327.【て】 『天馬(てんば・てんま)空(くう)を行(ゆ)く』 (2006.03.20)
『天馬空を行く』
天馬が空を駈けるように、着想や手腕(しゅわん)が自由奔放(ほんぽう)なこと。
類:●自由奔放
出典:劉廷振(りゅうていしん)「薩天錫詩集序」「殆猶天馬行空、而[歩-ヽ]驟不凡」
李白の詩の作風を讃(たた)えて、「天馬行空」と評したという。

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八兵衛が「一黒屋」へ向かった後、お咲は、お須美とおみなのどちらを雇(やと)うべきかあやに相談した。
「お咲ちゃんが決めれば良いんじゃない?」と言いながら、あやも2人がどんなことを話したのか聞きたがった。

>咲:おみなさんの方は、暮らしの足(た)しっていう感じじゃないみたいなのよね。
>あや:それじゃあ、何のため? 友助さんの顔を立てるとか、そういうことかしら?
>咲:そんなことじゃないのよ。これを見て。・・・瓦版。
>あや:これって、太助さんが読売りしているもの?
>咲:そうよ。見て、左の隅よ。
>あや:
『縁結びの近道、縄暖簾(なわのれん)の看板娘』? へえ。凄(すご)いわね。・・・あら、わたしの名前まであるじゃない。
>咲:ね? 勝手に人の名前を出さないで貰いたいものだわ。
>あや:そうお? わたしは、ちょっと嬉しいけどな。
>咲:ええ? そうなの?
>あや:小町娘に選ばれたみたいで、素敵じゃない?
>咲:小町娘なんかじゃないじゃない。縄暖簾の女中よ、女中。酒汲(く)み女。
>あや:そんなに自分を卑下(ひげ)するような言い方するもんじゃないわ。
>咲:卑下してる訳じゃないんだけど、こんな書かれ方をされちゃうとね。
>あや:でも、当たらずといえども遠からずだものね。
>咲:あたしは「だるま」で熊さんを見付けた訳じゃないもん。
>あや:そうかしら?
>咲:あやさんだって、そういうことじゃないでしょう?
>あや:わたしは「だるま」で源五郎親方に再会したのよ。だから、あそこがわたしの因縁(いんねん)のお店。
>咲:あ、そっか。・・・あやさんが話すと、あんなちんけなお店でも綺麗なところに聞こえちゃうから参るわね。
>あや:本気でそう思っているのよ。可笑(おか)しい?

その点についてとやかく言っても埒(らち)が明くものではない。
そもそもの、視点が違うのである。

>あや:それで? お須美さんはなんですって?
>咲:気持ちは有り難いんだけど、やっぱりお父つぁんの手伝いもしなくちゃならないから、って。
>あや:でも、お咲ちゃんはお須美さんの方が向いてると思ったのね?
>咲:そう。・・・ねえ、あやさん。悟郎っていう人のことは黙ってたわね?
>あや:あら、もう知れちゃったの? なんだ、つまらない。
>咲:お須美さんにほの字なんですって? 内房のご隠居様から聞いたわよ。
>あや:ご隠居様のところへも行ってきたの?
>咲:その瓦版読んでみてよ。それを読んだら聞きたくならない訳ないじゃない。
>あや:・・・まあ。これって、本当なの?
>咲:嘘よ。
>あや:だって、「蛟(みずち)の太郎兵衛」って書いてあるじゃない。
>咲:本物は唯(ただ)の「太郎兵衛」。偽者(にせもの)が「
蛟の太郎兵衛」なんだってさ。
>あや:ご隠居様の差し金なの?
>咲:そうだって。上手くすれば本物が燻(いぶ)り出されてくるんじゃないかって。
>あや:まあ、本人というのは難しいでしょうね。とっても用心深いから。でも、大慌てする人はいるかも知れないわね。
>咲:それが狙いなんですって。・・・あたしは本人じゃなきゃ仕方がないと思うんだけどな。
>あや:外堀から埋めていくっていうやり方もあるってことね。ああいうしぶとい奴にはそういうやり方しかないのかも知れないわね。
>咲:それになに、「蛟」ですって。蛟なら権太の方じゃない。
>あや:良いんじゃない? わたしはこういうのって好きよ。暗に権太も捕らえていますよって言ってるみたいで。
>咲:そこまで考えてのこととは思えないけどな。

お咲は、あやが記事を読み終わるまで暫(しばら)く間を空けた。
あやは「ふうん」とは言ったが、取り立てて感慨を述べなかった。

>あや:お須美さんって、1日置きくらいならなんとかなるのかしらね?
>咲:え? ・・・それって、おなみさんと代わり番こってこと?
>あや:そう。そういうのも、お客さんは喜ぶんじゃないかしら。
>咲:そんなことにしちゃって良いの?
>あや:良いんじゃない? お咲ちゃんが任されちゃってるんでしょう?
>咲:ええ。まあ、親爺(おやじ)さんはなんとも言わなかったけど。
>あや:それなら良いじゃない。そうしちゃいなさいよ。それならお須美さんだってやって呉れるでしょう? 悟郎さんも喜んで呉れるわ。
>咲:うーん。良いのかなぁ?

