336.【と】 『遠(とお)くの親類(しんるい)より近くの他人(たにん)』 (2006.06.05)
『遠くの親類より近くの他人』
遠方にいる親類よりも、近隣(きんりん)に住む他人の方が、いざというときには頼(たよ)りになる。また、疎遠(そえん)な親類よりも親密な他人の方が却(かえ)って助けになるということ。
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翌日は雲ひとつなく晴れ上がった。前日のしとしと雨が嘘のようである。
朝から気温が上昇し、溜(た)まった雨水を蒸気に変え始めていた。蒸(む)し暑い日になりそうである。

>八:ねえ親方。近江(おうみ)屋の番頭ってのが来て日本橋まで付いてって呉れってんですが、行ってきても良いですよね?
>源:なんの頼まれごとだ?
>熊:ああ、親方。初めは、おいらが頼んだことなんです。寺社の与力(よりき)の家島様がなんだか困ってるって話なもんで。
>源:そうか。家島様が困ってるってんなら仕方あるめえ。役に立つってんなら、行ってこい。
>八:へい。有難う御座います。
>源:それで? その近江屋ってのは何者なんだ?
>八:染物屋だそうです。
>源:寺社奉行所と染物屋になんの関わりがあるってんだ?
>八:それがですね、「しふ」だか「被布(ひふ)」だかっていうのを坊さんが着るようになって、賽銭(さいせん)だけじゃ足りねえようになって困ってるってことでして。
>熊:勝手に話を捏(で)っち上げるなっての。
>八:だってよ。詰まるところはそんなとこだろ? 違うか?
>熊:おいらにゃそこまでは分からねえがよ。
>源:成る程な。その「被布」ってのなら俺も見たことがある。滅法高いらしいな。
>八:どこのどいつが着てるってんですかい?
>源:そんなの元締めに決まってるだろう。
>八:あのくたばり損なないですかい?
>源:見栄っ張りなとこは、変えられねえもんだからな。
>八:ああ耳が遠くちゃ褒(ほ)め言葉も聞こえやしねえじゃねえですか。紙にでも書かせるんですかい?
>源:ああ、その通りだ。傍(はた)迷惑なことこの上ねえな。

>八:断(ことわ)りゃ良いじゃないですか。
>源:「儂(わし)のこと老い耄(ぼ)れたと思ってるんだろう? 早く死ねば良いと思ってるんだろう?」なんて喚(わめ)かれてみろ。誰が断れるかってんだ。
>八:泣く爺(じじ)いと地頭(じとう)には勝てねえ、ってやつですか。
>熊:「泣く子と地頭」だっての。
>源:そんなのどっちだって構わねえから、とっとと出掛けやがれってんだ。

ともかく、着物ごときを競(きそ)い合うような妙な風潮(ふうちょう)は止(や)めさせた方が良いということで、源五郎は八兵衛が出掛けることを許した。
幾ら高いものを着たからといって、中身が変わる訳ではあるまいに。

近江屋の番頭・専蔵が、背中を丸めて近付いてきた。
手には、油紙に包(くる)んだ鮒(ふな)寿司を抱えていた。

>八:よう、番頭さん。こっちだこっち。ここが良く分かったな。
>専:ああ、こちらでしたか。1時(=約2時間)近くも探してしまいました。
>八:そんなことより、この蒸し暑い中を1時もほっつき歩いてたら寿司が駄目んなっちまったんじゃねえのか?
>専:ご心配には及びません。
>八:だってよ、ちょいと臭(にお)うぜ。・・・どれ、抓(つま)んでみても良いかい?
>専:はい、どうぞ。差し上げるお約束でしたから。でも、食べたら、ちゃんと越前屋までご足労(そくろう)願いますよ。
>八:分かってるって。・・・どれ? 一抓み・・・、うげっ。な、な、なんだこりゃ? 腐(くさ)ってるじゃねえか。
>専:いえ。腐ってなどおりません。上等な鮒寿司で御座いますよ。

>八:あんたが言ってた「熟(な)れ寿司」ってのは、こういう奴なのかい?
>専:そうですとも。これこそが正真正銘の熟れ寿司です。
>八:げっ。こ、こ、こいつは駄目だ。済まねえが、持って帰って呉れ。
>専:へ? 良いんですか? 勿体ない
>八:良いからさっさと仕舞って呉れよ。

熊五郎たちに「そんじゃ行ってくらぁ」と声を掛けて、専蔵と共に歩き始めた。

>八:番頭さんはその臭いのは平気なのかい?
>専:平気ですとも。極上(ごくじょう)じゃないですか。
>八:ほんとに極上なのかい?
>専:そりゃそうですよ。5年ものですよ。
>八:番頭さんは、端(はな)から好物だったのかい?
>専:実を言えば、私も初めは苦手でした。
>八:旦那に合わせるために好きになったのかい?
>専:まあ、そのようなものです。・・・先代の旦那様はそりゃぁお優しい方で、こんな私にも目を掛けてくださいまして、近江の味を知らなきゃ近江屋の者になれないよなどと仰(おっしゃ)いまして・・・
>八:嫌がらせじゃねえのか?
>専:滅相もない。本当に可愛がってくださいました。
>八:それで、好きになっちまったのかい?
>専:はい、そうです。今では、こんな美味しいものはないと思っておりますよ。
>八:へえ。こりゃ魂消(たまげ)た。慣れってもんは恐ろしいもんだねえ。
>専:全ては気の持ちようです。・・・大旦那様も、「これでお前も立派な近江の者だよ」って言ってくださいました。涙が零(こぼ)れました。
>八:今の旦那はどうなんだい?
>専:大旦那様の甥御(おいご)さんなのですが、少し情の薄いところがありまして、どうも「人よりも銭」というお気持ちがお強いようです。
>八:直すように言ってやりゃ良いじゃねえか。
>専:私のような老い耄(ぼ)れが何を言っても、余計な口出しというものでしょう。そういう世の中に変わってしまったのでしょう。
>八:そうでもないと思うぞ、おいらは。

