149.【き】 『牛耳(ぎゅうじ)を執(と)る』 (2002/10/07)
『牛耳を執る』[=握る]
同盟の盟主となること。また、転じて団体や党派などを左右する中心人物となること。会合などの成り行きを支配すること。
類:●牛耳る
故事:春秋左氏伝−定公八年」「衛人曰、執牛耳」 古代中国の春秋戦国時代、諸侯が盟約するときに、盟主が、牛の耳を取ってこれを裂き、その血を啜(すす)って誓い合った。
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「そんなこと勝手に決めないでよ」と、膨れっ面をしてはみたが、気心の知れた同僚から勧(すす)められては、お杉とて悪い気はしない。
ただ、欲を言わせて貰えるのなら、商人と一緒になって、店を守(も)り立てていくのが望みである。

>女中:お杉ちゃん、火消しの頭(かしら)と丈二さんが見えたわよ。番頭さんと一緒にこってり搾(しぼ)って貰ったら?
>杉:番頭さん一人で十分でしょ?
>女中:あら、そんなつれないこと言わないでよ。叱(しか)られるのも2人の方が良いでしょ? 1人あたりが半分になるんだもの。
>杉:誰が喜んで叱られになんか行くもんですか。
>女中:そんなこと言ってて良いの? 好い男なのよ。あたしだったら顔を見られるだけでも儲(もう)けたと思うんだけどな。
>杉:十人十色よ。あんたが良くたってあたしに良いかどうかなんて分からないでしょ?
>女中:何よ、あんた蓼(たで)を食う虫って訳? 下手物(げてもの)食いなら端(はな)っからそう言ってよ。
>杉:誰が下手物食いですって? いくらなんでもそこまで捻(ひね)くれちゃぁいないわよ。
>女中:ふーん、そう。・・・なら、行っといでよ。後でどんなだったかを聞かせてよね。
>杉:知らないわよ。あたし他にすることがあるからね。行きたかったらあんたが行ってきなさい。

とは言ったものの、まだ明け六つ(6時頃)を回ったばかりで、出掛ける訳にもいかず、帳場辺りをうろうろしているしかなかった。
そんなところを、番頭の文吉に呼び止められた。

>文:済まないがお杉さんや、一緒に火事の検分に付き合ってお呉れでないか? 二度とこんなことにならないように気を付けて貰わないとならないからねえ。
>杉:それなら、お種(たね)ちゃんでもお実(さね)ちゃんでも良いじゃないですか?
>文:まあ、そう言わずに。お前さんが一等しっかりしてるんだから、私も安心なんだよ。頼むよ。
>杉:そうですか? 頼まれたら嫌とは言えませんが・・・
>文:そうかい。それじゃあ、奥まで来ておくれ。

主(あるじ)の庄助は、疾(と)うの昔に別の部屋へと引っ込んでしまっていた。
文吉は、「張本人がいねえんじゃ意味を成さねえんじゃねえかい?」という頭の非難めいた言葉を掻い潜(くぐ)り、「後で良く言い聞かせますので、ご容赦ください」と腰を折った

>丈:頭、良いじゃあねえですか、火傷(やけど)もしてるってことですから、大目に見てやりましょうや。
>頭:しょうがねえな。・・・番頭さん、言っときやすが、偶々(たまたま)こいつが見回りをしてたからこんな程度で済んだんですからね。見てみなせえ、もうちいとで天井が燃えてるとこですぜ。そうなってたらもう手が付けられねえとこだったんだ。分かるね?
>文:はい、重々(じゅうじゅう)承知しております。
>頭:丈二、火元はなんだ?
>丈:へい。スルメのようで。
>頭:スルメだぁ? なんだってこんな刻限に?
>文:あのですね、うちの旦那は朝寝が何よりも好きなお方でして、そのせいか、夜中に目が覚めてしまうのです。まだ暗いのに目が冴えてしまって、することがないので、酒を召し上がるようになりました。冷えて参りましたこともあり、火鉢を出したのが昨夜でした。
>頭:それで?
>丈:どうやら、酔い潰れちまったそうなんで。その間に、炭になったスルメが爆(は)ぜたようで。脱ぎ散らかしてあった着物に飛び火したようでやす。
>頭:まったく、そんなんで商(あきな)いになるのかねえ?
>文:先々代はそりゃあご立派なお方でした。先代はその後を継(つ)いで益々お店(たな)を大きくなさいました。そんな中で育ったせいなのでしょうか、坊ちゃん気質が抜けませんで、我が侭(まま)なところが少し御座います。・・・ですが、手前の願いを聞き届けてくださいまして、酒と色の道にだけは溺れずにきてくださっています。
>頭:それでも、朝寝好きは治らなかったということか。
>文:それと、朝湯です。
>丈:おいらなんかからすりゃあ、朝寝と朝湯が揃えば立派な放蕩(ほうとう)もんですがね。
>頭:出過ぎたことを言わして貰うが、主がそんなじゃあ、お店の将来も知れたもんだぜ。「売り家と唐様で書く三代目」ときたもんだ。
>文:そうならないよう、心を配っております。
>頭:売り家になるくらいならまだ何がしかの代金が残るが、燃えちまったら無一文だからな。その上、近所まで焼いたとあっちゃあ、孫子(まごこ)の代まで掛かったって払い切れねえほどの借(しゃく)ができちまう。気を付けて呉れよ。

