289.【た】 『他人(たにん)の疝気(せんき)を頭痛(ずつう)に病(や)む』 (2005.06.20)
『他人の疝気を頭痛に病む』
自分に直接には関係のないことに、余計な心配をすること。
参考:疝気(せんき) 漢方で疝は痛の意で、主として下腹痛をいう。疝病。あたばら。せん。
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2日後。やはり雨に降り籠(こ)められていた源五郎たちの元へ、甚兵衛が訪(たず)ねてきた。
万吉と千吉に道具の手入れの仕方を教えていた熊五郎が居間に呼ばれた。

>甚:おお、熊さんも来ていましたか。喜んでください。良さそうな家(うち)が見付かりました。
>熊:ほんとですかい? で、どこなんですか?
>甚:ちょっと遠いですが、左門町(さもんちょう)の方です。
>熊:なんですって? そりゃあ、幾らなんでも遠過ぎますぜ。市谷(いちがやの)の八幡様より向こうなんですぜ。
>甚:なあに、ここからは遠いですが、それがどうだと言うんです。一家を立てる訳ですから。そんなことは一向に構わないでしょう?
>熊:そうは仰(おっしゃ)いますが、暫(しばら)くは親方の下請(したう)けでもしてねえと、食っていけねえんですぜ。
>甚:それはそうかも知れませんが、それにしたってほんの1年くらいのものでしょう? 直(す)ぐにどうでも良くなりますって。
>熊:どうでも良くはねえですよ。何かと、近い方が良いに決まってんじゃねえですか。ねえ親方?
>源:うん。まあ、そうなんだよな。
>甚:源五郎、お前までそんなことを言っているのかい? そんな風じゃ、いつまで経(た)っても親離れできない甘ったれになってしまうんじゃないのかい?
>源:そんなことはねえんじゃねえですか?
>甚:甘い。そこがお前の甘さだというんです。弟子は突き放して育てるものです。
>源:そういうのもあるんでしょうが、あっしにはどうも、性(しょう)に合わねえんです。
>甚:確か、源蔵もそんなことを言ってましたよ。・・・まあ、全部が全部駄目だとは言いませんがね。・・・でも、今度の家のことは、何がなんでも承知して貰いますよ。
>源:どうしてそこまで拘(こだわ)るんでやすか?
>甚:小森幻祥(げんしょう)先生が言うことなし太鼓判を捺(お)してくだすったんです。
>源:それだけですかい?
>甚:そうですよ。余計な池はないし、西側に栗の木が植わっているのが良いそうですよ。

>熊:・・・あの、おいら、そんな験(げん)担ぎなんかしねえですけど。
>甚:住む者がどうということではないんですよ。家の相(そう)なんですから。
>源:本当にそんなので変わるもんですかねえ?
>甚:馬鹿にしたものでもないんですよ。現に、床(とこ)の間の壷(つぼ)の色1つでお店(たな)を潰(つぶ)してしまったところもあるくらいですから。
>熊:ほんとですかい?
>甚:いえ。まあ、小森先生の受け売りなんですがね。
>源:甚兵衛父つぁん、俺には、池や木や、況(ま)してや壷なんかで、人の住み心地が変わるとは思えねえんですがね。
>甚:「住み心地」などという生易(なまやさ)しいものではありません。商売の繁盛や、下手(へた)すると、家人の生き死ににまで関わってくるかも知れないんですよ。
>源:そりゃ、幾らなんでも・・・
>甚:舐(な)めて掛かってはいけません。・・・「転ばぬ先の杖(つえ)」と言うではありませんか。あたしはね、可愛い熊さんやお咲ちゃんに、痛い目に遭って貰いたくないんです。
>源:そりゃ俺だって、こいつらに良かれってことをしてやりてえと思ってますよ。
>甚:それなら、何一つ逆らう訳などないじゃないか。
>源:逆らってるんじゃねえんですよ。先の先ばっかり気にしてたって、仕方ねえでしょうって言ってるんです。
>甚:源五郎。お前には親心ってものがないのかえ?
>源:そういうことじゃねえですって。・・・なんだ、その八卦見(はっけみ)ってのが、なんだか胡散臭(うさんくさ)いって言ってるんです。
>甚:お、お前はなんということを言うんだい。そんな、大(だい)それたことを言うもんじゃない。罰(ばち)が当たったらどうするんですか。

結局、甚兵衛は後へは引かず、「左門町の家には、手付けを打っておくからね」と言い置いて帰っていった。

>熊:なんだか妙なことになってきましたねえ?
>源:年寄りの好意を無にするのもなあ・・・
>熊:でもね、おいら思ったんですが、池が駄目ってんなら埋めりゃ良いし、栗の木が良いってんなら植えりゃ良いじゃねえですか。前に言ってた家でもおんなじなんじゃねえんですかい?
>源:そうだよな。なんだか妙だよな? ・・・そっちなら、こっからも近いし、それこそ言うことなしだったんだけどな。
>熊:その家ってのはどこなんですかい?
>源:毘沙門(びしゃもん)の裏手だ。
>熊:そりゃあ、今の長屋からじゃ目と鼻の先ってことじゃねえですか。そんな家があるなんて知りませんでしたよ。
>源:まあ、ちょいと引っ込んでるからな。俺も見てきたが、ちょいと手直しすりゃ立派な大工の家になる。止(や)めちまうにゃ惜(お)しいようなとこだな。
>熊:おいら、そっちの方が良いって掛け合ってきますよ。
>源:まあ待て。今の爺さんにゃ何を言っても無駄だ。それより・・・
>熊:その小森なんとかって八卦見を調べろってことでやすね?
>源:ああ。お咲ちゃんと2人で調べてみろ。
>熊:へい。やってみます。
>源:雨っ降りだったら、五六蔵たちを使っても良いぜ。
>熊:へい。有難う御座います。・・・でも、折角(せっかく)ですから、万吉と千吉を働かせてみようかと思います。なんか1つでも手柄(てがら)を立てさせてやりゃ、それだけ馴染(なじ)むのも早くなりますんで。
>源:そうか。それも良かろう。

