271.【た】 『大事(だいじ)の前(まえ)の小事(しょうじ)』 (2005.02.14)
『大事の前の小事』
1.大事を行なう前は、どんな小事にも油断をしてはいけない。 類:●大事は小事より起こる
2.大事の前には、小事を犠牲にしても止むを得ない。大事を行なう前は、些細(ささい)なことには構わない方が良い。 
類:●小の虫を殺して大の虫を助ける尺を枉げて尋を直ぶ
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あくる日の夕方、八兵衛と五六蔵・四郎はへとへとになって戻ってきた。
身体(からだ)が疲れているというのではない。顔が、見るからに精彩(せいさい)を欠いているのである。
うんざりといった様子である。

>熊:どうしたい? やっぱりやられたのか?
>八:ああ。こってりとやられたぜ。
>五六:どうなってるんでやすかねえ、あのご隠居さんは?
>四:ずっと付きっ切りなんですからね。
>熊:どんなことを言われたりするんだ?
>八:「年季が入った鑿(のみ)ですが、ちょっと錆(さ)びてるじゃありませんか」とか「食べてばかりいると下っ腹(ぱら)が出ちゃいますよね」とか・・・
>五六:「その訛(なま)りは信州の出ですね」とか「大工の割りには言葉遣(づか)いが破落戸(ごろつき)みたいですね」とか・・・
>四:「そうですか、跡継(あとつ)ぎが産まれたんですか」とか「職人さんというよりも百姓(ひゃくしょう)のような臭(にお)いがしますね」とか・・・
>熊:随分と口数が多いんだな。
>八:喋(しゃべ)りっ放しよ。のべつ幕なしってとこだ。
>五六:仕事のことなら言い返しようもあるんでやすが、そうじゃないことが殆(ほとん)どなもんで、生返事を返してるんですけどね。
>四:そうすると、逆に根掘り葉掘り聞いてくるんです。
>八:こっちは畳を剥(は)がしたり敷居(しきい)を外(はず)したり、力仕事をしてるんだぞ。一々手を休めて返事なんかしてられねえだろ? そうすると、寂しいんだかなんだか、矢継ぎ早に聞いてくるんだ。
>五六:八兄いんとこが一等長いから、その間は気が楽でやすが。
>八:おいらのこと目の敵(かたき)にしてるんじゃねえのか?
>熊:最初に媚(こ)びを売ったのはお前ぇの方だろう。

>八:なあ熊、替わって呉れねえか?
>熊:なにを言ってやがる。取っ掛かっちまったものを途中から変えられるかって。それこそ親方の顔に泥を塗(ぬ)るってもんだぞ。
>八:そうなるか?
>熊:ああ。あっちは名のある大問屋のご隠居様だ。あっちやこっちで言い触らされたら、おいらたちは一巻の終わりだ。
>八:真逆(まさか)あのご隠居さんがそんなことをするっていうのか?
>熊:そりゃあおいらにだって分からねえさ。唯(ただ)な、そうなり兼ねねえってんなら、おいらたちはそうすべきじゃねえ。
>八:そんじゃ、おいらは暫(しばら)くこんな毎日を送らなきゃならねえのか?
>熊:そういうこった。早くてもあと4・5日は掛かるな。
>八:気が変になっちまったらどうするんだ? お前ぇのせいだぞ。
>熊:お前ぇのお頭(つむ)なら大丈夫だよ。おいらよりよっぽど柔らかく出来上がってるからな。
>八:そりゃあそうかも知れねえが、おいら、いらついて仕方ねえんだよ。
>熊:我慢(がまん)しろ。もし、お前ぇの我が儘(まま)が元で仕事がぴたりと来なくなってみろ。親方や姐(あね)さんだけじゃなく、五六蔵んとこの鉤(かぎ)坊や四郎んとこの元(げん)坊だって干上がっちまうんだからな。
>八:そんな大袈裟(おおげさ)な。

>熊:大袈裟かどうかなんてことは、この際どうでも良いの。そうなっちまってからじゃ遅(おせ)えんだよ。
>四:八兄い、元吉のために、どうか堪(こら)えてください。
>五六:あっしからも頼みます。
>八:そ、そこまで言われちゃ嫌とは言えねえがよ、でも、どう考えてもそんな大事(おおごと)になるとは思えねえんだがな。
>熊:まあ、騙(だま)されたと思って続けるこったな。・・・それに、裏を返せば、申し分なくでき上がりゃ、評判が上がって親方の名が世間に轟(とどろ)き渡るかも知れねえ。
>八:そうか。そうなったら凄(すげ)えな。おいらがその片棒を担いだってことだよな?
>熊:そうともよ。
>五六:流石(さすが)は八兄い。凄えことをしようとなさってる。
>四:おいら、元吉がでかくなったら、八兄いの勇姿(ゆうし)を末代(まつだい)まで語り継(つ)ぐように言い聞かせます。
>八:おお、そうか。そりゃあ良いや。精々(せいぜい)頼もしく話してやれよ。
>熊:・・・まったく、乗り易い奴を騙くらかすのは楽で良いや。
>八:ん? なんか言ったか?
>熊:いや。さ、鑿の手入れでもして「だるま」にでも飲みに行こうや。
>八:「鑿」に「飲み」を掛けてるのか? 面白(おもしれ)えことを言うじゃねえか。
>熊:もっと違うことに気付けっての。

「だるま」に入ってみると、昨夜(ゆうべ)ほどには混んでいなかった。
今夜の友助は、根塚のご隠居の達(たっ)ての所望(しょもう)ということで、黒檀(こくたん)の欄間(らんま)を手配すべく駆けずり回っていて、来られなかった。