庄助のスルメが火元と聞いて、お杉は、皆にどう説明すれば良いのか迷った。
元々庄助に対する「思い」が希薄な者ばかりなのだ。愛想尽かしして出ていってしまうかも知れない。
「あの、火元のことはお店(たな)の者にはどうぞご内聞(ないぶん)に」と、丈二に願い出るのがせめてもの手立てである。

そんな騒ぎの現場に、野次馬根性丸出しの八兵衛が来ていた。

>八:おう、丈二。お前ぇの手柄だそうだな?
>丈:なんだい、八つぁんじゃねえか。こんな朝っぱらに起きられるなんざ、珍しいな。
>八:火事と聞いて、落ち落ち寝てなんかいられるかっての。そっちこそ、まだ薄暗いうちから良く働くもんだな。
>丈:いやあ、偶々よ。
>八:町火消しってのも大変だな。まだおいらが熟睡してる間も見回りしてるとはよ。
>丈:・・・そんなんじゃねえんだよな。
>八:何を謙遜(けんそん)なんか言ってやがる。手柄は手柄なんだ。ここの旦那からたんまり礼金せしめた方が良いぜ。
>丈:そんなことできるかってんだ。
>杉:・・・あの八つぁん、お知り合いなの?
>八:おう、お杉坊、とんだことだったな。大したことなくて良かったな。・・・丈二はな「だるま」の常連よ。
>杉:そうなの? うちのお店を救ってくだすったのも、何かの縁があったのかしらね。
>丈:「縁」、でやすか?
>八:そうよな。袖振り合うも多生の縁。火を消してくれたら「多少」じゃなくって、「多大」な縁だな?
>丈:相変わらず、呆(とぼ)けたことを言ってやがる。・・・だがな、八つぁん。ほんとのことを言っちまうとよ、この辺をほっつき歩いてたのは偶々じゃあねえんだ。
>八:どういうこった?
>丈:ここじゃあ言えねえ。今夜「だるま」に来て呉れねえか?
>八:訳ありかい? そういうのって、おいら大好きさ。
>丈:勿論(もちろん)熊さんも連れてきて呉れるよな?
>八:おいらだけじゃ物足りねえってのか?
>丈:言っちゃあ悪いが、その通りだ。・・・なんてな。冗談は兎も角、頭にどやされるから、おいらもう行くぜ。じゃあな、頼んだぜ。

>杉:前からの知り合いなの?
>八:そんな前からじゃあねえさ。精々3年ってとこかな? 生真面目(きまじめ)な野郎でよ。最初のうちなんか「火消しが酔っ払ったら火事は誰が消すんだ」とか言って、銚子1本しか飲まねえ付き合いの悪い客だったのよ。
>杉:へえ、中々見所のある人じゃないの。
>八:まあな。常連どもがお夏ちゃんに入れ揚げてる中で、1人だけ白(しら)っとしてやがるんだからな。・・・ありゃあきっと、余所(よそ)に思い人かなんかがいやがるんだな。
>杉:ふうん、そうなの・・・
>八:なんだよお杉坊、気になるのか?
>杉:そんなんじゃないのよ。お店の女連中がきゃあきゃあ言ってるもんだから。
>八:なるほど、ちょっと見、好い男だしな。
>杉:「ちょっと見は」って、ほんとは悪い癖があるとか?
>八:そんなのありゃぁしねえさ。唯(ただ)な、頭に心酔しちまってるって言うのか、ちょっとばかし
度が過ぎてやがるんでな。偶に扱い難いことがあるってのも事実かな。・・・だがよ、ありゃあ、ひょっとするとひょっとするぜ。
>杉:どういうこと?
>八:やがて組の頭になるかも知れねえってことよ。芯があるってのかな? 世間様がどう見るかは知らねえが、おいらは好きだよ。ここにきて、やっと酒飲み話もできるようになってきたしな。
>杉:ふうん。
つづく)−−−≪HOME