまったよ。今日も天気だ。快調快調っと。
>熊:お前ぇは良いよな、悩みもなんもなくってよ。
>八:その方が長生きするってもんだ。くよくよ考えたって良いことねえぞ。さ、起きた起きた。

八兵衛のお陰でいくらか気分も良くなった。
急いで顔を洗い、お花から分けて貰った朝餉(あさげ)を掻き込んで、源五郎の家に向かった。

万吉・千吉の兄弟は、座敷に上げられて、飯を食わせて貰っていた。

>八:おはよう御座いまーす、親方ぁ。
>源:なんだ、八。お前ぇは真っ直ぐあっちに行くんじゃなかったのか?
>八:聞いたら、見習いが2人も来るってぇじゃないですか。そう聞いちまうと、真っ先に面(つら)を拝(おが)みたくなっちまいましてねえ。
>源:まったく、しょうのねえ野郎だな。まあ上がれ。五六蔵も追っ付け来るだろう。

万吉と千吉は、小声で「おはよう御座います」と挨拶(あいさつ)してきた。

>八:よう、お前ぇたちか、宜(よろ)しくな。・・・それでね、親方。見習いが2人いるんだったら、片一方おいらたちの方に回してくださいよ。ね?
>源:そいつは駄目(だめ)だ。こいつらは熊に預(あず)けることになってるんだ。
>八:そこを枉(ま)げてなんとか・・・
>源:そいつはできねえ。
>八:どうしてなんですか? こっちは3人、あっちは2人。こっちの方が多い分、なにかと気が回りますぜ。
>源:それでも駄目だ。・・・実はな、こいつらは熊の弟子にすることに決めたんだ。
>熊:弟子ですかい? おいらの?
>八:そりゃあ・・・
>源:熊。
>熊:へい。
>源:お前ぇ、暫(しばら)くこいつらを鍛(きた)えてやって、どうにか使えそうになったら、一本立ちしろ。
>熊:なんですって?
>八:お、親方、そりゃどういうことですかい? 真逆(まさか)熊を追い出そうってんじゃ・・・
>源:「追い出す」ってのとは違うに決まってんだろ。商人(あきんど)みてえに言えば暖簾(のれん)分けだ。
>熊:で、ですが、おいらの方には用意もなんにもできてねえんですぜ。
>源:そいつはもう整(ととの)ってる。
>八:するってえと親方。お咲坊のこともってことでやすか?
>源:そうだ。六之進さんも認めてくだすった。
>熊:そりゃあ・・・
>八:やい、熊。良かったじゃねえか。なにが魂消(たまげ)たって、こんなに魂消たことはねえけど、こんなに好い話もねえぞ。
>熊:ほんとのことなんでやすかい?
>源:今更(いまさら)お前ぇを担(かつ)いでどうするってんだ? お咲ちゃんのこと、大事にしてやれ。
>熊:へ、へい。

ここ暫くの源五郎のにやけ顔とは、このことだったのである。
お咲があやに付いて、大工の女房のいろは手解(てほど)きされていたということらしい。
それはそれで頷(うなず)ける。
理解できないのは、何故(なぜ)八兵衛でなく熊五郎なのかというところである。

