315.【つ】 『聾(つんぼ)の早耳(はやみみ)』 (2005.12.19)
『聾の早耳』
1.耳の遠い人は、不都合なことには聞こえない振りをして、不必要なことや悪口を言われたときには良く聞こえるものである。
2.聞こえないのに聞こえた振りをして早合点すること。
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>咲:ご隠居様は、どこまで知ってたの?
>内:田楽屋(でんがくや)に出入りしているのですから、味噌か砂糖ではないかと考えてはいました。砂糖だったら南の方、味噌だったら北から京の辺りまでということです。味噌でしたら、とてもとても虱潰(しらみつぶ)しという訳にはいきません。
>咲:太助どんみたいに、聞いちゃえばすぐに突き止められちゃうけどね。
>内:太助どんだからできたことでしょうね。役人どもではとてもとても。
>咲:そうかもね。・・・商人(あきんど)じゃないってことだけは分かってたのね?
>内:分かっていたというのではないのです。今どきは、下級武士でも小遣(こづ)い稼(かせ)ぎをしますからね。
>咲:そんなのがいるの?
>内:いますいとも。妻子が病(やまい)がちだとか、上司から賂(まいない)を求められとか、藩(はん)の内証(ないしょう)が火の車だったりとかと、事情は千差万別です。
>咲:へえ。それは知らなかったわね。家(うち)の父上とどっこいどっこいじゃない。
>内:お家が断絶しているかいないかの違いだけです。こんな体(てい)たらくが長く続くと、幕府(ばくふ)の転覆(てんぷく)を考え始める輩(やから)だって出てき兼ねませんね。
>咲:真逆(まさか)。そこまで考える人なんかいませんよ。
>内:そうだと良いのですけど。

そんな話の間も、太助は夢中で食べ続け、2人の話などどこ吹く風である。
膳(ぜん)を平らげてしまうと、「明日の晩が楽しみなんだな」などとほくそ笑みながら帰っていってしまった。
鱈腹(たらふく)食べたというのに、もう食べることを考えている。
「卑(いや)しさにかけちゃ、八つぁん以上ね」と、お咲が呟(つぶや)いてしまったほどである。

>内:それで、お咲さん。
>咲:は、はい?
>内:1つ頼みごとがあるのですが、聞いていただけますか?
>咲:あたしに? どういうことですか?
>内:幸(さいわ)い、打ち壊されてしまったお店(たな)は2軒だけで済みました。元の主人に戻るように言えば、喜んで戻ってくるでしょう。・・・そこで、お願いというのは、下谷町(したやまち)に2軒の空き家が出てしまうということなのです。
>咲:空き家へ入る人を探せっていうこと?
>内:はい。
>咲:「はい」って、そんなに軽く言わないでよ。あたしにだって、できることとできないことがあるんだから。
>内:建物の造(つく)りは商家(しょうか)仕立てになっていますので、そういう方(かた)の方が合うと思うのです。
>咲:あたしんとこは大工なんですよ。そんな知り合い、そんなにいる訳ないじゃないですか。
>内:2軒ともとは言いません。1軒で結構です。それに、もう目星は付けてあるのです。
>咲:どこなの?
>内:海鮮問屋の「堺屋(さかいや)」さんです。
>咲:ええっ。蛸(たこ)、じゃない、徹右衛門(てつえもん)のとこ? 嫌よ。駄目駄目。あたしには無理。
>内:なんでしたら、敷金(しきがね)をお咲さんに払うようにしても構いません。
>咲:ほんとなの?
>内:ええ。口利きの手間賃です。
>咲:幾らくらい?
>内:5両(=約40万円)ほどではいかがです?
>咲:乗った。・・・謹(つつし)んでお請(う)けいたします。
>内:助かります。それでは、あたしが書面を書きますから、それを若旦那に見せてあげてください。

内房老人は、さらさらと文(ふみ)を書いて、お咲に内容を改めるようにと見せて寄越(よこ)した。
分店を出す利点については、以下の2つが書かれてあった。
御用の土地なので半値近くで下げ渡せること。
「伯楽天(はくらくてん)」という天麩羅(てんぷら)屋への卸(おろ)しを一手に掌握(しょうあく)できること。

