282.【た】 『蛇足(だそく・じゃそく)』 (2005.05.02)
『蛇足』 ★「だ」は「蛇」の慣用音。
1.蛇(へび)の足。「じゃそく」とも。
2.あっても益がない余計なもの。なくても良い無駄(むだ)なもの。
3.自分の付け足しの言葉を遜(へりくだ)って言う言葉。 例:「蛇足ながら申し添えます」
故事:戦国策−斉策・上・閔王」「一人蛇先成、引酒且飲、乃左手持巵、右手画地曰、吾能為之足」 蛇の絵を描く競争で、早く描き終わった者が時間が余ったので、足を付けたら、それは蛇にあらずとして負けた。
*********

熊五郎とお咲の、飯事(ままごと)みたいな暮らしが始まった。
頑(がん)として断(ことわ)るものと思われていた六之進も、「人助けということなら」と、殊(こと)の外(ほか)あっさりと許可を出した。
勿論(もちろん)、「信じておるからな」と付け足した上で、である。

>咲:父上ったら、どういうつもりなのかしら?
>熊:おいらに聞くなって。
>咲:「お礼」って言う言葉に目が眩(くら)んだのかな?
>熊:六さんに限ってそんなことはねえだろう。・・・大方、大家(おおや)の爺さんからなんか吹き込まれたに違いねえ。
>咲:冗談じゃないわよ。店賃(たなちん)だってちゃんと払(はら)ってるのよ。大家さんにとやかく言われる筋合いはないわ。
>熊:それじゃあ、うちの姐(あね)さんってことか? そんなことするかな?
>咲:しないわよ、あやさんは。あたしを追い立てたりはしない。・・・きっと、お夏ちゃんの文(ふみ)を読んで貰って、思うところがあったんじゃないの? あたしもそういう年になったってことに、遅(おく)れ馳(ば)せなが気が付いたって訳。
>熊:そりゃあ、なんだ? おいらとのことを許してやっても良いってことか?
>咲:そうかもね。・・・それなら、良いんだけどね。でも、やっぱり、ちゃんと当人に聞かないことにはね。
>熊:そうだな。こっちの思い込みだけで、良い方にばっかり考えてたら、痛い目に遭(あ)う
>咲:まあ、なんにせよ、頼まれたことだけはきっちりこなさないとね。

>熊:角之進さんのことか? 結構難しいぞ。見たろう、あのいちゃいちゃした2人のこと?
>咲:他のことはなんにも目に入らないって感じだもんね。
>熊:そんなのにどうやって手本を示せるってんだ?
>咲:まあ、今更(いまさら)取り繕(つくろ)ったって仕方ないじゃない?
>熊:そりゃあそうだ。そりゃそうだがよ、なんかは仕掛けなきゃいけねえんじゃねえか?
>咲:それじゃ、明日、筍(たけのこ)の煮染(にし)めを作るから、お裾分けがてら話しに行ってみましょう。
>熊:そうだな。それじゃあ、こっちへ届けるようにって、朝のうちに与太郎に頼んどくとするよ。
>咲:こんな調子じゃ、暫(しばら)く「だるま」へも行ってられないわね。
>熊:かと言って、ずっと行かねえって訳にもいかねえよな。変に勘繰(かんぐ)られちまう。
>咲:良いんじゃないの? 勘繰りたい人たちには勘繰らせておけば。
>熊:そんなこと言ったって、言われるのはお咲坊の方なんだぜ。
>咲:良いわよ。別に後ろめたいことをしてる訳じゃないもの。
>熊:なんだか捌(さば)けちまってるんだな。
>咲:折角(せっかく)こんな良い離れに住まわせて呉れてるんじゃない。有り難く良い思いをさせて貰いましょうよ。