>八:おっ、今日は座れそうだな?
>町:いらっしゃいませ。待ってたわよ。
>八:おいらをかい? それとも三吉をかい?
>町:三吉さんに決まってるじゃない。
>八:お、お町ちゃん、もしかして、お前ぇ、三吉に惚(ほ)れてたのか?
>町:え? 違うわよ。そうじゃなくって、三吉さんのことを待ってる人が来てるってこと。
>八:それって、昨夜も来てたあれか?
>町:そう。でも、今日は1人よ。

宣太が、風呂吹き大根を突々きながら手酌(てじゃく)で飲んでいた。
そして、三吉の予想通り、「よう三吉、どうしたい? 大旦那様には手を焼くだろう?」と声を掛けてきた。

>三:宣太、お前ぇ、ほんとに来やがっやのか?
>宣:ん? なんだその「ほんとに」ってのは? 別に約束もなんにもしてなかったよな?
>三:してなくたって分かるさ。長い付き合いだからな。
>宣:なんだ。先を読まれちまってたか。参ったな。脅(おど)かそうかと思ったのによ。
>三:なんて言って声を掛けてくるかまで、一字一句そのまんまだったぜ。
>宣:はあ、そりゃあ魂消(たまげ)たな。・・・でも良いや。そんで、どうだった? 大旦那様は?
>三:まあ待てよ。今日は隣(となり)に座ってるんだから、兄いたちにちゃんとご挨拶(あいさつ)しろ。
>宣:あ、そうか。こりゃあおいらとしたことが。・・・兄(あに)さんがた、宣太と申します。大旦那様のことで聞きたいことがあったら、なんでも聞いてお呉んなさいまし。
>八:おいら、八兵衛ってんだ。そんでもってこいつが熊。あとはその他細々(こまごま)だ。
>五六:細々はねえでしょう。ええと、こっちが五六蔵で、そっちが四郎でやす。お見知り置きを。
>宣:ああ。三吉とずっと一緒にいて呉れたっていう「五六蔵兄貴」ですか。話だけは聞かされてますよ。
>八:そんなら話が早(はえ)えや。・・・ゆんべは身欠き鰊(にしん)まで貰っちまって済まなかったな。
>宣:いいえ。こっちこそ、碌(ろく)なご挨拶もしねえで、失礼しちゃいました。
>八:良いって良いって。下手(へた)な挨拶よりも鰊の方がなん層倍(そうばい)も良いに決まってら。
>熊:そんなこと、決まってねえっての。

三吉は、宣太の向かいの席に腰を下ろした。

>三:お前ぇの言う通り、八兄いと五六蔵兄貴と四郎が、早速(さっそく)やられたってよ。
>宣:だろ? だから注意するように言ったじゃねえか。
>三:でかい声じゃ言えねえがな、・・・素直に聞くような兄いじゃねえの。
>宣:そうか。折角(せっかく)の諌(いさ)めをふいにしちまったのか。・・・ま、済んじまったことは仕方ねえか。そんで? あと何日くらい付き合わされるんだ?
>三:4・5日ってとこじゃねえかと踏んでるんだがな。
>宣:延(の)びるぜ。
>三:なんだと?
>宣:言っちゃなんだがな、こんな面白(おもしれ)え兄いを、大旦那様がおいそれと逃(の)がすもんかってんだ。
>三:そういうお人なのか?
>宣:間違いねえ。次から次と注文が増えるぜ。何しろ銭はあるんだ。「折角(せっかく)だから軒(のき)をどうする」だ、「柱も替えようか」だ、「欄間も替えるから職人を手配(てくば)りしておけ」だ、ってな具合いにな。
>三:おっ、当たりだ。先(ま)ずは、欄間のことを言われたよ。

>宣:やっぱりな。そんな風にして、いつまでも繋(つな)ぎ止められるのさ。
>三:そんなことになったら、他のことに手が回らなくなっちまうじゃねえか。
>宣:そうよ。それが狙(ねら)いよ。
>三:どういうこった?
>宣:気に入ったら全部自分のものにしねえと気が済まねえのさ。気が付いてみたら、根塚屋の雇(やと)われみたいなことになってる。
>三:そりゃあねえよ。
>宣:問屋株を買い上げて自分のものにしちまったなんてことは、あの爺さんにとっちゃ朝飯前なのさ。
>三:そりゃあ大変だ。急いで親方に報(し)らせねえと。
>宣:まあ待てって。おいらが間に入って立ち回ってやるからよ。
>三:お前ぇがか? そりゃあ心配だな。
>宣:なんだと? お前ぇ、おいらと何年付き合ってると思ってるんだ?
>三:だから言ってんじゃねえか。お前ぇが動くと、良いとこまでは行くんだけど、肝心要(かんじんかなめ)のことは片付かねえじゃねえか。
>宣:それを言われると返す言葉もねえ。
>三:そういうことなら、自分らでなんとかしてみるよ。
>宣:そう冷たくするなって。良いとこまではおいらが動いてやるからよ。
>三:ちゃんとやるんだろうな?
>宣:外(ほか)でもねえ三吉のためだ。身を粉(こ)にして働いてやるよ。
>三:まあ良いや。頼むことにするよ。
>宣:よし決まりだ。・・・そんな訳で、今日の飲み代(しろ)はお前ぇの持ちだからな。
>三:なんだと?
>宣:良いじゃねえか。大事(おおごと)になるかも知れねえことを教えてやったんだ。それに比べりゃ、汚(きたね)え縄暖簾(なわのれん)の飲み代なんざ知れたもんだろ?
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