>あや:もしかすると、お須美さん、あんまり長くいないで悟郎さんのお嫁さんになっちゃうかも知れないじゃない?
>咲:あ、そっか。そういうことも有り得るってことか。
>あや:そうなったら良いなって思うのよね。
>咲:あやさん、また何か仕掛けるつもりでしょう?
>あや:仕掛けるだなんて、そんな大それたこと・・・

(きっとやるわね)と、お咲は内心で考えていた。
しかし、確かに、お須美と悟郎とはお似合いであるようにも思えた。
それに、おなみにしたって、縁を求めて「だるま」を頼ってきている節もある。遅かれ早かれかも知れない。
それならば、どちらかに控(ひか)えとしての役目を担(にな)って貰うのも悪くない。
お咲は、腹を決めた。

>咲:分かったわ。友助さんと顔を合わせたら、「両方とも働いて貰うことにした」って言っといて。あたしはもう1回お須美さんと話してくる。
>あや:暫く賑(にぎ)やかになりそうね。
>咲:八つぁんが悪乗りしなきゃ良いけど。
>あや:うーん。それはわたしもちょっと心配。・・・でも、稚児(やや)が生まれれば、少しは大人しくなるでしょう。
>咲:残念。そういう玉じゃないわよ。
>あや:八兵衛さんについては、お咲ちゃんの方が詳しいんだものね。こっちからも、少しは引き締めとかなきゃいけないかしら?
>咲:言って分かるような人だったらね。
>あや:一々ご尤(もっと)も。・・・わたしも、親方の女房としたら、まだまだね。お咲ちゃん、上手く手綱(たづな)を締めてあげてね。

結局お咲は、なんだか上手く丸め込まれたような気持ちであやのところを後にした

お須美は、そんな事情を話すと「喜んでお手伝いします」と、掌(てのひら)を返したように満面の笑みを浮かべた。
あやが言う通り、お茶目である。結構奔放(ほんぽう)な質(たち)のようである。


>須美:あたし、人に頭を下げることって慣れちゃってるから、お客様の相手は上手くできると思うのよね。
>咲:いつから働いて貰えそうかしら?
>須美:今日からでも平気。
>咲:へ? 今日? だって・・・
>須美:鳥籠(とりかご)なんか売り歩いたって、3日に1つ売れれば良い方。それなら、3日に2日働いた方が良いもの。
>咲:それなら、3日に2日にする?
>須美:いきなりそんなに稼(かせ)いじゃったらお父つぁんが働かなくなっちゃう。だから、1日置きで構わないわよ。
>咲:そんなに良いお給金じゃないんだけどな。
>須美:間違いなく幾許(いくばく)かの実入りがあるんでしょう? 今の暮らしからしたら、夢のようだわ。
>咲:そんなもんかしら。
>須美:それにね、あやさんって方の話だとお十三さんのご亭主も時々来るんでしょう? お話をしてみたいわ。

>咲:お十三さんとはどういうお知り合い?
>須美:良く虫を買って貰ったの。「あたしは籠(かご)の鳥って言うよりも籠の虫かしら」なんて、可愛らしいことを言って呉れるのよ。「鳥なら空を飛べるのにな」なんて。
>咲:それって、どっちかっていうと泣き言なんじゃない?
>須美:お十三さんが? それはないわよ。威勢の良い人だもの。・・・ほんのちょっと、昼間っから夢を見ちゃってるようなとこはあったけど。
>咲:ふうん。そうなんだ。
>須美:あたしと、ちょっと似てるところがあったかな?
>咲:お須美さんにもそんなところがあるの?
>須美:あたしは、今の暮らしから抜け出たいってことばっかり考えてたから。・・・でも、ほんとにこんな話が舞い込んでくるとは思ってもみなかった。それこそ、籠の虫じゃないかって思ってたところなの。
>咲:お嫁に行こうとか、そんなことは考えたことがないの?
>須美:こんなあたしのことなんか好いて呉れる人なんかいないわよ。
>咲:でも、「だるま」で働くようになったら、そういう目で見てくる人も増えるわよ。
>須美:真逆(まさか)。虫は虫よ。精一杯鳴いて終わり。それっきりよ。
>咲:大丈夫。お須美さんは籠の虫なんかじゃないから。あたしが折り紙を付けてあげる。
>須美:まあ。冗談でも嬉しいわ。


(冗談なんかじゃないわよ)と、心の中で語り掛けていた。
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