221.【し】 『死馬(しば)の骨を買う』 (2004/03/01)
『死馬の骨を買う』
つまらない者をまず優遇すれば、優(すぐ)れた者が自(おの)ずから集まってくる。 例:「死馬の骨を五百金で買う」
類:●隗より始めよ
参考:「戦国策−燕策上・昭王」 燕のある臣下が、主君の命令で千金を持って名馬を買いに行ったところ、その名馬は既に死んでいたので、その骨を五百金で買って帰った。その話が中国全土に広まり、生きた馬ならもっと高く買って貰えるだろうと各地から名馬が集まった。
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お咲は、松吉の頼みを一も二もな引き受けた。
一番仲良くしていたお夏がいなくなってから、事件らしい事件もなく、少々くさくさしていたところである。
被害に遭(あ)ったという本人と話をしてみたいという好奇心も、勿論(もちろん)、あってのことである。
要するに野次馬なのである。

>咲:ねえねえ、あたしたちで捕まえることができると思う?
>松:そうそう簡単にはいかねえさ。でもよ、なんかの足(た)しにはなるんじゃねえか?
>咲:足しじゃ詰まんない。捕まえてやりましょう。ね?
>松:そう鼻息ばっかり荒くしていちゃ、巧(うま)く行くこともいかなくなっちまうぞ。
>咲:そういうのがあたしたちの遣り方なの。それに、本郷でしょう? 目と鼻の先じゃない。
>松:本郷って決まった訳じゃねえさ。・・・でも、豊島(としま)とか谷中とか、なんだかその辺りに固まってるような気もするな。
>咲:そうなの? うーん。
>松:なんか心当たりでもあるのか?
>咲:ちょっとね。谷中の辺りに悪い思い出があるのよね。
>松:それって、あれか? あやさんの身代わりになって勾引(かどわか)されたっていう?
>咲:そう。淡路屋太郎兵衛。
>松:あんときは豪(えら)い騒ぎだったよな。・・・でも、そいつら、近頃はめっきり大人しくなったってことじゃねえか。考え過ぎだよ。
>咲:そうかしら? あたしには、あいつらが何年も大人しくしてるって方が信じらんないけど。
>松:そりゃあ、お咲坊が酷(ひど)い目に遭ったからだろ? 案外反省して真っ当な人間になったかも知れねえじゃねえか。源五郎親方にどやし付けられて縮み上がってたってんだろ?
>咲:子分の権太(ごんた)って奴は全然縮み上がってなんかいなかったわ。それに、あの蛇みたいな目・・・

お咲は当時を思い出したのか、ぶるっと身震いした。

>松:寒いのかい?
>咲:そうじゃないのよ。あの権太って奴の目を思い出しただけで、寒気がするの。一度見たら忘れられない目だわね、悪い意味で。
>松:そんなに嫌らしかったのか?
>咲:嫌らしさとはちょっと違うのよ。危なっかしさね。ちょっとでも気を抜くと命を取られちゃうような、そんな気にさせるのよ。
>松:そりゃあ相当だぜ。もしも、今回の一連の如何様(いかさま)に関わってたら一遍で分かるぜ。
>咲:そう軽々しく人前に出たりなんかしないわよ。
>松:そうか。それじゃあ、そいつらだなんてことは聞いて回っても分からねえってことだな。
>咲:うーん。・・・でもね、最近じゃなくって、1年とか1年半前だったら見回りに来てるかも知れないわよ。
>松:そんな昔のことじゃそうがねえぞ。
>咲:そうでもないわよ。聞いて回っているうちに「そう言えば・・・」ってことになるかも知んないじゃない。何人かが覚えがあるってことになったら、間違いなく権太たちの仕業(しわざ)よ。
>松:分かった分かった。念のために聞いてみるとしよう。・・・だがな、始めっから決め付けることだけは駄目だぜ。違ってたら、とんだ遠回りになっちまうからよ。
>咲:分かってるって。こう見えたって、あたしは有能な下っ引(ぴい)きなんだからね。

松吉の飾り職仲間というのは、名を並助(なみすけ)という。
腕はそれほどじゃないが、寝る間も惜(お)しんで単純作業をこなすので、それなりに貯め込んでいるのだと、松吉は説明した。
並助は母親が寝込んでいるので、仕事のほかに家事もやらねければならず、幾分やつれる窶(やつ)れているようだった。

>松:並助、ちょいと邪魔(じゃま)するぜ。
>並:おお、松つぁんか。良く来て呉れたな。済まんが、茶は自分で煎(い)れて呉れ。
>松:もう1人いるんだが、良いかい? 同じ長屋に住んでるお咲坊ってんだ。
>咲:咲です。お邪魔します。
>並:どうしたんだい、菜々ちゃん以外の娘さんなんか連れちゃって。訳ありかい?
>松:そんなことあるかってんだ。間もなく稚児(やや)が生まれようってのによ。
>並:そりゃあそうだな。ははは・・・
>松:なんだよ。笑い方まで疲れちまってるじゃねえか。しっかりしろよ。
>並:おいら、この年になるまでお三どんなんかしたことがなかったからよ。慣れないことってのは時間を食うな。
>松:それだけの苦労を掛けてきたってことさ。身に染みたろう?
>並:まあな。

