59.【う】 『氏(うじ)より育(そだ)ち』 (2001/01/09)
『氏より育ち』[=育て柄(がら)]
家柄や身分の良さよりも、環境や教育などの方が、人間を作り上げるのには大切である。
類:●居は気を移す
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松吉は日が暮れるまで部屋でぼんやり過ごしてしていた。仕事の方は、結局何一つ仕上げられなかった。
現状を打開する頼みの綱である「だるま」でさえ、出掛けるのが億劫(おっくう)になってきていた。
しかしこのままでは、もやもやしたまま、明日も同じ一日を送ることになってしまうなと、やっと気持ちに整理を付けた頃にお咲が迎えに来た。

>咲:松吉さん、ご機嫌は如何(いかが)ぁーっ?
>松:お咲ちゃんはいつも元気で良いよな。
>咲:どうしたのよ。随分沈んじゃってるのね。
>松:なんだかよ、偶然を装(よそお)うってのが騙(だま)してるみたいでなあ・・・
>咲:なによ、お酒は楽しく飲むもの、飲み屋は楽しく過ごすとこ。だったらその通りのことすれば良いじゃないの。郷に入っては郷に従えよ。それに、親方の頼み事なんか、なにも今日でなくたって良いんでしょう?
>松:さあ、いつのことなのかは聞かなかったから。
>咲:大丈夫よ大丈夫。親方のことだから急ぎなら何時何時(いつなんどき)までって言う筈だもの。違う?
>松:そうかな。
>咲:そうよ。だから、何がなんでも今日聞き出さなきゃならないってことじゃないのよ。どう? 気が楽になった?
>松:そうだな。・・・それはそうと、六さんにはちゃんと断ってきたろうな?
>咲:へへ、後で顔を出すってよ。
>松:へえ珍しいな。偶(たま)には六さんのこと負(お)ぶって帰るのも悪かねえな。
>咲:今日は何か秘策があるんですって。
>松:また納豆か?
>咲:知らない。「細工は流々」だって。

だるまは既に八兵衛の独壇場と化していた。高笑いが暖簾(のれん)の外まで零(こぼ)れてきていた。
どうやら、五六蔵一行が弟子入りした件(くだり)を再現しているらしかった。

>咲:八つぁん狡(ずる)い、あたしも最初から聞きたぁい。
>八:おお、お咲坊。なんだよ、子供は寝る刻限(こくげん)じゃねえのか?
>咲:子供じゃないもん。あら、菜々さんも一緒なの? ここって初めて?
>菜:五六兄ちゃんったら酷(ひど)いわよね、自分たちだけ楽しく飲んでて、これまで一度も連れてきて呉れなかったのよ。
>咲:そりゃ、五六兄ちゃんが悪い。それはそうと、松吉さん連れてきちゃった。
>松:ど、どうも。
>八:あれ、松つぁん、偶然だなぁ。
>咲:なにが「偶然だなぁ」よ、3日に1回一緒に飲んでる癖に。・・・お夏ちゃんはまだなの?
>八:もう追っ付け来んだろ。お咲坊ちょっとの間手伝ってやって呉れねえかい?
>咲:勿論(もちろん)そのつもりで来たんだもの。お銚子いくつ要(い)る? ・・・親爺(おやじ)さん、今日の煮付けは何?

>八:まったく忙(せわ)しない娘だね。流石(さすが)のおいらも、お咲坊相手じゃ勝てねえや。
>熊:松つぁんは、菜々ちゃんとは初めてだったかな?
>松:いや、今朝(けさ)親方に呼ばれてったとき・・・。
>八:五六蔵の妹だってのは知らなかっただろ?
>松:お咲ちゃんから聞いた。
>八:なんだ知ってるのかつまんねえ
>五六:何がどうつまらねえってんでやすか? また、あっしの株が下がるようなこと言おうとしてたんでしょう。
>八:当たりだ。だってよ、全然別人だもんな。同じ親から生まれてどうしてこうも違うかねえ。
>五六:親の言うことを素直に聞いて撫(な)でられるのと、一々突っ掛かって殴(なぐ)られるのとでは、顔付きが違ってくるもんなんでしょうよ。
>八:なんでえ、ようく分かってるんじゃねえか。兄貴と似ないで良かったな、なあ、菜々ちゃん?
>菜:でもあたし、他の兄ちゃん達より五六兄ちゃんの方が好きよ。だから喜んでこっちに来たんだもの。
>八:嘘でも有り難えよな、五六蔵。ほんとに良い娘だ。それに引き換えお咲坊はよ・・・

>咲:あたしが何よ。
>八:急に現れるなって、陰口(かげぐち)叩いてんだからよ。
>咲:どうせあたしは蓮っ葉擦れっ枯らしよ。
>熊:なにもそこまで言うことねえじゃねえか。
>咲:良いの。自分から言っとけば少しは気が治(おさ)まるから。
>八:なあ熊よ、蓮の葉っぱと擦った芥子って何のことだ?
>熊:そんなことを講釈(こうしゃく)させるな。
>八:まあ、少しばかし学があることだけは認めてやっとくか。
>咲:有難う存じます。
>八:まあ、零落(おちぶ)れても武家は武家だな。
>咲:父上に言ってあげたら? もう直(す)ぐ来るから。
>八:来るのか? 本人にはちょっと言えねえな。・・・それはそうと松つぁん、いつだったか、自分は元武家の出だって言ってなかったっけか?
>松:ああ、親父がな。六さんみたいに浪人してた。おいらは、早くから見限って師匠のとこに弟子入りしちまったから、武家とは言えねえな。根っからの職人みてえなもんだ。
>熊:へえ、ほんとの話だったんだ。出任せかと思ってた。
>松:こんなこと出任せで言ったってなんの得にもならねえだろうが。
>熊:そりゃそうだ。ま、今が腕の良い職人なんだからそれで良いわな。

やがてお夏が到着した。
以前ほどでないにしても、常連客たちが一斉に色めき立った

>夏:お待たせしましたぁ。皆さん今日も元気に飲んだくれてますかぁ? ありゃ、お咲ちゃん来て呉れてたの?
>咲:そこの酔っ払いどものお守(も)りよ。あとから父上も来るのよ。
>夏:あら珍しい。大丈夫なの? ・・・それはそうと、あたしね、あんたたちがこの人数で来ると何かあるんじゃないかって勘繰(かんぐ)っちゃうんだけど。
>咲:へへ。あんたも鼻が利くわね。後でね。
>夏:なによ、引っ張るわね。まあ良いわ。楽しみにしときましょ。・・・さあて、今日もばりばり働くわよぅ。

>八:お夏ちゃん、お夏ちゃん。
>夏:あら八兵衛さん、随分ご機嫌ねえ。
>八:今日はな、新しい客を連れてきたんだ。
>夏:あら、女の方(かた)じゃないの。珍しいこともあるものね。・・・あたし、お夏です。
>菜:五六蔵の妹の菜々です。八兵衛さんからお噂は予々(かねがね)。
>夏:ええっ? 失礼だけど、全然似てないですね。良い意味でですけど。
>五六:お夏ちゃんまでそんなこと言うのか?
>夏:なによ、言われて嬉しい癖に。もう、にっこにこよ。
>五六:はは、こりゃ敵(かな)わねえな。これからは時々連れてくるから、宜しくな。
>八:なあ菜々ちゃん、こう見えてもお夏ちゃんは正真正銘のお武家のご息女(そくじょ)なんだぜ。お咲坊なんかと遊んでるからこんな風になっちまってるがよ。
>咲:あたしがなんですって?
>八:陰口叩いてるときに現れるなっての。
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