専蔵は、少し考え込んでいたようだったが、やはり今更変えられそうもないと思ったのだろうか、ふうと溜め息を吐(つ)いて話題を替えた。

>専:宜しければ、この鮒寿司を「越前屋」さんにお渡ししてしまいましょうか?
>八:好きにすれば良いんじゃねえの? 少なくとも、おいらは要(い)らねえから。・・・ん? 待てよ。そうだ。「一黒屋」に寄っても良いかい?
>専:ええ、構いませんよ。「越前屋」さんの用は、今日中にということですから。
>八:良し決まった。ご隠居さんは食い道楽だから、もしかすると好きかも知れないもんな。
>専:喜んでいただけると良いですね。
>八:そうだよな。喜んで呉れりゃ、お礼に美味いもんを食わして呉れるかも知れねえもんな、うしししし。
>専:なんだ、狙(ねら)いはそれですか。
>八:いけねえかい? ・・・それに、運が好けりゃ、番頭さんにも昼飯をご馳走して呉れるかも知れねえぜ。
>専:い、いえ、私は・・・

と言いつつも、ごくりと生唾(なまつば)を飲んでいた。
本当にぎりぎりの食生活なのだ。

>与志:おお、八つぁん。昨日は済みませんでしたねえ。算段はどうでしたか?
>八:上々ですよ。・・・ほれ、こっちが「近江屋」の番頭さん。
>専:専蔵と申します。お初にお目に掛かります。
>与:ほう。あなたが専蔵さんですか。お名前はかねがね伺ってますよ。
>専:は? 私の名を?
>与:そうです。亡くなった「近江屋」さんが良く話してらっしゃいました。口数は少ないが、一本気な男だと聞いていますよ。
>専:そんな・・・
>与:新しい旦那さんよりも、本当はあなたにお店(たな)を譲(ゆず)りたいと仰っておいででした。「なにも近江くんだりから親類を呼び寄せるほどのことじゃないのにねぇ」とね。・・・あ、こんなこと、今更言っても始まりませんね。

専蔵には初めて聞く話であったらしい。目を白黒させている。
気持ちの動揺を誤魔化(ごまか)すように、手に持った鮒寿司を、恐る恐る差し出した。

>与:おお。これは・・・
>八:ご隠居さんはお好きですかい?
>与:当たり前じゃありませんか。こんな上物を見たのは初めてです。・・・ほんのちょっとを器に入れてちびりちびりと舐(な)めるのが良いですねえ。
>八:臭くないですかい?
>与:そこが良いんじゃないですか。八つぁんはまだまだですねえ。
>八:ご隠居さんと違って、「だるま」なんかの茄子(なす)漬けで満足してるくらいですからね。
>与:それは可哀想ですね。
>八:その分、なんか美味いもんを食わして貰えやせんか? 上等な寿司だって聞いてたから朝飯を軽くしか食ってきてねえんです。・・・番頭さんだって、いつも目刺ししか食わしてもらってねえようだし。
>与:そうですね。あたしも、これからお昼にしようとしていたところです。何か拵(こしら)えさせますから、ちょっと待っててください。
>八:あんまり待たせないでくださいよ。これから日本橋まで往復しなきゃならねえんですから。
>与:「越前屋」さんへですか? それは大変ですね。
>八:おいらほんとは行きたくないんですけどね、請け書きをおいらに持たせろってことなんでね。
>与:専蔵さん。あまり「越前屋」には深入りしない方が良いかもしれませんよ。
>専:それはどういうことでしょう?
>与:飼いならすまでは餌(えさ)を与えますが、餌付けが済むと朝三暮四のようなことをするのです、あの人はね。
>八:なんですかいその「長さん煮干」ってのは? 小振りの目刺しかなんかですかい?

>与:はは、まあそんなところです。
>八:そりゃぁ酷(ひで)えや。・・・番頭さん、そんなのと付き合わない方が良いですぜ。そんなら、ここの方がよっぽど良いですぜ。日本橋よりもずっと近いし、それよりも何よりも、美味(うま)い飯を食わして呉れる。
>与:あたしのところは重宝(ちょうほう)な飯屋ですか?
>八:そういうんじゃないんですけどね。
>与:まあ、家(うち)はそういう目当てだろうがなんだろうが、皆さんが来てくださることが嬉しいんですから、なんでも構いませんがね。
>八:・・・どうです、番頭さん。いっそのこと、ご隠居さんの下(もと)へ鞍替えしちまうってのは?
>専:いくらなんでも、お世話になった「近江屋」を出られやしません。
>八:そんじゃ、こうしたらどうです? 馬鹿旦那から首を切られたら、ここに拾って貰うってのは。
>専:そんなご迷惑は掛けられません。
>与:迷惑などではありませんよ。・・・しかし、番頭さんを蔑(ないがし)ろにするようでは、良いお店ではありませんね。
>八:そうでしょう? おいら、どうもあの旦那が好きになれねえんだよな。
>専:そう悪く言わないでください。あれでも、お店を守(も)り立てようと頑張っているのですから。
>八:毎晩飲みてえってだけなんじゃねえのかい?
>与:あっはっは。それじゃあ、まるで、八つぁんとおんなじじゃありませんか。

八兵衛はぐうの音も出せなかった。
(第40章の完・つづく)−−−≪HOME