第23章「俊才お夏の諸事情A(仮題)」

202.【さ】 『塞翁(さいおう)が馬(うま)』
 (2003/10/14)
『塞翁が馬』
人生では禍(わざわい)がいつ福の因(もと)になるか分からず、また福がいつ禍の因になるか分からない。吉凶福禍の転変は測り知れず、禍も悲しむにあたらず、福も喜ぶに足りないということ。
用例:俳・毛吹草−二 「人間(ニンゲン)万事塞翁が馬」
類:●人間万事塞翁が馬禍福は糾える縄の如し●Life can be long and you got to be so strong and the world is so tough. Sometimes I feel I've had enough. --John Lennon (1940-80): How?<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
故事:「淮南子−人間(じんかん)訓」 昔、中国の北辺の老人(塞翁)の馬が逃げたが、後に立派な馬を連れて帰ってきた。老人の子がその馬から落ちて脚を折ったが、そのために戦争に行かずにすんだ。このように人生の吉凶は簡単には定め難いものである。
用例の出典:
毛吹草(けふきぐさ) 江戸初期の俳書。5冊。松江重頼著。寛永15年(1638)成立、正保2年(1645)刊。俳諧の作法を論じ、句作に用いる言葉や資料を集め、句作の実例として四季に分けた発句2000句、付合(つけあい)100句を収録。貞門の俳論を代表する。
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お夏が連れてきた娘は、「お花っていいます」と名乗った。
嘗(かつ)て「だるま」の女中を勤めたあややお夏に比べると、どうということのない普通の娘であるように見て取れた。
お夏が選んだからには、それなりの美点があるのだろうが、とてもそういう感じには見えない。

>八:それで? 縄暖簾(なわのれん)の仕事ってのは、したことがあるのかい?
>花:初めてです。どういう風にしたら良いのか、さっぱり分かりません。
>夏:そんなに心配するほどのことじゃないわよ。あたしがするのを見てればすぐに慣れちゃうわ。
>花:はあ。
>八:料理の味付けとかは上手い方かい? なんてったって、ここの親爺ときたら、碌(ろく)なもんを拵(こさ)えねえからよ。
>花:まあ、人並みにはお料理もしますけど、美味しいかどうかは・・・
>夏:それも大丈夫よ。何を作ったって、親爺さんのよりも不味(まず)いものなんかありゃしないから。
>親爺:なんてえ酷(ひで)え言い種(ぐさ)だい。
>八:まあ、当たってるんだから仕様がねえな。
>親爺:なんだと? やい八公、喧嘩を売ってやがるのか?
>八:ああそうだよ。悔しかったらな、頬っぺたが落ちるほど美味いもんを出してみやがれってんだ。
>親爺:ようし、今度取って置きのを拵えてやるからな。お変わりをくださいなんて言ったって出してやらねえから、吠え面でもなんでも掻きやがれ。
>八:ああ。せいぜい楽しみに待っててやるよ。

「いつものことだから、気にしないでね」とお夏に言われて、お花は、「はあ」とだけ返事をした。
捕らえどころのない娘である。

>八:なあお夏ちゃん、お花ちゃんとはどういう間柄なんだ?
>夏:どういうってほどのことはないのよ。何度か養生所で顔を合わせただけ。
>八:それだけか?
>夏:そうよ。
>花:おっ母(か)さんが大八車に撥(は)ねられて、足を挫(くじ)いちゃいまして・・・
>八:そうかい。そいつは難儀(なんぎ)だったな。
>花:漬物(つけもの)売りをしてるんですが、歩けないとあまり売れなくって、困ってたところだったんです。
>八:漬物を作ってるのかい?
>花:はい。お父つぁんの漬ける大根漬けは、中々評判が良かったんですけど・・・
>八:へえ、大根漬けか。こりゃあ美味そうだな。今度持ってきてみて呉れよ。酒に合いそうじゃねえか。
>花:はい。さっき親爺さんにも頼んでみたんです。「食ってみてからだな」って言われちゃったんですけど。
>八:味の分からねえ親爺に味見なんかさせたって駄目だぜ。客が喜びゃ良いの。おいらが食って美味いって言えば、それで良いのさ。なんてったって、この八兵衛さんはここの味奉行みてえなもんなんだからよ。
>花:そうなんですか?
>夏:まあ、言いたいように言わせとけば良いの。
>花:でも、お店で買って貰えるようになれば、うちの暮らしも随分と良くなりますから。もしかすると、お父つぁんも大喜びして呉れるかも知れません。
>夏:こんなちっぽけな縄暖簾じゃ、高が知れてるけどね。
>花:いいえ、そんなことありません。おっ母さんが足を挫いたのも、もしかすると、八兵衛さんたちに引き合わせて呉れたっていう意味じゃ、良い兆(きざ)しだったのかも知れません。
>夏:そんなご大層なものかしら?
>花:きっとそうですとも。