>八:そんで親方、おいらの暖簾はいつになったら分けて貰えるんですかい?
>源:まだだ。
>八:そりゃあどういうことです? おいらが熊よりも下だってことですかい?
>源:そうじゃねえ。お前ぇのこともちゃんと考えてある。だがな、一遍に2人ともいなくなられちまうと、俺が困る。五六蔵はまだ増しだとしても、三吉と四郎には、もう暫くお前ぇが要(い)るんだよ。
>八:そりゃあ、おいらじゃなくっちゃいけねえってことですかい?
>源:おうとも。八じゃなきゃいけねえ。
>八:そういうことなら、おいらにも合点がいきますよ。・・・でも、そうすると、熊のことだって、まだ置いといてやっても良いんじゃないんですか?
>源:そうしようとも思ったんだがな。・・・まあ、なんてのか、俺はどうもお咲ちゃんが苦手でな。
>八:親方が苦手なのは、お咲坊に限らず、世の中の女全部でやしょう?
>源:まあ、そう言うなって。でもよ、なまじ付き合いが長い分、あんまり目の前でいちゃくらして貰いたくねえんだ。
>熊:いちゃくらなんか、しますかってんです。
>八:ああ、するに決まってるな。そんなとこは、ほんとん
とこ、おいらもあんまり見ていたくねえ。
>熊:親方、なんて言い種(ぐさ)でやすか。そんなことが元で、おいらはおっ放(ぽ)り出されるってんですかい?
>源:まあ、そういうことにしとけ。・・・但(ただ)し、所帯(しょたい)を持つのは、この2人がちゃんと大工になると決めてからだ。それからな、お前ぇがいついなくなっても良いように、三吉と四郎のこともしっかり躾(しつ)けておけよな。そうじゃねえと、この話はご破算だ。

>熊:へ、へい。・・・で、そいつは、
いつ頃になるんですかい?
>源:さあな。3月先になるのか半年先になるのかは、お前ぇたち次第だからな。
>熊:おいらと?
>八:お咲坊に決まってるじゃねえか。馬鹿じゃねえのか?
>熊:喧(やかま)しいってんだ。
>八:でもよ、お咲坊のことだ、下手(へた)すると、きつーい女将(おかみ)になるかも知れねえぞ。
>源:これから弟子になろうって奴らの前で、妙なことを言い出すもんじゃねえ。
>八:へへ、済いません。・・・でもま、ここの大女将さんに付いてる訳じゃねえから、その点は安心かな。
>源:こら、そういうことも言うな。母ちゃんは地獄耳だから・・・
>雅:・・・あたしのどこがきついんだって、八? あんた、あたしの本当の怖さを知らないね? なんならもうちょっと扱(しご)いてやろうか?
>八:そ、それだけはご勘弁(かんべん)を。ま、真っ平(ぴら)ご免なすって。そ、そんじゃ、行ってきまーす。

万吉と千吉は委細(いさい)が分からず、ぽかんとした顔で八兵衛を見送り、顔を見合わせた。
熊五郎は、喜んで良いものやら、気を引き締めて良いものやらで、複雑な顔をしていた。
そんなところへ、漸(ようや)く五六蔵が現れた。

>五六:遅くなっちまいました。済いやせん。鉤助(かぎすけ)の奴がぐずりやがるもんで・・・
>源:大方の話は済んじまったよ。後は熊にでも聞いとけ。
>熊:お、親方、おいらの口から言うんですかい?
>源:そりゃそうだろ。お前ぇの一身上(いっしんじょう)の一大事だからな。・・・そんじゃな。行って来い。
>熊:親方ぁ・・・
>五六:あの、今さっき、八兄いと擦(す)れ違いやしたが、なんか関わりがあるんで?
>熊:そういう訳じゃねえさ。あいつは、大女将さんが怖くて逃げてっただけだ。余計なことを口走りやがるからいけねえのさ。
>雅:なんだい熊? まだいたのかい? 人の陰口なんか叩いてる暇があったら、とっととひよこどもを連れてって、餌(えさ)の捕(と)り方をしっかり教えておやり。
>熊:へ、へい。どうも済みません。
>雅:あ、それからね、ひよこらの食った丼だけどね、厨(くりや)まで下げときな。親方になって初(しょ)っ端(ぱな)の仕事としちゃ、気が利いてるだろ?
>熊:分かりやした。仰(おっしゃ)る通りで。
>五六:・・・なんですか? 今朝(けさ)の大女将さん、なんだか随分ご機嫌(きげん)でやすね?
>熊:道々話すよ。・・・さて、こいつを片付けたら出掛けるとしようぜ。
>五六:そんなこと、あっしがやりますって。
>熊:いや、良いんだ。・・・大女将さんの言う通り、おいらには上等な初仕事だ。
>五六:なんのことだか、さっぱり分かりませんぜ。
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