206.【さ】 『五月(さつき)の鯉(こい)の吹流(ふきなが)し』 (2003/11/10)
『五月の鯉の吹流し』
1.鯉幟(こいのぼり)のこと。
2.口を大きく開けていて腸(はらわた)がない鯉幟のように、腹の中がさっぱりとしていて、少しの蟠(わだかま)りもないということ。江戸っ子の気質を表わした言葉。
*********

早朝、熊五郎とお咲は、お夏と鴨太郎を見送りに出た。八兵衛は、昨夜の飲み過ぎが祟(たた)って、起き上がることができなかった。
鹿之助と猪ノ吉も来ていたが、町奉行所の者は誰一人顔を見せていなかった。
少し離れたところに立っていた、岡引きの伝六が1人、人目も憚(はばか)らずに号泣していた。

>咲:伝六さん、そんなに泣かないでよ。折角の旅立ちが湿っぽくなっちゃうじゃない。
>伝:ああ、お咲ちゃんか。みっともないのは分かるんだがよ、これが泣かずにいられるかってんだ。
>咲:そんなに鴨太郎さんのことが好きだったの?
>伝:そりゃあ確かに桃山の旦那には良くして貰ったさ。だが、俺が泣いてるのはそういうこっちゃねえんだ。
>咲:どういうこと?
>伝:桃山の旦那が居なくなっちまうと、こっちの食い扶持(ぶち)がなくなるってことさね。女房子供を抱えて、路頭に迷っちまうんだよ。・・・これから一体どうすりゃ良いってんだ?
>咲:そういうことで泣いてるの? 何よそれ?
>伝:そうは言うがよ、こっちだって食い繋(つな)ぐのに必死なんだぜ。情も大事だが、自分の暮らしの方がもっと大事なの。分かるだろ?

>咲:でも、鴨太郎さんからは随分余計に貰ってたんでしょう? 蓄(たくわ)えだって、ちょっとくらいならあるんじゃないの?
>伝:そんなの、旦那が謹慎してた1ヶ月の内になくなっちまったよ。・・・今日ここに来れば、他の同心とかに口利きして呉れるんじゃねえかと期待して来てみりゃ、誰も来やしねえ。あんまりだ。
>咲:あんまりだわよね、見送りくらい来るべきよね。
>伝:まあ、来たからって、使って呉れたかどうかは、知れたもんじゃねえがな。あーあ、いよいよ首括(くく)りか・・・
>咲:止(よ)してよ、そんな物騒な話。
>伝:只でさえ不景気な世の中だ。こんな年になって職に有り付くのは簡単じゃねえ。
>咲:そうよね。岡引きをやってた人なんて用心棒くらいにしかならないかもね。それに、雇いたがるのは、後ろ暗いところがある口入屋くらいのもんだものね。
>伝:幾ら苦しいからって、怪しげなことの
片棒を担がされるのはご免だしな。
>咲:・・・じゃあ、こうしましょ。ほんの繋ぎにしかならないかも知れないけど、あたしたちを手伝ってよ。
>伝:銭になるのかい?
>咲:どうかしら? でも、只働きにならないように頼んでみるわ。
>伝:この際、贅沢(ぜいたく)は言ってられねえ。藁(わら)にも縋(すが)る思いで、任(まか)せてみることにするよ。お咲ちゃんは嘘を言わねえからな。

そんな中、お夏と鴨太郎は、静かに旅立っていった。
熊五郎たちも、それぞれの住処(すみか)へと帰っていった。
「藤木のこと、頼んだからな」と、鴨太郎から、半(なか)ば脅すように言われた鹿之助だけが、その場に暫(しばら)く立ち尽くしていた。

>咲:ねえ、熊さん。伝六さんがね、今夜「だるま」に来るって。
>熊:伝六がか? さては、鴨太郎が居なくなって、やることがなくなっちまったんだな?
>咲:「やることが」どころじゃないわよ。稼ぎがなくなるのよ。お飯(まんま)の食い上げってことよ。
>熊:食い上げってったって、実入りが全くなくなる訳じゃねえだろ。
>咲:だって、そう言ってたわよ。
>熊:そんな訳あるかよ。・・・そりゃあ、岡引きは、「心付け」だとかいう名目で袖の下を受け取ったりして、金回りは良いだろうが、大概の岡引きは「本業」ってのを持ってるんじゃねえのか?
>咲:そうなの?
>熊:伝六のことはあんまり知らねえから、なんとも言えねえがな。・・・でも、もし本当に食い上げだってんなら、よっぽど真面目な岡引きだってことだな。
>咲:ふうん。・・・でも、それなら、早朝の町中(まちなか)であんなに大泣きする?
>熊:するかもな。何か魂胆(こんたん)があるんだったらな。
>咲:それは勘繰り過ぎなんじゃない? あたしは、あの泣き顔は作り物じゃないと思うわよ。
>熊:それなら聞くが、伝六のことなら分かってる筈の鴨太郎が、なんの手当てもしねえで旅に出て行くってのはどういう訳だ? あいつは、そんな薄情な男じゃねえぞ。
>咲:うーん。そう言われると、そうなんだろうけど・・・
>熊:・・・でもま、聞き込みをしようってんなら、伝六の手助けは有り難い限りだ。歓迎してやろうじゃねえか。