お花は力強く頷(うなず)くと、今日初めて笑った。
笑顔は輝くほど愛らしいと、八兵衛は、思ってしまっていた。

>熊:なあ、お夏坊、出掛けるのはいつなんだ?
>夏:寒くなる前には発(た)ちたいから、なるべく早く、かな?
>八:もう行っちゃうのか?
>夏:明後日か、その次辺りね。鴨太郎さんの方のあれこれが済んだらね。
>八:明日は来るよな? 今日でお終(しま)いってことはねえよな?
>夏:なによ。今生(こんじょう)の別れって訳でもあるまいし。
>熊:そうだぞ、八。1年もすりゃあ戻ってこられるんだろ?
>夏:そんなに早くは無理よ。5年くらいは掛かるんじゃないかしら。
>八:5年もか?
>夏:その頃は、きっと八兵衛さんも素敵な娘さんと夫婦(めおと)になって、稚児(やや)も何人か生まれてるんだろうな。
>八:そんなことねえさ。お夏ちゃんが帰ってくるまで、ずっと独り身で待ってるからよ。
>熊:お前ぇが待ってたってしょうがねえだろ。お夏坊だって、お前ぇに待たれてちゃ迷惑ってもんだ。
>夏:そういうこと。立派な親方になってね。
>八:お夏ちゃん・・・

>熊:明日は鴨太郎も呼んでやろう。細(ささ)やかながら餞別(せんべつ)の会をやろうぜ。
>夏:ほんと? じゃあ、兄上も呼んじゃおうかしら。
>熊:もやしは下戸(げこ)だろう?
>夏:良いじゃないの。昔の仲間が旅に出るってことなら、ちょっとくらい余計に餞別を包むべきよ。
>熊:なるほど。・・・じゃあ、猪ノ吉にも声を掛けてやらねえとな。
>夏:そうね。猪(しし)鍋三人組だもんね。・・・なんだか楽しくなりそう。
>八:そういうことならよ、本当に猪鍋でも出すか?
>熊:ここにそんな洒落(しゃれ)たもんなんかあるかよ。
>八:親爺い、土鍋くらいあんだろ?
>親爺:自慢じゃねえが、そんなもんはねえ。
>八:そんならよ、大女将さんに頼んで貸して貰うことにしようぜ。な?
>夏:あやさんも来て呉れないかしらね。
>熊:どうだかな。親方が出さして呉れるかどうかだな。
>夏:そうね。もう餞別の脚絆(きゃはん)も貰っちゃってるしね。それに、猪鍋三人組と一緒じゃ可哀想だもんね。
>熊:そうかも知れねえな。
>夏:あ、そうそう。お咲ちゃんは連れてきて貰えるんでしょう? お花さんをお願いしとかなきゃ。

>花:お咲ちゃんというのは?
>夏:熊お兄ちゃんと八兵衛さんが住んでる長屋の娘(こ)なの。あたしの友達。時々ここを手伝って呉れるのよ。あたしなんかよりずっと慣れてるんだから。
>花:そうですか。ようくお願いしておかなきゃいけないわね。
>夏:あたしよりお転婆だから、引っ張り回されないように気を付けてね。
>花:はい。・・・でも、こう見えてあたしだって結構お転婆なんですよ。
>夏:分かってるわよ。一度見掛けたことがあったもの。
>八:何をどう見たってんだ?
>夏:お花さんって、凄(すご)いのよ。
>花:お夏ちゃん、それくらいにしといてくださいな。恥ずかしいから。
>夏:そうね。
>八:なんだよ。そこまで言い出しといてお預けはねえだろう?
>夏:へへ。後のお楽しみってことにしといて。
>八:そりゃあねえよ。教えて呉れよ。
>夏:駄目。・・・さ、もう良いでしょ? みんなを待たしちゃってるから、お給仕お給仕っと。

初めてということではあったが、お花は意外にてきぱきと給仕をこなしていた。
愛想笑いこそ引き攣(つ)っているが、その硬さもやがて取れるであろう。

>夏:あ、それはそうと、熊お兄ちゃん。猪ノ吉さんのところ、変わったお弟子さんが入ったって言ってたけど、聞いてる?
>熊:いや。あいつとは新山様の見合いの件以来会ってねえ。「変わった」ってどんな風に変わってるんだ?
>夏:さあ。兄上のことだから、詳しくは聞いてこなかったみたいなの。・・・でも、頭を抱えてるってことだったわ。
>熊:ふうん、そうか。それじゃあ、明日誘いに行ったときにでも、聞いてみるとするか。
>夏:お願いね。頼りにしてるわよ。
>熊:お夏坊から頼りにされたってしょうがねえがな。
>夏:まあ良いじゃないの。あたしがお医者様になったら、只(ただ)で診(み)てあげるから。
>熊:はは。そりゃあ良い。それまでは精々怪我(けが)をしねえように取っとくとするか。
>夏:そうね。お咲ちゃんに心配を掛けないようにしてあげなきゃね。
>熊:こんなとこで、お咲坊の名前なんか出すんじゃねえっての。
>夏:良いじゃない。もうみんな知ってることだもの。あたしが江戸に帰ってくる頃にはもう一緒になってるんでしょ?
>熊:止(よ)せったら。そんなんじゃねえってんだ。・・・お前ぇこそ、鴨太郎とどういうことになるか分かったもんじゃねえんだからな。
>夏:ないない。そんなことになったら、朝日が西から昇るわ。
>熊:だがよ、5年も一緒にいることになるんだぜ。遠くに行って、頼るのが鴨太郎しかいねえとなりゃ・・・
>夏:うーん。旅の間にあたしが病気にでもなって、砕身(さいしん)で看病されちゃったりしたら分からないわね。
>熊:病気になったらか・・・。医者になろうってお夏坊が病気になってりゃ世話はねえがな。
>夏:それこそ医者の不養生ね。
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