>松:それでな? 話ってのは、お前ぇがやられた騙(かた)りのことなんだ。
>並:もう良い。
>松:そうもいかねえだろう。
>並:もう良いって。忘れることにしたんだ。
>松:そうは言っても、母ちゃんがあんなんじゃ、忘れられやしねえだろう。
>並:だが、もう過ぎちまったことだ。取り返しは付かねえ
>松:並助・・・
>咲:ねえ並助さん。それじゃあ、あたしに協力して。
>並:協力するって、何ができるってんだ?
>咲:半年前か、一年前頃に、この辺りを彷徨(うろつ)いてる2人組か3人組を見た覚えがない?
>並:なんだってそんなことをおいらに聞くんだい?
>咲:いえね、騙されたのってこの辺とか豊島の辺りとか、結構限られた範囲じゃない? 手引きしてる人がいるんじゃないかと思って。この界隈(かいわい)の事情に詳しい人とか。
>並:お前ぇさんがそんなこと聞いて、どうしようってんだ?
>咲:当たり前のことじゃない。騙される人が1人でも少なくなるようにするんじゃない。できれば、あたしがこの手でお白州(しらす)へ引き摺り出してやるのよ。

そう言われて、並助も少しは態度を改めたらしい。
二十歳(はたち)にもなっていない小娘に説教されたようなものなのだ。大の大人がいつまでも
いじけてばかりもいられない。

>並:・・・うーん。ああ。そう言やあ、夏を過ぎた頃だったかな。目明(めあ)かしをやってた多作(たさく)ってのが、地回(じまわ)り風体(ふうてい)の男と一緒にいたことがあったな。
>咲:それよ。その男って、蛇みたいに怖い目をした奴じゃなかった?
>並:そうじゃなかったが、うーん、顔のどっかにでかい黒子(ほくろ)があったような気がする。
>咲:思い出せる? 人相書きにできそう?
>並:本人を見りゃあ分かると思うんだけどな。なんてったって半年も前だからな。
>咲:それでも良いわ。じゃあ、近々絵心(えごころ)のある人を連れてくるから、手伝ってね。
>並:わ、分かった。

>松:それで? その多作とかいう目明かしってのは?
>並:ああ。梅雨(つゆ)の頃まではそうだったんだが、辞(や)めさせられたんだ。
>松:辞めさせられた? それじゃあ、そのときは職なしか?
>並:擦れ違いざまに声を掛けて、どうしてるんですかいって聞いたら、「ああ。どうにか食い繋(つな)いでるよ」って言われた。
>松:それだけか?
>並:そのときはな。後で知り合いから聞いた話じゃ、どこぞの大店(おおだな)に奉公しているらしいってことだ。
>松:どこだい、それは?
>並:さあ。そこまでは誰も知らなかったんだ。
>松:そうか。
>並:だがな。こんな話がある。辞めさせられてから、毎晩のように縄暖簾(なわのれん)で飲んだくれてたんだが、ふっつりと来なくなった。聞いたところによると、反吐塗(へどまみ)れの根城(ねじろ)まで来て大枚を置いてった奴らがいたらしい。
>松:どういうことだ?

>並:近所の奴が多作から聞いた話だぜ。その男たちは「お前ぇさんみてえな立派な目明かしがこんなことじゃ困るだろう。
立ち直れるようにしてくださる方がいるが、任(まか)せてみねえか?」って言ったそうなんだ。
>松:この不景気な世の中に、そんな気の利いた奴がいるかってんだ。
>咲:使い道があったってことよね、そいつらにとっては。
>松:そういうことか。元(もと)目明かしなら、誰が年寄りと2人暮らしか分かる。それに、どのくらいの銭を持っていたかも、幾らかは予想が付く。
>並:成る程な。そういことか。・・・なんでも、「目明かし仲間で他にも辞めたがってるのがいたら、声を掛けておいて呉れ」とも言ってたそうだ。
>咲:目当てはそこね。
>並:「できれば、神田とか日本橋とかにも知り合いがいると良いんだがな」なんてことも言われたとよ。
>咲:まあ大変。次はもっと大きい騙りをやるつもりよ。・・・急がなきゃ。

お咲は「こうしちゃいられない」と言って、絵心のある者を探しに走った。

>松:なあ、並助。その多作って奴は、なんで目明かしを辞めさせられたんだ?
>並:同心の旦那から振舞い酒をいただいた後に、ほろ酔いで17の町娘の尻を撫(な)でたんだとさ。
>松:なんだと? そういうごろつきから守ってやるのが仕事じゃねえのか?
>並:魔が差したんだろうよ。
>松:うーむ。それくらいで辞めさせられちまうのか。お上の仕事も面倒なもんだな。・・・だがよ、組織的な悪事に手を貸してるってことなら、「魔が差しました」じゃ済まされねえぜ。
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