319.【て】 『敵(てき)は本能寺(ほんのうじ)に在(あ)り』 (2006.01.23)
『敵は本能寺に在り』
本当の目的は、表面に掲(かか)げたものではなくて、実は別のところにあるということ。人々の目を欺(あざむ)いて、他の目的を狙(ねら)うこと。
故事:天正10年(1582)、明智光秀が備中国の毛利勢を攻める途中、俄かに進路を変え、「わが敵は本能寺にあり」といって、京都本能寺に宿泊中の織田信長を襲った。 
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2本目の塩引(しおび)きをお花にお裾(すそ)分けして、お咲は、残り1本をぶら下げて家へ帰った。
それを放り出すようにして六之進に手渡すと、いそいそと、また表(おもて)へ出た。
「だるま」に出掛ける前のお町を捕(つか)まえるためにである。
父親(てておや)の午之助(うまのすけ)は外に出ているようだった。

>咲:お町ちゃん、「だるま」に行くまでには、まだ間があるわよね?
>町:あらお咲ちゃん、どうかした?
>咲:それがね、大変なことになっちゃったみたいなの。
>町:何が? 「だるま」の親爺(おやじ)さんでも倒れた?
>咲:あんな親爺がどうなろうと知ったこっちゃないわよ。
>町:あっはっは。そりゃそうよね。・・・じゃあ、何?
>咲:三ちゃんが大怪我(おおけが)しちゃったんですって。
>町:三吉さんが? 大怪我? ・・・まあ、大変。
>咲:大怪我ってったって、命がどうのとかそういうのじゃないんだけどね。
>町:どこを怪我したの? 頭? 顔? 腕?
>咲:あたしも、あやさんから教えて貰ったから詳(くわ)しいことまでは知らないんだけど、足の骨だって言ってた。
>町:足の骨ですって? それはほんとに大怪我だわね。
>咲:ねえ、「だるま」に行く前に寄ってみない? あたしも一緒に行くから。

>町:ちょ、ちょっとだけ待ってね。あたし、前掛けを外して、戸締りをしてと、ええと、ええと、なんか持ってかなきゃいけないものってあるかしら?
>咲:そんなに慌(あわ)てなくても大丈夫。三ちゃんは逃げやしないから。なんたって足の骨なんだから。
>町:そういうことじゃないでしょう、お咲ちゃん。痛いかも知れないし、ひもじいかも知れないし、うーん、あ、親御さんとかと会いたいかも知れないじゃない。
>咲:二親(ふたおや)とは死に別れちゃったって聞いたことあるわよ。
>町:ご兄弟は?
>咲:いないんじゃないの? なんにも言ってなかったから。
>町:そう。・・・天涯孤独なの。寂しいでしょうね。
>咲:そんなこと言ってないで、さ、行きましょう。
>町:食べるものは?
>咲:そのくらいは五六ちゃんがなんとでもして呉れてるわよ。看(み)てて呉れてるんだって。
>町:それじゃ、手ぶらで良いのね? ほんとね?
>咲:はいはい。

午之助の家から三吉の住処(すみか)までは、然程(さほど)遠い訳ではない。
ほんの5、6町(=600mほど)である。
ともすると小走りになるお町を押し止(とど)め押し止め進んでいくと、長屋の女房連(にょうぼうれん)に混じって、五六蔵が井戸端(いどばた)に立っている。

>咲:五六ちゃん。ご面倒(めんどう)様。三ちゃんはどう?
>五六:ああ、お咲ちゃんじゃねえですか? 千場(ちば)道場の大(おお)先生がなんとか骨を接(つ)いでくだすったんでやすが、まだちっと痛むようでして。
>町:付いててあげなくても平気なんですか?
>五六:おっとお町ちゃんまで。・・・そのくれえは平気さ。今朝方(けさがた)見たときはどうなることかと思ったけどな。
>町:そんなだったの?
>五六:なんてったって、足首んとこが外方(そっぽ)向いちまってたからね。
>咲:止(よ)してよ、思い浮かべちゃったじゃない。
>町:お見舞いしても平気ですか?
>五六:ああ。お町ちゃんが来て呉れりゃ、千人力だ。是非とも見舞ってやって呉れ。
>町:お咲ちゃんは?
>咲:あたし、後で良い。変なのを思い描(えが)いちゃったから。・・・ちょっと落ち着いてからにする。

お町は一人で長屋へ入っていった。
戸を閉めたのを見計らってから、五六蔵がお咲に話し掛けた。

>五六:お咲ちゃんも、中々どうして、粋(いき)なことをしなさる。
>咲:ありゃ、気が付いちゃった?
>五六:そりゃもう。・・・三吉の野郎、一遍で元気が出ちまいますよ。なんてったって、夢にまで出るお町ちゃんですからね。なんて言って引っ張り出してきたんでやすか?
>咲:へへ。「うわ言でお町ちゃんの名を呼んでる」って言おうと思ったんだけどね。そんな誤魔化(ごまか)し、要(い)らなかったみたい。
>五六:そんじゃ、案外、脈ありでやすか?
>咲:ありそう。うふっ。
>五六:これで美味い具合いに行きゃ、それこそ「怪我の功名」って奴ですね?
>咲:あら、五六ちゃんまで熊さんの真似(まね)?
>五六:へ、へい。つい・・・
>咲:一緒に仕事をしてると、似ちゃうのかしらね?
>五六:そういうところもあるでしょうね。お咲ちゃんだって、なんだか家(うち)の姐(あね)さんに似てきてやすぜ。
>咲:そうかしら? 悪い気はしないわね。
>五六:三吉が怪我した途端にお町ちゃんを連れてくるとこなんか、姐さんそっくりでやすよ。
>咲:へへ。ほんとのこと打ち明けちゃうとね、あやさんから頼まれて来たの。あたしなんか、まだまだよ。
>五六:そんなことありませんよ。頼(たよ)り甲斐(がい)があるからこそ、お咲ちゃんに頼むんですからね。
>咲:五六ちゃんて、いつもいつも、顔に似合わず優(やさ)しいこと言うのね。
>五六:「顔に似合わず」は余計でやす。

