306.【つ】 『月(つき)に叢雲(むらくも)、花(はな)に風(かぜ)』 (2005.10.17)
『月に叢雲、花に風』[=嵐]
好事には、兎角(とかく)差し障りが起こり易いものだということの喩え。
類:●花開いて風雨多し●好事魔多し寸善尺魔●花に嵐●魔障多し●好景不長
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祝言(しゅうげん)の日くらい天候に恵(めぐ)まれたいと願うのが人情というものだが、人情ばかりではお天道(てんとう)様は出ない。
これから引越しだというのに、今にも泣き出しそうな空模様(そらもよう)である。

>咲:なんだか嫌なお天気ね?
>熊:そうだな。できるだけ急いで片付けちまおうぜ。
>咲:もうちょっと待ってね。万ちゃんと千ちゃんが、まだ食べ終わらないの。
>熊:そうか。そんじゃ、おいらんとこのを積み始めるとするか。
>咲:あんまりたくさん掛からないようだったら、一往復してきちゃってよ。
>熊:独(ひと)りでか? そりゃあ手厳しいな。
>咲:厳しくされるのは、もう慣れっこでしょう?
>熊:そういう言い方ってのはねえと思うぞ。おいらだって当たり前の男なんだからな。・・・五六蔵くらい図体(ずうたい)がでかけりゃ、これっぱかしの荷(に)なんか朝飯前なんだろうがな。
>咲:平気平気。そこいらにいる優男(やさおとこ)なんかより、ずっと頼もしいから。
>熊:誉(ほ)めてんのか? それとも、茶化してんのか?
>咲:誉めてるに決まってるじゃない。・・・さ、急いで急いで。それが済んだら、後は力仕事はやらなくても良いようにするから。
>熊:ほんとだな? きっとだぞ。
>咲:はいはい。
>熊:よし分かった。そんじゃ、一丁(いっちょ)行ってくら。

熊五郎は自分の長屋の中へ駆けていった。
お咲がぺろりと舌を出したのには気が付いていない。引越しだというのに、一番の働き手が楽できる道理などないのだ。

熊五郎が独りで出掛けている間に、朝食を済ませた万吉と千吉が、六之進の荷を纏(まと)め始めた。
ずっと独り身の熊五郎と違って、味噌やら米やら塩やらと、品物は多い。

>咲:糠味噌の樽(たる)だけは零(こぼ)さないでよ。
>万:は、はい、分かりました、姉(ねえ)さん。
>咲:それと、千ちゃん、茶碗なんかは割らないでよ。
>千:はい。気を付けて扱(あつか)います。
>咲:良し良し。
>六:・・・これ咲、指図(さしず)だけするのではなく、お前も手を動かしなさい。
>咲:えへへ。御免なさい父上。あたし、あやさんのとこに行ってこなきゃならないの。
>六:そのようなことは、日が暮れてからでも十分間に合うであろう。
>咲:そうでもないのよね。花嫁は何かと忙(いそが)しいんだから。
>六:しかし、お前が行ってしまっては、新居の方の配置やら何やらが分からぬであろう。
>咲:それまでには戻るわ。
>六:そうか。ううむ・・・、あ、それと、ここに越してくる「竜(りゅう)」と申す者の在所(ざいしょ)はお前しか知らないのだぞ。
>咲:それなら、分かり易いから、行き方を書き付けておいたわ。そこに置いてある紙よ。
>六:どれ? ・・・何々? 「大曲(おおまがり)の方へ坂を下って、小さい刷(す)り物職の角を左に折れて、2本目の辻をまた左。組み紐職の竜」。なんだこれは?
>咲:分からない? あたしは迷わずに行けたんだけどな。
>六:万吉、今儂(わし)が読んだので分かったか?
>万:いえ。さっぱり。
>六:それ見ろ。分からぬではないか。
>咲:そのときは半次さんに聞いてみて。・・・そんじゃ、あたしは出掛けるわね。行ってきまーす。

本当に行ってしまった。好い気なものである。
やがて戻ってきた熊五郎に経緯(いきさつ)を話すと、「なんだと?」と目を丸くして、それから溜め息を吐(つ)いた。
結局は、竜の引越しまで手伝う羽目に落ちるのである。

3往復目を終えた頃に、案の定(じょう)、雨が降り始めた。どうにか、荷は濡(ぬれ)れずに済んだ。
さて、問題はここからである。
熊五郎と万吉千吉は、蓑(みの)を付け、笠を被(かぶ)って大曲の方へ向かって大八車を引き始めた。

