273.【た】 『大勇(たいゆう)は闘(たたか)わず』 (2005.02.28)
『大勇は闘わず』・戦わず
真に勇気がある人は、無闇(むやみ)に人と争わないものだ。
出典:「淮南子−説林訓」
*********

翌朝、八兵衛たちが根塚(ねづか)邸に来てみると、厳ノ輔(ごんのすけ)老人は破顔一笑(はがんいっしょう)といった様子で3人を出迎(でむか)えた。

>厳:おはようさん。さあさあ、今日も元気に働いてくださいよ。
>八:ご隠居様、なんだか嬉しそうでやすねえ。なんか良いことでもありなすったんで?
>厳:はい。実はですね、今度、後楽園のところに大きい芝居小屋などを建てようと思いましてね。
>八:へえ。ご隠居様は、芝居が好きなんでやすか。絵だけかと思ってましたよ。
>厳:絵は好きですよ。どちらかというと、芝居の方はあまり好きではありません。
>八:それなのに、なんで芝居小屋なんか建てようとしてるんです?
>厳:芝居というと、日本橋の堺町(さかいちょう)・葺屋町(ふきやちょう)くんだりまで行かなきゃならないじゃないですか。遠いんですよね、年寄りには。お堀の反対っ側ですよ。あんまりでしょう? だからこっちっ側に作っちゃおうってんですよ。
>八:でもご隠居様、こっちっ側なんか、職人ばっかりですぜ。芝居なんか誰が見るってんです?
>厳:そのうちご禁制も緩(ゆる)みますから、職人だって町娘だって見るようになりますとも。
>八:ほんとに緩みますかい? お上(かみ)の考えることなんて、さっぱり分かりませんからねえ。
>厳:そこは「魚心あればなんとやら」ですよ。ちょいと握(にぎ)らせればどうとでもなります。
>八:上様を丸め込んじまおうってんですか? そりゃあ止(よ)しといた方が・・・
>厳:そんな大それたことをしますかって。もっと下の方の人ですよ。町奉行所かご老中(ろうじゅう)かなら、なんとかなりそうでしょう?
>八:それなら、却(かえ)って斉(なり)ちゃんの方が・・・
>五六:八兄い。それは言いっこなし。
>厳:何か言いましたかな?
>八:い、いえ。ご老中ってのもあんまり上の方なんで、おいらたちには見当(けんとう)も付かねえってことですよ。

>厳:若年寄(わかどしより)なら、話し易いかも知れません。
>八:ご存知なんで、堀田摂津守(せっつのかみ)を?
>厳:おや八つぁん、八つぁんこそ良くご存知ですね。
>八:い、いや、ちょいとした腐れ縁でして。
>厳:ほう。それはそれは、八つぁんも隅に置けませんねえ。
>八:いやあ、それほどでも。何かってえと顔を出しやが・・・
>四:八兄い。その話もちょいと。
>八:あ、そうだったな。
>厳:なんだか変わった人たちですねえ、八つぁんたちは。・・・まあ、その話は良いでしょう。それで、その堀田様にちょいと立ち回って貰えば、なんということはなくお許しが出る筈(はず)です。
>八:するってえと、もう出たも同然ってことですかい?
>厳:そういうことです。・・・どれ、早速(さっそく)手土産(てみやげ)でも持って、行ってきましょうかね。