八兵衛は、昼時になっても、食欲が湧いてこないという。
顔色もあまり良さそうではなかった。

>熊:お前ぇははしゃぎ過ぎなんだよ。餞別の会合だってのに、あんなに馬鹿騒ぎするからだ。
>八:酒のせいだけじゃねえよ。あの親爺が拵(こさ)えたおからを山盛りで食っちまっただろ? どうも今朝っから腹の具合いが悪いんだよな。
>熊:元を正せば、お前ぇが意地汚えからじゃねえか。丼一杯食う奴がいるかってんだ。
>八:太助の野郎は全然平気な顔して食うじゃねえか。
>熊:あいつと五六蔵は特別だ。ちょっとばかし大食いってだけのお前ぇが太刀打ちできるもんじゃねえのさ。
>八:量だけなら十分に渡り合えるぞ。問題なのは、親爺の料理の腕が滅茶苦茶だってことの方だ。
>熊:然(さ)もありなんだな。・・・だがよ、今夜も「だるま」へ行かなきゃならねえぞ。
>八:おいらは遠慮しときてえな。
>熊:何を言ってやがるんだか。「関わらなかったら男が廃(すた)る」とか言ってたのはお前ぇの方じゃねえか。
>八:おいらそんなこと言ってたっけ?
>熊:何を惚(とぼ)けてやがる。・・・でもま、どうしても嫌だってんなら仕方がねえな。今回の件はお前ぇ抜きでやらして貰うとするかな。
>八:なんだと? おいらのことを除(の)け者にしようってのか? そいつはあんまりじゃねえかよ。
>熊:だって集まりに出ねえんだろ? それじゃあ話になりゃしねえじゃねえか。
>八:分かったよ。行きゃあ良いんだろ? ・・・まったくお前ぇって奴は、意地の悪い野郎だな。

伝六は、どうやら日の高いうちから飲み始めていたらしい。
ご機嫌である。

>伝:よう。遅えじゃねえか。こちとらもう出来上がっちまいそうだぞ。
>八:そんなに早く来たって、顔触れが揃わなきゃ意味がねえくらい、ちょっと考えれば分かりそうなもんだがな。
>伝:良いじゃねえか。こっちは桃山の旦那がいなくなっちまって、暇を扱(こ)いてるんだからよ。
>熊:・・・その話だけどよ。お前ぇ、ほんとに職がなくなったのか?
>伝:な、なんだよ。気持ち良くのんでるとこにそんな辛い話なんかさせるなよな。
>八:辛い奴が明るいうちから酒なんか飲んだりしねえだろ?
>伝:そ、そうか?
>熊:素直に吐いちゃどうだ? 一体どういう魂胆があるんだ?
>伝:魂胆なんかねえさ。俺は唯(ただ)・・・
>熊:唯、どうしたってんだ?
>伝:・・・だから無理だって言ったんだ。あーあ。分かったよ。喋(しゃべ)りゃあ良いんだろ、喋りゃあ。
>八:なんだ。やっぱりなんか企(たくら)んでやがったのか。
>伝:「それとなくあいつらに混ざって呉れ」って頼まれたんだよ、旦那から。
>熊:鴨太郎からか?
>伝:俺にそんな器用な芸当ができる訳ねえじゃねえか。なあ?こちとら江戸っ子だぞ。腹ん中に何かを貯(た)めとくなんて、無理に決まってんだろ?
>熊:それで、なんだって言われたんだ?

「その前に、お前ぇたちも1杯やれよ」と言って、伝六は、冷めた大根の小鉢を、八兵衛の方に押しやった。

>伝:実はな、旦那に言われて、ずっと前から普請奉行の動きを追ってるんだ。
>八:いつからだ?
>伝:そうさな、半年くらい前からかな?
>熊:でもよ、それだって、町奉行所のやることじゃねえだろ? 只でさえ、勘定組頭のことでお目玉を食らってるってのに。
>伝:その前からだよ。謹慎よりずっと前。
>熊:まったく、鴨太郎ときたら、どうしてそういう手に負えねえことにばっかり首を突っ込むんだ?
>伝:そんなこと俺に分かるかよ。巡り合わせだろ? 然もなきゃ、そういう星の下に生まれ付いちまったってことさ。
>八:こりゃまた、面倒な星の下だねえ。
>伝:暇を扱いてる岡引きよりは、忙しそうにしてる岡引きの方が、よっぽど面白そうだろ? そういうのって、嫌いじゃねえんだよな、俺はよ。
>八:まあ、おいらも嫌いな方じゃねえわな。
>熊:鴨太郎の奴、余計な気の回し方をしやがって。端(はな)っから正直に言えば、良いじゃねえか。そうは思わねえか?
>伝:でもよ、相手は大物なんだぜ。ことはできるだけ慎重に運ばなきゃならねえ。変に岡引きとくっ付いてる、なんてことにしねえ方が良いに決まってる。だから、職に溢(あぶ)れた「元岡引き」ってことにしといた方が良いんだ。
>熊:ふうん。言うじゃねえか。鴨太郎の置き土産(みやげ)だと思って、精々こき使ってやるとするぜ。
>伝:そうこなくっちゃ。不器用な旦那にしちゃ、出来過ぎの心意気だからな。
つづく)−−−≪HOME