>咲:あの田楽屋って、悪事の片棒を担いだんじゃないの? 許しちゃうの?
>内:はっは。耳が遠いのと物忘れが多いのは年寄りの得意技ですからね。
>咲:握(にぎ)り潰(つぶ)しちゃうってこと?
>内:まあ、もう一方に比べれば、些細なことですからね。それに、手先の手先ですから、放っておいても1人では何もできません。
>咲:そう。ご隠居様がそこまで言うんだったら、あたしも知らなかったことにするわ。それで良いでしょう?
>内:その方が無難(ぶなん)ですね。
>咲:・・・でも、糸を引いているのが誰かくらいは教えてくださいね。手は出せなくても、聞いとくだけは聞いておきたいの。
>内:そのくらいは良いでしょう。まあ、徳島藩の進物(しんもつ)役が、明日までに口を割るとは思えませんがね。

翌日の晩、坂田太市はほくほく顔でやってきて、いつも以上に酒を飲み、いつも以上に赤くなり、いつも以上の勘定(かんじょう)を置いて帰っていった。

>八:うひょう、こんなに置いてかれちまったって、1晩じゃ食い切れねえぞ。
>太:大丈夫なんだな。おいらが、意地でも食い倒してやるからさ。
>八:そんなこと言ったって、ここにゃ、それだけのもんを置いてねえじゃねえか。安酒に安っぽい肴(さかな)しかねえんだからよ。
>亭主:なんだと? やい、手前ぇら、そんだけのもんを食っといてその言い種(ぐさ)はなんだ。明日っから、敷居(しきい)を跨(また)がせやしねえぞ。
>八:五月蝿(うるせ)えな。銭を払ってくんだから文句なんか言うなってんだ。なんなら、3日先の分まで置いてってやるぞ。
>亭主:ほんとか? どれ、どんだけ置いてったのか見せてみろ。
>八:誰が見せるかってんだ。おいらの胴巻きに仕舞っちま・・・
>咲:駄目よ。あたしが預かる。
>八:な、何をしやがる、お咲坊。
>咲:今度のことで一番の手柄(てがら)を上げたのは太助どんなんだからね。八つぁんに持たしてたら、みんな飲んじゃうでしょう?
>八:そ、そんときゃ、太助も呼んでやるって。それによ、一昨日(おとつい)はおいらが余分に出したんだぜ。そのへんのとこは分かって貰わねえとな。
>咲:それはそれ、
じゃないの。過ぎちゃったことなんか全部忘れちゃったわ。
>八:そりゃぁねえよ。太助を手伝いに付けてやれって言ったのはおいらなんだぜ。・・・なあ太助、お前ぇからもなんとか言って呉れよ。
>太:もごもご・・・
>八:なんだって? 指2本を立ててやがるが・・・
>咲:2日おきに来るから宜しくってことじゃない?
>八:おお、頷(うなず)いてやがる。・・・ってことは、明日と明後日は、またしみったれた飲みに逆戻りってことか。
>咲:そういうこと。

その日の昼間のこと、お咲は堺屋へ行って、内房老人が書いて呉れた書面を徹右衛門に手渡していた。
お咲を見てぽうっとしているだけの徹右衛門に、「残念ながら、大工の女房になっちゃったんで、諦(あきら)めてね」と言い放(はな)ってやった。
徹右衛門はしょんぼりしたようだったが、文面を読むとちょっと目を瞠(みは)り、慌(あわ)てて番頭と話をして、その場で手付けの5両をお咲に手渡した。
「それから、これはお祝いです」と言って、自分の銭入れから3両を取り出し、紙に包んでお咲に手渡した。

>咲:そんなの貰えないわよ。
>徹:良いんです。あたしが真っ当に働くようになれたのも菩薩(ぼさつ)様のお陰ですから。
>咲:あたしは菩薩でもなんでもないって言ってるじゃない。
>徹:あたしにとっては菩薩様です。

>咲:だって、菩薩様が大工の女房になんかなる?
>徹:きっと、それは、あたしを一本立ちさせようという有り難い御心(みこころ)に外(ほか)なりません。ああ、有り難や有り難や。
>咲:だから違うって。・・・あーあ、ちっとも聞いてない。
(第37章の完・つづく)−−−≪HOME

ご注意:「聾」は、現在では、差別的な用語(好ましくない表現)とされていますので、使い方には十分ご注意ください。