厳ノ輔は浮き浮きと支度(したく)を始め、いそいそと出掛けていった。
が、1時(約2時間)後に戻ってきたときには、目に見えてしょんぼりしていた。

>八:おや、どうしたんですかい、ご隠居様?
>厳:堀田様がね、どうしても駄目だって、首を縦に振って呉れないんです。こんなこと、これまでにはなかったんですけど。
>八:訳は言っちゃ呉れなかったんでやすか?
>厳:教えて呉れませんでした。唯々(ただただ)「無理だ」の一点張りなのです。
>八:そうですか。そいつは一安心(ひとあんしん)、い、いえ、ひ、一思案でやすねえ。
>厳:道々考えてはみたのですけど、さっぱり分かりません。
>五六:あ、あれじゃねえですかい? 水戸様の持ち物だから売ったり買ったりなんぞ以(もっ)ての外(ほか)だって。
>厳:そういうことなら予(あらかじ)め分かっていましたし、金子(きんす)次第では売らないこともないという話も付けてあったのです。
>五六:そんなとこまで根回ししてたんですかい? そりゃあ凄(すげ)え。
>厳:勿論(もちろん)、堀田様の指図(さしず)通りにということだったのです。
>八:するってえと、なんですかい? 初めに話を持ち出した癖に、自分の方から引っ込めちまったってことですかい?
>厳:そうなんですよ。ね? さっぱり分からないでしょう?
>八:勝手な野郎ですね、まったく。
>厳:「野郎」なんて呼ぶもんじゃありません。相手は若年寄なのですからね。もし誰かに聞かれでもしたら首が飛びますよ。
>八:大丈夫ですって。ここは、ご隠居様の屋敷の中なんですから。誰も聞きゃしませんって。それに、いくらおいらが向こう見ずだからって、刃物をぶら下げてる相手に向かって喧嘩を売ったりはしませんよ。
>厳:そうですよね。あたしも八つぁんの分別(ふんべつ)を見習って、大人し引き下がるとしますか。
>八:そうですよ。偉い人には逆らわない。それが長生きの秘訣(ひけつ)でやすよ。
>四:無闇(むやみ)に争いごとをしない人の方が、却(かえ)って強い人なんだって言いますしね。
>五六:そうでやすよ。変に波風(なみかぜ)を立てて、奥方さんやお店(たな)の暖簾(のれん)に傷が付いちゃ、それこそ元も子もねえってやつですからね。

>厳:逆らったりはしません。年寄りには、そういうことが一番堪(こた)えるのです。ですが・・・
>八:なんですかい?
>厳:やっぱり気になりますよねえ、どうして気が変わったのか。
>八:確かに。おいらも知りてえですねえ。
>四:そもそも若年寄は何を企(たくら)んでたんでしょうかね? なんで後楽園なんてとこじゃなきゃいけなかったんでしょう?
>五六:川を使って何かを運ぼうとしたとか・・・
>八:釣りがしたかったんじゃねえですかい? ご隠居様みたいに。
>厳:はっは。それはないでしょうがね。まあ、今となっては本人以外の誰にも分かりませんよ。
>四:今更聞きにいったところで、教えちゃ呉れませんもんね。
>五六:・・・もしかすると、水戸様が土地の一部を売ろうとしてるってことが、ばれちまったんじゃねえですか?
>厳:それは内々の話ですよ。そんなこと・・・。待てよ、そう言えば、ひょんなことを尋(たず)ねてきた者がおりました。
>八:なんて聞かれたんです?
>厳:「大旦那様は、芝居小屋なんかより、役者絵を集めて飾る方が向いてるんじゃありませんか」と聞かれました。
>五六:誰ですかい、そりゃ?
>厳:あたしのお店で雇(やと)っている者です。
>四:芝居小屋を建てるっていう話を聞かせていたんですか?
>厳:いいえ。働き始めてまだ4年ほどしか経っていませんから。そのような者に言う話ではありませんからね。
>五六:そいつは妙ですねえ。そりゃあ、どっかで立ち聞きしてたか、まったく別の筋から聞かされていたかですね。
>厳:別の筋と言いますと?
>五六:例(たと)えば、若年寄の手の者と友達だとか、若年寄の下で働いている淡路(あわじ)屋のもんと知り合いだとか。
>厳:ふむ。淡路屋からねえ。うーむ。・・・ん? なんで淡路屋のことを知っているのですか?
>五六:あ、いや、ちょいと、強請(ゆす)られたことがありやして、う、うちのお若女将(わかおかみ)が。
>厳:ほう、そうなんですか。それはそれは、難儀(なんぎ)でしたなあ。

厳ノ助は、それ以上は詮索(せんさく)してこなかった。
経緯(いきさつ)を八兵衛たちに話して、幾らか落ち着いたのであろう、次のことを考えるのだと言って引っ込んでしまった。
見方によれば、懲(こ)りない年寄りである。

