132.【か】 『邯鄲(かんたん)の歩(あゆ)み』 (2002/06/10)
『邯鄲の歩み』
自分の本分を忘れて無闇に他人を真似(まね)たりしていると、中途半端なことになり、真似しようとしたことだけでなく、本分の方まで駄目になってしまうということ。
故事:「荘子−秋水」 中国、燕(えん)の田舎者が、趙(ちょう)の都・邯鄲の人々の洗練された歩き方を真似ようとして身に付かず、その上自分の歩き方を忘れて、腹這(はらば)って帰った。
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「弥次さん喜多さんのように旅をしないか」と誘われて、八兵衛が嫌と言う筈(はず)はない。
なんといっても、路銀(ろぎん)の一切(いっさい)は与志兵衛持ちなのだ。
広い湯に浸(つ)かり、ご当地の味を堪能(たんのう)しながら地酒を酌(く)み交(か)わすとなれば、八兵衛でなくともそそられる

>八:行く行く、行きやすぜ、親方。行っても良いんですよね?
>源:ああ。理由はどうあれ、本人の気持ちに任(まか)せるって、ご隠居さんと約束しちまったからな。
>八:うっひょーっ、嬉しいー。海のものに山のもの、それにお酒ですか? 堪(たま)りやせん
>与志:そうですか、そうまで喜ばれてしまうと、こっちまで楽しくなりますね。
>八:それで、どちらへ行きなさるんですか? やっぱり、お伊勢様ですかい?
>与志:源五郎さんには説明したんですけれど、お伊勢様にはもう何度も行ってますからね。
>八:それじゃあ、もう少し足を伸ばして、出雲(いずも)の国辺りでやすか?
>与志:それも悪くはないんですが、あまり遠いところだと、月日が掛かり過ぎますからね。
>八:そんなこたぁ気にしねえでも良いんですよ。・・・ねえ親方。三月や半年くらいならどうってことはねえですよね?
>源:ああ、構わねえよ。3年でも10年でも好きなだけ旅してくるが良い。その頃には五六蔵やら三吉・四郎も一人前になってるだろうからよ。

>八:へ? ・・・ってことは、なんですかい? おいらの戻るとこはねえってことですかい?
>源:そうは言ってねえさ。半端(はんぱ)な下請(う)け仕事くらいになら回してやる。
>八:ちょ、ちょっと待ってくださいやし。そんなんだったら、おいら行けませんや。おいら、親方から見放されちまったらどうやって生きてって良いのか分からねえでやすからね。・・・ご隠居様、折角(せっかく)なんですけど、そんな訳でやすから、おいら、行けやせん。
>与志:まあまあ、そう早合点して貰っては困ります。誰が三月も掛かるところへ行くと言いましたか?
>八:それじゃあ・・・
>与志:下野(しもつけ)の辺りでどうでしょう? 良い「晒(さら)し」と「紬(つむぎ)」があるんですよ。
>八:下野ですって? こりゃまた随分と手近なとこにしやしたねえ。
>与志:ですが、これなら、八兵衛さんも行けるでしょう?
>八:下野なら、なんてことねえですね。・・・おい四郎、お前ぇ、確かあっちの方だって言ってたよな?
>四:はい。おいらの里はもう少し北の方です。真岡(もおか)と結城(ゆうき)の町に寄るとして、そうですね、のんびり歩いていっても、20日くらいのもんで帰って来られます。
>八:なんだいその、「もう帰ろう」と「行きましょう」ってのは?
>与志:流石(さすが)にお詳しいですね。えーと、四郎さんでしたね? 道案内をしてくださいませんか?
>四:へ? だって、お供は八兄いと、熊兄いなんでしょう?
>熊:おいらは行かねえよ。

それまで黙って聞いていた熊五郎が、やっと口を開いた。

>八:なんだお前ぇ、冷てえな。おいらとお前ぇの仲じゃねえかよ。
>熊:それとこれとは話が違うだろ。おいらは晒しや紬にゃ興味はねえし、酒や肴だっていつもの「だるま」ので十分だ。
>八:ははあ、お前ぇ、あれだな? お咲坊に悪い虫が付くんじゃねえかって心配なんだな?
>熊:勝手に邪推(じゃすい)するんじゃねえ。
>八:大丈夫だって。あんな跳ねっ返り、集(たか)ろうっていう虫の方が逃げちまう。
>与志:お咲さんというのは熊さんの好い人なんですか?
>熊:と、とんでもねえ。おんなじ長屋に偶々(たまたま)住んでる小娘ですよ。
>八:そんなこと言ってると、「子供扱いしないで!」とか言いながら現われるぞ。
>熊:止(よ)せよ、本当に来たらどうする。・・・いずれにせよ、おいらは旅になんか出ねえからな。
>八:お前ぇ、お伊勢様だったら行くとこだったんだろ?
>熊:そりゃあ、死ぬまでに一度くらいは行っときてえがよ、今回はそのときじゃねえ。
>八:じゃあ、こういうのはどうだ? 思い切って、日光の東照宮までお参りに行ってくる。
>熊:うーん、権現(ごんげん)様か。確かに、悪い話じゃあねえが、やっぱり止しとくよ。四郎、お前ぇ行ってこい。序(つい)でに、親に顔でも見せて、安心させてきてやれ。
>四:はあ。実家の方はどうでも構わないんですけど、ものの序でということでしたら、甘えさせて貰いたいです。