>竜:随分遅かったじゃねえか。雨が降り出しちまったじゃねえかよ。これじゃあ、濡れ鼠(ねずみ)になっちまう。
>熊:済まねえ。ちょいと迷っちまったんだ。
>竜:あんたら、3人とも間抜け揃(ぞろ)いだな。あの娘の方は中々の切れ者(もん)だったがな。
>熊:口が上手(うま)いだけさ。
>竜:あんた、18や19には見えねえが、あんたもあの娘の弟子(でし)なのかい?
>熊:おいらがか? とんでもねえ、おいらは、あいつの亭主だよ。・・・いや、違うか。今晩から亭主になる。
>竜:なんだと? するってえと、この2人の親方ってことか? ・・・こりゃ参(まい)ったね。直々(じきじき)にお出座(でま)しとはね。
>熊:こいつらを、来たこともねえところへなんか遣(や)らせられねえからな。
>竜:へえ。生真面目(きまじめ)なんだか、お人好しなんだか。

>熊:どうせおいらはお人好しだよ。・・・そんなことより、おいらは大工の熊五郎ってんだ。こいつらは万吉と千吉だ。
>竜:大工の親方かい。半次とは長いのかい?
>熊:ああ。物心付いてからずうっと一緒だ。あいつが青っ洟(ぱな)垂らしてた頃も知ってるよ。
>竜:それじゃあ、「だるま」って店にもしょっちゅう顔を出すのかい?
>熊:ああ。半次なんかよりよっぽど行ってるよ。お前ぇさんがお町ちゃんにぞっこんだってのも聞いてる。
>竜:そ、そんなことまで知ってるのか? 参ったね、こりゃ。・・・で? どうなんだい?
>熊:どうって?
>竜:お町ちゃんは心に決めた相手がいるのかどうかってことよ。
>熊:さあな。今のところはまだいねえようだがな。午(うま)之助父(とっ)つぁんには、なんか考えがあるようだがな。
>竜:その「午之助」ってのがお町ちゃんのお父つぁんの名かい?
>熊:そうだよ。酒もやらねえ一徹者(いってつもん)だ。
>竜:そうかい。後で何かと教えて呉れよな。
>熊:それが人にものを頼む言い方か?
>竜:あ、そうか。大工の親方だったな。済まねえ済まねえ。・・・お、おたの申します。
>熊:また変な野郎が越してくるもんだな。大丈夫かよ。

話し込んでいても仕方ないと、荷を積み始めた。
熊五郎のところより仕事の道具がある分、ほんの少し余計に掛かったが、それにしたってたいした量ではない。

>熊:よしと。これで終わりだな? さ、行くとするか。
>竜:ちょっと待って呉れよ。ちょいと連(つ)れに声を掛けてくるからよ。
>熊:別れの挨拶(あいさつ)か?
>竜:そうじゃねえよ。一緒に住むのさ。
>熊:そ、それってのは、もしかして飾り職の「秀」って奴のことか?
>竜:おや、そこまで知ってるのかい? そりゃ話が早いや。もう荷を積み込んで待ってるっていうからよ。
>熊:お前ぇたち、殴(なぐ)り合いの喧嘩(けんか)までしたんじゃねえのか?
>竜:そいつは順番を決めようってだけの話さ。何も喧嘩別れした訳じゃねえ。
>熊:それにしたって、何も一緒に住むことはねえんじゃねえのか?
>竜:誰かがおん出ていくまでのことよ。ずうっと一緒にいようって訳じゃねえさ。それによ、店賃(たなちん)が半分で済むだろ? 助かるんだよな。あっちはおいらより幾らか実入りが良いようだしよ。
>熊:恋敵(こいがたき)だってのに、一緒に住むってのは、おいらにゃどうしても解(げ)せねえがな。
>竜:良いじゃねえか。どっちが取っても恨(うら)みっこなし。そういう間柄(あいだがら)なの。

>熊:・・・あーあ。また、面倒(めんどう)なことになりやがったな。
>竜:あんたらは出てっちまうんだからどうでも良いことだろう?
>熊:それがそうでもねえのさ。こいつら2人も今日っから住むことになってるし、それよりも何よりも、極め付きの野郎が残っていやがるからな。
>竜:そいつはどういう奴だい?
>熊:おいらと一緒に大工になった奴だよ。八兵衛っていう。
>竜:そのお人も、あんたみたいに真面目一本みてえなのかい?
>熊:とんでもねえ。2言(ふたこと)3言話しゃ直ぐに分かる。途轍(とてつ)もな能天気(のうてんき)な野郎だ。
>竜:なんだ。そんなら良いじゃねえか。楽しそうだしよ。
>熊:ま、楽しみにしとくんだな。お町ちゃんのことばっかり考えてて、浮かれるのも分かるんだが、好いことばっかりじゃねえんだからな。
>竜:半次だっていることだし、そんなの、なんてことねえって。
>熊:まあ、今のうちは喜んでるが良いさ。・・・ああ、それと、引越し蕎麦(そば)は家(うち)の方で用意してあるから、そいつに相乗りしちまって良いからな。
>竜:ほんとかい? こいつは助かるな。なんだか明るい前途(ぜんと)が開けてきたみてえだな、こりゃ。
>熊:こっちは、心配の種がまた1つ増えて、頭が痛(いて)えよ。
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