284.【た】 『畳(たたみ)の上(うえ)の水練(すいれん)』 (2005.05.16)
『畳の上の水練』
畳の上で水泳の練習をすることで、理論や方法は立派だが、実地の練習を経ていないので、実際の役には立たないこと。
類:●畳の上の陣立て●机上の空論畑水練
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大家(おおや)の甚兵衛から見習いを2人も押し付けられたと聞いて、熊五郎は憂鬱(ゆううつ)になった。
梅雨(つゆ)入りまでもう何日もない。それまでに2軒の家を完成させるのさえ至難の業(わざ)だというのに、素人(しろうと)の面倒など見ている余裕などありはしない。

>五六:あっしも踏(ふ)ん張りやすから、ね、気張(きば)って行きやしょう。
>熊:まあ、お前ぇと組ませて呉れたのがせめてもの救いだぜ。
>五六:そりゃあ、おいらが三吉や四郎よりは増しだってことでやすか?
>熊:ん? そうじゃねえさ。力のねえ四郎じゃいざというときに困るからな。
>五六:熊兄い、嘘でも良いから「ちっとは腕が立つ」くらいのことを言ってくださいましよ。
>熊:何を言ってやがる。まだ4年か5年の奴にそんなこと、口が裂(さ)けても言えるかってんだ。天狗(てんぐ)になるだけだろう?
>五六:ああ、そういう深(ふけ)えお考えがあってのことでやすか。こりゃあどうも、お見逸(みそ)れしやした。
>熊:そんなことで褒(ほ)められたって嬉しかねえや。
>五六:そうですか? あっしには、段々熊兄いが立派な親方に見えてきてるとこでやすけどねえ。
>熊:おいらだって八だって、まだまださ。親方がいねえと、何一つ満足にできやしねえ。
>五六:そんなことはねえですって。あっしらへの指図(さしず)の仕方だって随分と板に付いてきてやすぜ。
>熊:そりゃあ、お互い様だろうよ。お前ぇたちの方だって、こっちがつうと言やぁかあってな具合いに動いて呉れるようになってるってことよ。
>五六:あっしらは、言われる通りにしか動けませんがね。
>熊:初めのうちはみんなそうさ。おいらたちだって、ついこの間までそうだった。
>五六:弟弟子(おとうとでし)とか自分の弟子とかを持つと変わるってとこでやすかね?
>熊:そうかも知れねえな。もたもたしてると弟子に追い越されちまうからよ。尻に火が点くってとこだな。

>五六:それだったら熊兄い、今度の見習いの話ってのも、考えようによっちゃ好い話なんじゃねえですかい?
>熊:そんなことあるか。厄介(やっかい)ごとのお鉢(はち)が回ってきただけのことだろうよ。
>五六:あの親方が、なんの考えもなしに熊兄いばっかりに厄介仕事を押し付けるようなお人ですか?
>熊:そいつはどういうこった?
>五六:一本立ちさせようってんじゃねえんですかい?
>熊:おいらをか? ・・・真逆(まさか)。
>五六:だって、ここんところ、八兄いじゃなくって熊兄いにだけ急ぎ仕事が回ってくるじゃねえですか。八兄いより熊兄いのことを買ってるって証(あかし)じゃねえですかい?
>熊:そんなことあるかよ。親方は、これまでだっておんなじように扱ってくだすったし、これからだってそうだろうよ。依姑贔屓(えこひいき)なさるようなお人じゃねえ。
>五六:贔屓ってのとは違うと思いますぜ、こういうことに限っては。
>熊:そうかも知れねえが。・・・だがよ、筋から行ったら、嫁を貰ってる八の方がおいらより先だろう?
>五六:そうと決まったもんじゃねえですよ。八兄いを手元に置いて、後を継(つ)がすってことだってあるでしょう?
>熊:そりゃぁねえって。あの棟梁がくたばらねえ限り親方だって、誰かに継がそうなんて考える道理がねえ。
>五六:そうでやすかねえ。・・・そんじゃ、なんか別に考えがありなさるんでしょう。あっしらには思いも付かねえようなとこまで考えなさるお人でやすから。
>熊:まあ、それはそうとしてもだ。おいらはまだ嫁の「よ」の字だって見当が付いてねえんだぜ。どうしようもねえじゃねえか。
>五六:どうでやすかねえ? 案外、その算段も付いていたりするかも知れませんぜ。なんてったって、姐(あね)さんがああいうお人でやすから。
>熊:うーん。それについちゃ、おいらにもさっぱり読めねえ。

確かに、近頃のあやとお咲は何かを企(たくら)んでいるようだ。
しかし、好い話だったら、当の熊五郎に話す筈(はず)であろう。今の状況はといえば、まったくの蚊帳(かや)の外ではないか。
期待はしていながらも、安易にはそういうつもりにはなれない熊五郎である。
「慎重居士(しんちょうこじ)」とまで陰口を叩かれる所以(ゆえん)である。

その日は、昼過ぎに源五郎も来て、どうにか最後の仕上げを終えた。

>源:明日はちょいとばかし早めに来て呉れ。万吉と千吉を引き合わせてやる。
>熊:年子だってのは聞きましたが、年は幾(いく)つなんですかい?
>源:19と18だ。
>熊:なんだか中途半端でやすね。今まで何をしてたんですか?
>源:さあな。又聞きした話によれば、なんでも、爺さんが書き残したもんを読んでたってことなんだ。
>熊:なんですかいそりゃ? 爺さんってのが立派な棟梁かなんかだったんってんですか?
>源:そこまでは聞いてねえさ。・・・だがな、仕口(しくち)と継ぎ手に付いちゃ一端(いっぱし)のもんだっていうことだぜ。
>五六:それじゃあ、あっしらよりもよっぽど知ってるってことじゃねえですか。
>源:お前ぇたちも、落ち落ち酒ばっかり食らってられねえぞ。
>五六:脅(おど)かさないでくださいよ。18・9の若造に負けてたら、好い笑いもんじゃねえですか。
>源:笑われる前になんとかしとくべきだったな。
>五六:そりゃあ無理ってもんですよ。あっしのお頭(つむ)はそんな上等なもんじゃねえんですから。