熊五郎は、万吉と千吉を連れて長屋へ戻った。

>熊:六さん、ちょいと邪魔しても良いかい?
>六:おお。熊さんか。どうした? 親方からお許しが出て、祝言(しゅうげん)のことでも話に来たのか?
>熊:そういうのとはちょいと違うんだが、お咲坊を2・3日借りても良いかい?
>六:貸すの貸さないのではあるまい。こっちはもう呉れてやったと思っているのだからな。
>咲:父上。あたしのこと子猫かなんかみたいに言わないでよね。
>六:子猫の方が、まだ懐(なつ)くものだろうよ。まったくな。良くもまあ跳ねっ返りに育って呉れたものだよ。
>咲:はいはい。勿体(もったい)ないお言葉、痛み入ります。・・・で? なんかあったの?
>熊:今から話すよ。上がって良いかい?
>咲:どうぞ。・・・あら、万ちゃんと千ちゃんも連れてきたの?
>万:お邪魔します、姉(ねえ)さん。
>咲:まあ、可愛い。ちゃんと躾(しつ)けた通りにできたのね?
>熊:そんなこと、一々喜ぶなってんだ。

お咲と六之進に、甚兵衛と小森幻祥について、手短に話して聞かせた。
万吉と千吉も、興味津々といった顔で聞き入っている。

>咲:ええっ? お屋敷を貰えるの? ほんと?
>熊:お屋敷なんて立派なもんの筈がねえじゃねえか。ちょっとばかし広い土間があるってだけの一軒家だよ。
>咲:それにしたって凄(すご)いじゃない。それで? 父上もそこに住んで良いの?
>熊:当たり前じゃねえか。親子なんだからよ。
>六:実(まこと)か? もう、店賃(たなちん)のために傘貼りをせんでも良くなるのか?
>熊:そうだよ、六さん。手習い所でも万(よろず)相談でも、好きなことをやりゃあ良い。
>六:ゆ、夢のようだぞ、熊さん。
>熊:但(ただ)し、当分は楽隠居なんかさせられねえぜ。こいつらがどうにか使えるようになるまでにゃ月日が掛かる。
>六:そんなもの、これまでの苦節に比べれば、物の数ではない。
>熊:おいらも、情に厚い親方に付いて良かったと思ってるよ。
>咲:あたしのお陰でもあるわよね。
>熊:まあ、それもあるんだろうな。姐(あね)さんの計らいでもあるんだろうし。
>六:あやさん様様だな。

>熊:それはさて置きだ。大家(おおや)の爺さんのことなんだが、親方は、どうも騙(だま)されてるんじゃないかって心配していなさるんだ。
>咲:他のことなら、人のことだって目を瞑(つぶ)っちゃうとこなんだけど、あたしたちの家が絡(から)んでるとなっちゃ、知らん振りもしていられないわね。
>六:一肌(ひとはだ)脱いであげなさい。誰がどう見たって良いように丸め込まれているようだ。
>咲:そう来なくっちゃ。・・・ようし、さて、どこから調べ始めようかしら?
>熊:その八卦見の評判を聞いて回ろうじゃねえか。
>咲:なんて名前だって?
>熊:小森幻祥とかって言うらしい。御影石(みかげいし)の招き猫ってのからして怪(あや)しいよな?
>咲:それじゃ、こうしましょ。熊さんは万ちゃんを連れて招き猫の出所(でどころ)を聞いて回って。あたしと千ちゃんで評判を聞いて回るわ。
>熊:それは良いが、八卦見に付いちゃ、名前以外なんにも分かってねえんだぜ。
>咲:このあたしを誰だと思ってるの? 下っ引きお咲さんよ。
>熊:なんだか、八の野郎みてえな言いようだぞ。
>咲:あらそう? うつっちゃったかな? ・・・ねえ、でもさ、「餅は餅屋」って言うでしょ? 伝六さんに聞けばなんか知ってると思うのよね。
>熊:そうか、その手があったか。・・・そんじゃおいらは、甚兵衛爺さんのとこに行って、招き猫を拝(おが)ませて貰ってくるとするぜ。

>六:わ、儂(わし)は何をすれば良い?
>熊:六さんはなんにもしなくたって良いよ。こういうことは慣れてるおいらたちがやるから。
>六:しかし、儂とて甚兵衛さんにはそれ相応の恩義がある訳だし・・・
>咲:父上は、下手(へた)に動くと目立っちゃってしょうがないの。じっとしてて貰った方が何かと有り難いって訳。ここで、大人しくしてて。
>六:しかしそれでは、気を揉(も)んでしまって敵(かな)わん。
>熊:それじゃあこうしよう。何か分かったことがあったら報(しら)せに来るから、おいらの方とお咲坊の方を纏(まと)めて貰って、どうしたら良いか考えてて呉れ。ものを考えてりゃ、気を揉んでる暇もなくなるぜ。
>六:良く言って呉れた。一番肝要(かんよう)な仕事であるな? ようし。遣る気が起こってきたぞ。
>咲:父上も八つぁんの軽さがうつっちゃったみたいよ。
>六:何を言うか。そのようなことは断じて無い。冗談にも程があるぞ。

万吉と千吉には、熊五郎たちの顔がこれまでになく輝いているように見えた。
こういう一面もあるのだと知るにつけ、また一歩近くへ寄ったのだということを、気付かないまでも、感じ取っていた。
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