痛みを堪(こら)えて横になっていた三吉は、不意にお町が現われてどぎまぎした。

>三:お、お町ちゃん。ど、どうしてここに・・・
>町:お咲ちゃんが教えて呉れたの。どんな具合い?
>三:うん。ちょっと捻(ひね)っちまったくらいだよ。大先生の話じゃ、一月(ひとつき)くらいは立ち上がるなってことらしいんだ。
>町:そうなの。・・・痛むの?
>三:まあ、ちっとは痛むけど、金槌(かなづち)で指をしこたま打ち付けたときよりも増しかな?
>町:まあ。三吉さんらしい喩(たと)えね。・・・そんなことが言えるようなら、大丈夫ね。
>三:大丈夫さ。大騒ぎするほどのことじゃねえよ。
>町:でも、歩けないんでしょう? 何かと・・・
>三:なあに、3日もすりゃ、杖(つえ)突いて歩けるようになるさ。
>町:駄目(だめ)よ。先生の言うことは守らなきゃ。
>三:でもよ、歩いちゃ駄目、酒を飲んじゃ駄目ってんだったら、「だるま」にも行けねえじゃねえか。こいつは、おいらにとっちゃ大事(おおごと)なのさ。
>町:そんなの良いじゃない。あそこの食べ物じゃなきゃ口に合わないって言うんなら、あたしが持って来てあげるから。
>三:親爺が作るもんなんか、誰が喜んで食うもんか。おいらはな、お町ちゃんに悪い虫でも付いちまうんじゃねえかって、そっちの方がよっぽど気が気じゃねえのさ。
>町:そんなことないって。八つぁんだって、万ちゃん千ちゃんだっているもの。

>三:そりゃそうだがよ。・・・あ、あのさ、はっきり言っちまうと、おいら、お町ちゃんの顔を見てねえとどうも・・・
>町:ちっとも「はっきり」じゃないじゃないの。もっとはっきり言って。
>三:おいら、毎日毎日お町ちゃんの顔を見ていたいんだ。女々しいってのとは違うぞ。これから先もずっとってことだ。
>町:うん。・・・分かった。それじゃ、あたしの方から顔を見せに来てあげる。それなら我慢できるでしょう?
>三:そりゃあ、お町ちゃん・・・
>町:か、勘違いしちゃ駄目よ。今はそんな気になっちゃってるけど、明日も明後日(あさって)も来月も来年もおんなじだってことは言い切れないんだからね。
>三:今だけでも良いよ。おいら、なんだか夢を見てるようだ。
>町:はいはい。ゆっくり眠って、精々(せいぜい)力を付けてちょうだい。・・・それじゃ、また夜に来るわね。
>三:うん。待ってるよ。

お町は、赤い顔をして長屋から出てきた。文字通り金時の火事見舞い」である。

>咲:どうかした?
>町:いえ、別に。・・・三吉さん、暫(しばら)く眠るって。大丈夫みたい。
>咲:そう。それじゃ、後で出直してくることにするわ。
>五六:三吉には、来てくだすったこと、ちゃんと言っておきやすから。
>咲:うん。そうしてね。五六ちゃんにも面倒を掛けるわね。
>五六:そんなことありやせんって。
>町:・・・あの、五六蔵さん。
>五六:へ? へい。
>町:明日からは、お仕事の方へ戻って貰っても良いわ。三吉さんの面倒はあたしが見ますから。
>五六:そんなこと言ったって、お町ちゃんには「だるま」の方があるだろうよ。
>町:ちょっと抜け出すくらいなら、なんてことないでしょう?
>咲:そういうことなら、あたしがお手伝いに行ってあげる。どうせ暇だし。
>町:そうして貰える? 助かるわ。
>咲:なんのなんの。三ちゃんのためならそのくらい。
>町:やっぱり頼りになるわ、お咲ちゃんは。

>咲:えへへ。・・・実を言うとね、ちょっとした目論見(もくろみ)があってのことなのよ。
>町:どんな?
>咲:今は教えない。三ちゃんの怪我が治(なお)ったら教えてあげるわね。
>五六:まだ随分先ですぜ。
>咲:良いの良いの。・・・だから、お町ちゃんは、三ちゃんの怪我が一日でも早く良くなるように、懇(ねんご)ろに介抱(かいほう)してあげてね。
>町:なんだか気になるわね。
>咲:まだ言っちゃ駄目って止められてるのよね、あやさんから。
>五六:姐さんも絡(から)んでいなさることなんですかい?
>咲:企(たくら)んでるのは、あやさん。乗っかってるのがあたし。・・・大丈夫よ。悪い話じゃないから。
>町:あたしにも関わりのある話?
>咲:さあ? ・・・今は言えない。
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