夕方、熊五郎たちと合流して、芝居小屋の件は取り止めになったことを報告した。
三吉は胸を撫(な)で下ろし、これで親方に持ち掛けないで済みますねと溜め息を吐(つ)いた。
そんなところに、ひょっこりと源五郎が顔を出した。


>源:お前ぇら、近頃、何をこそこそやってやがるんだ?
>三:い、いえ、別に何も。
>熊:あ、あの、親方が近頃三吉の見合いの話を進めてくださらねえから、どうしようかなって。そんなとこです。
>源:なんだと? ああ、お町ちゃんのことか。なんだ三吉、お前ぇ、自分でなんとかすることもできねえのか?
>三:そ、そりゃあ、「だるま」で働くことになるなんて考えてもいませんでしたから。
>熊:毎日のように顔を合わせてるってのも、やり難(にく)いもんですぜ。
>源:お前ぇが言うと説得力があるな。
>熊:そ、それとこれとは別ですって。
>八:「これ」ってのはなんだ? お咲坊のことだってはっきり言いやがれ。
>熊:喧(やかま)しい。今話してるのはそういうことじゃねえ。三吉をどうするかってことだろう。
>源:いや。そういうことでもある。
>熊:親方ぁ。そんなにやついた顔で言わないでくださいよ。いつからそんなに人が悪くなったんですか?
>源:嫁を貰ってからだよ。まったく、妙な女だよな。
>八:その妙なところに惚(ほ)れちまってる癖に。そんでもって、惚れてるから、そういうとこが似ちまうんですよ。
>源:そうか? そりゃあ仕方ねえな。座布団みてえに尻に敷かれちまってるからよ。
>八:かあっ。抜け抜けと、良く言いますよ。
>源:良いじゃねえか。亭主ってのはな、女房の言うことを「はいはい」って聞いてるくらいの方が良いの。それが正しい亭主の道ってもんだ。なあ、五六蔵?
>五六:へ、へい。まったくその通りで。

「根塚の隠居のお守(も)りも大変だろう」と、源五郎は、飲み代をちょっとばかし置いて奥へ引っ込んでいった。
丁度戻ってきた友助を連れて、6人で「だるま」へと向かった。

>八:なあ三吉、宣太って野郎は今夜も来てると思うか?
>三:まず間違いなく。
>八:そうか。それじゃあ今夜は、そいつの御託(ごたく)なんぞを肴(さかな)にしてきゅっとやろうじゃねえか。
>三:きっと、「大旦那様と会った序(つい)でにそれとなく遠回しに探(さぐ)りを入れときましたぜ」なんて、得意な面(つら)して言いやがりますよ。
>八:根塚のご隠居さんを担(かつ)いでやったって聞いたら、どんな面に変わるかな? 楽しみだな。
>三:素っ頓狂(とんきょう)な声を上げますぜ。「ひょえーっ」なんてね。
>八:良い肴になりそうだな。・・・それからよ、なあ熊。お咲坊の奴、あの話がお流れになっちまったって聞いたら、どんな面するだろうな?
>熊:知るかよ。端(はな)っから、決まるか決まらねえかも分からねえことだったからな。
>八:きっとよ、「なんでそんなことしちゃったのよ、この甲斐性(かいしょう)なし」なんて怒られちまうぞ。
>熊:おいらが知るかってんだ。
>八:よう、熊。お前ぇもあれか? 尻に敷かれて満足しちまう口(くち)か?
>熊:そんなのは、それこそ相手次第だろう。どうなるかなんか今から分かるかよ。
>八:するってと何か? お咲坊の他に誰か目星でも付けてるってのか?
>熊:違うって。そんなのがいりゃ、とっくの昔に貰ってら。
>八:おっ。手前ぇ、初めて認めやがったな、こんちきしょう。
>熊:認めてなんかいねえじゃねえか。
>八:良いの良いの。八兵衛さんにはお見通しなのさ。・・・お咲坊ももう年頃だ。お前ぇもそろそろ年貢(ねんぐ)の納め時だな。
(第31章の完・つづく)−−−≪HOME