行雲流水(こううんりゅうすい)

ことわざの意味
行雲流水(こううんりゅうすい)とは、空を行く雲や流れる水のように、物事に執着せず、自然の成り行きに任せて行動することのたとえです。特定の形にとらわれず、絶えず移り変わり、滞ることなく自然に進んでいく様を表し、そのような生き方や心境を指します。また、文章や言動が自然でよどみないことのたとえとしても用いられます。

用例

  • 彼は会社を辞め、行雲流水の生活を送っている。
  • 彼女の書く文章は、行雲流水のごとく自然で美しい。
  • 人生の困難に直面しても、行雲流水の心持ちで受け流したいものだ。
  • 師匠の動きはまさに行雲流水で、無駄が一切なかった。

ことわざの由来

「行雲流水」の直接の由来は、中国北宋時代の文人である蘇軾(そしょく、号は東坡)が、友人の謝民師(しゃみんし)に送った手紙『謝民師推官に与うるの書(しゃみんしすいかんにあたうるのしょ)』の中に見られる一節とされています。蘇軾はその手紙の中で、良い文章とは「行く雲の如く、流水の如く、初めより定まった姿はなく、自然と行くべきところに行き、止まるべきところで止まる。文は行雲流水の如し(文章は空を行く雲や流れる水のように、初めから決まった形があるのではなく、自然と書くべきことが書かれ、終わるべきところで終わるものだ)」と述べています。 このことから、もともとは文章が自然でよどみない様を指していましたが、転じて、物事に執着せず自然の成り行きに任せる生き方や心境を表す言葉としても使われるようになりました。禅宗では、修行僧(雲水)が特定の場所に留まらず、各地を遍歴して修行する様子を指すこともあります。

類似のことわざ

  • 明鏡止水(めいきょうしすい): 曇りのない鏡と静止した水面のように、心が澄みきって落ち着いているさま。行雲流水の執着しない心境と通じる部分があります。