>熊:・・・でも親方、そいつら、ちゃんと鋸(のこ)とか鑿(のみ)とかが扱(あつか)えるんですかい?
>源:さあ、どうかな?
>熊:爺さんが書いたってものがどういうもんかは知りませんが、書いてあるもんをちゃんと形にできねえことにはどうしようもねえんですぜ。
>源:そりゃあそうだ。・・・まあ、俺の考えでは、大方、知ってはいるが作ったことはねえってとこだろうと思うぜ。
>熊:大丈夫なんですかい?
>源:何がだ?
>熊:変に頭でっかちになっちまってるんじゃねえかってことですよ。知ってはいるけどなんにもできねえってんじゃ、使いもんにはなりませんぜ。
>源:そいつを使えるようにするのがお前ぇの役目だろう?
>熊:全部おいらのせいってことですかい?
>源:そうだ。お前ぇの導き一つってことだ。頼むぞ。
>熊:頼むってったって・・・
>源:それじゃあ五六蔵、明日から忙しくなるからな。精々今日のうちに飲んだくれておくんだな。
>五六:明日っからの忙しさを考えたら、酒なんか喉(のど)を通りませんや。
>源:そいつが賢明(けんめい)なとこだな。

源五郎は、何故(なぜ)だか妙に上機嫌で帰っていった。
後片付けをしながら、五六蔵も「今日の親方、なんだか変でやしたよね?」と尋(たず)ねてきた。
熊五郎は、「今日に限らず、ここ半月ばかりなんか変だ」としか答えられなかった。

八兵衛は飲みに行こうと言い張ったが、他の全員に反対されて、ぶつぶつ言いながらも大人しく従った。
熊五郎と2人で長屋に向かいながら、こんなことを言い出した。

>八:今日よ、姐さんとお咲坊が連れ立って歩いてくのを見たぜ。
>熊:どこでだ?
>八:現場の近くよ。築土片町(つくどかたまち)の辺(あた)りだ。
>熊:お花ちゃんの家(うち)の方じゃねえか。なんだろうな?
>八:そりゃあ分からねえさ。・・・でもよ、ちょいと妙なのさ。
>熊:何が妙だってんだ?
>八:半時(はんとき=約1時間)後に帰ってきたんだけどよ、太助並みにひょろっとした若いもんを2人も従えてるんだよ。ありゃあ下手(へた)すると、お咲坊の婿(むこ)選びかなんかだぞ。
>熊:そんなことあるかってんだ。
>八:そんなの分かるもんか。姐さんだって、どっちかってえとおいらたちよりお咲坊のことを可愛がってるんだからよ。お前ぇのことなんか二の次なんじゃねえのか?
>熊:随分と言って呉れたもんだねえ。・・・だがよ、その2人ってのは、もしかすると、19とか18とかの兄弟みてえな奴らじゃなかったか?

>八:おっ、なんだよ。お前ぇ心当たりがあるのか? 流石(さすが)、お咲坊のこととなると抜け目ねえな。
>熊:おいらがお咲坊の婿探しなんかを知っててどうするってんだよ。・・・そうじゃねえってんだよ。あのな、今朝(けさ)出掛け前に親方に呼び止められてよ、明日っから見習いが2人来るって言われたんだ。
>八:明日からだと? それも2人? へえ、面白(おもしろ)そうじゃねえか。
>熊:何が面白いもんか。こっちはとんでもなく忙しいってのに、面倒を見なきゃならねえってんだぞ。
>八:お前ぇだけなのか? そりゃあ狡(ずる)いぞ。片一方おいらに貸して呉れ。
>熊:おいらに言うなってんだ。親方が決めなすったことだ。親方に頼め。
>八:そうか。それじゃあ、そうしてみるかな。
>熊:お前ぇなあ、良うく考えてからにしろよ。
>八:なんでだ?
>熊:梅雨前に片付けなきゃならねえことが山ほどあるんだぞ。素人の相手なんかしてられねえだろ?
>八:そんなことねえさ。こっちは3人いるんだ。取っ替え引っ替え相手してやりゃあ良いのさ。
>熊:そんなことしてたら、仕事が蔑(ないがし)ろになるだろう?
>八:大丈夫だって。おいらの場合、手と口とは別々に動かせるからよ。
>熊:そんなこと言って、口ばっかりが動いて手がお留守(るす)になるのが落ちだろうよ。

>八:それはそうと、どうして見習いの話にお咲坊が関わってるんだ?
>熊:知るかよ。姐さんの考えてなさることなんか、おいらごときには到底(とうてい)及びも付かないものだからな。
>八:小難しい俚諺(りげん)だかなんだかに詳(くわ)しい割りに、女心に付いちゃからっきしなんだからな、お前ぇは。
>熊:なら、お前ぇには分かるとでも言うのか?
>八:うーん。さっぱり分からねえ。・・・おいらのお頭は、そういうのには向いてねえんだな、きっと。
>熊:似たり寄ったりじゃねえか。・・・でもなぁ、聞いてみてえけど、当のお咲坊が余所余所(よそよそ)しいんだよな。
>八:終(しま)いかな?
>熊:手前ぇ、言うに事欠いてなんてこと言い出しやがる。
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