>八:よし、決まった。それじゃあ、おいらと四郎で珍道中ってことだ。良うございますね、ご隠居。
>三:差し出がましい思い付きなんでやすが・・・
>八:なんだ?
>三:青物の仕入れとかのことも、序でに考えてみたら良いんじゃねえかと思うんでやすが。
>八:どういうことだ?
>三:へい。青物を売ろうってことは決まりなんでしょう、ご隠居様? ・・・なら、それを安く流して呉れるところを見付けてきちまえば、出直す手間が省(はぶ)けるんじゃねえかと思ったんです。
>熊:行き掛けの駄賃ってやつか?
>八:おいらが話を纏めたら駄賃が貰えるのか? なら、おいら、やるぞ。
>熊:そういう意味じゃねえっての。
>三:それなら、青物に詳(くわ)しい与太郎さんを連れて行くのが筋ってもんなんじゃねえかと。
>八:なんだと? 与太郎も連れて行くって言うのか? そしたらお供が3人になっちまうじゃねえか。
>三:いいえ、八兄いが残れば、2人になります。
>八:ご隠居様がこんなに乗り気になっていなさるってのに、おいらに残れって言うのか? そいつは、いくらなんでも殺生(せっしょう)なんじゃねえのか?

>与志:成る程(なるほど)、三吉さんの思い付きも尤(もっと)もですねえ。楽しさを取るか実利を取るか選ばなければなりませんねえ。
>八:ご隠居、真逆(まさか)・・・
>与志:あたしは商売人ですからね、利があると聞いたら、引き下がれないんですよ。
>八:そんなあ。糠喜びでやすか?
>与志:まあ、がっかりしなさんな。・・・それではこうしましょう。宿場宿場で名物のものを毎日届けさせますよ。
>八:本当ですかい? それなら言うことなしでやすよ。
>四:・・・あの、下野には干瓢(かんぴょう)くらいしか名産がないんですけど。

四郎の一言に、八兵衛は崩れ落ちた。
「名産でなくとも、良さそうなものを見繕いますよ」という与志兵衛の言葉で、どうにか力を取り戻した。

>八:こんなことなら、与太郎に付いて青物のいろはを教えて貰っとくんだったな。
>熊:何を考えてやがる。付け焼き刃じゃ歯も立ちゃしねえよ。
>八:歯が立たなくても、お供くらいならできただろう。
>熊:生半可な知識じゃ、却(かえ)って頓珍漢になっちまう。
>八:「下手の考え休むに似たり」ってことか?
>熊:罷(まか)り間違って、2、3の青物の産地を言い当てたところで、土の質がどうかとか、種蒔きの時期がどうかとかまでは分からねえだろ?
>八:おいら、食いもんのことなら、案外覚えられると思うんだけどな。
>熊:お前ぇの西瓜(すいか)みてえな頭じゃ無理だろうよ。
>八:例えばよ、3日も続けて芋を食ってりゃ違いが分かるようになるんじゃねえのか?
>熊:食うことだけが楽しみのお前ぇに、そんな芸当ができるとは思わねえな。
>八:そりゃそうだな。3食を3日間だと10回も続けて芋を食わなくちゃならねえんだもんな。
>四:9回なんですけど。
>八:五月蝿(うるせ)えな。おいらは3日に1回夜食を食うの。・・・しかし、間に蕎麦(そば)も食いてえし、目刺しだって欲しくなるかも知れねえもんな。・・・それによ、芋を食い過ぎると屁(へ)
が出て臭(くせ)えしな。
>熊:それに、「ああ、目刺しが食いてえ」なんて何十回も溜め息を吐(つ)いてちゃ、大工仕事にも障(さわ)るってもんだ。
>八:上で「ぶつぶつ」、下から「ぶうぶう」か?
>熊:汚(きたね)えなあ。

与志兵衛に預けるのが四郎1人ということなら、仕事への支障もそれほどない。
源五郎も一安心である。

>源:ご隠居さん、それじゃあ、四郎と与太郎ってことで、決まりですね?
>与志:まだお会いしてないからなんとも言えませんが、まあ、良いでしょう。八兵衛さんのお惚(とぼ)けを聞けないことには、ちょっとばかし後ろ髪を引かれますが。
>源:そんなに八兵衛が気に入ったってんなら、嫁を見つけてやって、両養子にでもしちまえば良いじゃねえですか。
>与志:残念ながら、倅(せがれ)にするんなら「楽しい男」より「頼もしい男」でないといけません。何しろ、結構な量になりますからね、千両箱が。
>源:待ってくださいよ。実の娘さんが居なさるんでしょう? それに、そのご亭主が。
>与志:ええ居ますよ。
>源:それなのに、後から来た養子に譲(ゆず)るって言うんですかい?
>与志:ええ、そうですよ。ですが、全部ではありません。8分2分というところでしょうか?
>源:それじゃあ、娘さんがあんまり・・・
>与志:大丈夫ですよ。あたしが育てたお店(たな)はまだまだ伸びますから。
>源:へえ、そんなもんですかね。・・・まあ、俺たちには関わりのないことですけどね。
>与志:まあ、そう冷たくなさらずとも良いではありませんか。
>源:いいえ。この際はっきりさせときやしょう。八も含めて、一黒屋さんのところへ行く者は居りやせん。勿論、五六蔵も家へ帰らして貰いやす。良いですね?
>与志:待ってください。五六蔵さんに青い梅でも食べられたら、あたしゃ無念で、死んでも死に切れませんよ。
>源:あいつは、梅の十個くらいじゃあ死にゃあしません。
>与志:そうでしょうか?
>源:そりゃあ、あっしとかご隠居さんが真似したら危ないかも知れませんよ。ですが、五六蔵は根っからの山育ちなんです。ご心配は、全くのお門違いですよ。
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