その頃、八兵衛たちは「だるま」にいて、いつものように酒を酌(く)み交わしていた。
案の定、八兵衛は興味津々である。

>八:よう、三吉。お前ぇ、どんな風か見に行きたくねえか?
>三:おいらがですかい? そんな助兵衛根性丸出しの真似(まね)なんかできませんよ。
>八:お前ぇは見たくならねえのか?
>三:そりゃあ、どっちかってえと見てみたいですよ。でも、そりゃあ、覗(のぞ)きですよ。見付かったらお縄になっちゃうじゃないですか。
>八:大丈夫だって。仲間なんだからよ。
>三:仲間なんだったら、反対に、遠くから見守ってやるもんでしょう? そっとしといてやるのが友達甲斐(がい)って奴だと思いますよ。
>八:お前ぇから説教臭(くせ)えこと言われると、調子が狂っちまうぜ。
>五六:そのうち、熊兄いの方からなんか言って来ますって。それまで待ちましょうや。
>四:そうですよ。あんまりお咲ちゃんのことをあれこれ言わない方が良いですよ。後が怖いですから。
>八:そうか? ・・・でもよ、ここに熊の野郎がいねえと、なんだか調子が出ねえんだよな。
>三:こういうのに慣れとくってのも良いんじゃないですか?
>八:どうしてだ?
>三:だって、やがては熊兄いも八兄いも一本立ちして、それぞれ別々の親方になる訳でしょう?
>八:まあ、おいらはそうなるだろうが、熊の奴はどうかな?
>五六:八兄いも熊兄いも、甲乙付け難いくらいご立派な親方になると思いやすが、あっしが弟子に付くとしたら、やっぱり熊兄いの方が安心でやすかねえ。
>八:なんだと手前ぇ。そりゃあどういうこった?
>五六:あ、いや、その。こりゃあ言わなくても良いことを言っちまいやした。あっしらは最後まで源五郎親方の弟子でやすから、どっちに付くとかそういうことじゃなかったですね。聞き流しといてくださいやし。
>八:一遍(いっぺん)聞いちまったもんを忘れられるかってんだ。

そんな頃、熊五郎たちの隣の部屋の角之進とお円は、豪勢な料理を並べて酒を差(さ)しつ差されつしていた。
角之進が楊枝(ようじ)削(けず)りしかしていないというのに、好い気なものである。
こんな暮らし振りをしていたら、三月(みつき)としないうちに干上がってしまう。
一方、質素(しっそ)な夕餉(ゆうげ)を済ませた熊五郎たちは、さてこのまま並べた布団で寝て良いものかどうかと、迷っていた。
やはり酒でも飲まないことには眠れそうにないと、熊五郎が考えたところに、お円が襖(ふすま)を叩いた。

>円:ちょっとだけ飲まない? 角之進様ったら、あんまりお強い方(ほう)じゃないみたいなの。ちょっとばかし余分に買っちゃったみたい。余らせちゃうのも勿体(もったい)ないから、飲むのを手伝ってよ。お摘(つま)みもまだたくさん残ってるから。
>咲:お円さんも結構酔っちゃってるみたい。どうする?
>熊:まあ、様子を見るってことになるから、行ってみるとするか。
>咲:そうね。そういうことなら。・・・はーい。それじゃあ、お邪魔しまーす。
>円:今、何かぼそぼそ言ってなかった?
>熊:い、いや、もう寝る刻限だってのに邪魔になったりしやしねえかと思いやしてね。
>円:お隣(となり)さんじゃない。そんなの気にしなくったって良いのよ。こっちとしたって、お2人の仲の好いところを、とっくりと見させて貰わなきゃならないんだもんね。ねえ、角之進様?
>角:あ、ああ。・・・しかし、2人がそういう間柄というのは気が付きませんでしたな。
>咲:そんなこと、こっちから言うようなことじゃないですから。
>円:まあ、奥床(おくゆか)しいのね。そういうところは、あたしも真似しなきゃいけないのよね? 角之進様、あたし、頑張っちゃうからね。
>角:そうだな。但馬(たじま)屋さんから認められるようになるには、そういうことから始めねばな。
>熊:真似るとか、そういうことが大事(だいじ)なんじゃねえですよ、角之進さん。
>円:どういうこと? お父つぁんは、真似しなさいって言ってたじゃない?
>熊:「足(た)し」にしろとは仰(おっしゃ)いましたが、「真似をしろ」とは言ってねえですぜ。
>円:だって、真似するのが一番簡単なことじゃない。
>熊:簡単なことが良いことだとは、おいらは思いませんよ。

>円:なによ。随分偉(えら)そうに言うじゃない?
>角:これ、そう突っ掛かるものではない。お二方(ふたかた)には、無理を言って付き合って貰っているのだから、こちらは遜(へりくだ)って教えを請(こ)わねばならない。
>円:そういうもんかな? でも、角之進様がそう言うんなら、もうちょっと頑張っちゃう。・・・それで? それじゃあ、何から始めれば良いのかしら?
>熊:そうでやすね。先(ま)ず、角之進さんの稼(かせ)ぎに見合う暮らしをしなきゃなりません。
>円:ええっ? だって、うちにはたくさんのお銭(ぜぜ)があるのよ。なにも貧乏(びんぼう)臭くすることないじゃない。
>熊:それじゃあ、角之進さんがお店(たな)を継(つ)ぐ頃には、蓄(たくわ)えが底を突いちまいます。そうなったら、番頭さんや手代さんたちから見捨てられちまいますよ。
>円:そうなの? うちの蔵が底を突くなんてこと考えられないけどな。
>熊:そりゃそうなのかも知れやせん。でも、額(ひたい)に汗して稼いだ銭を、お2人が湯水のように使っていたんじゃ、働くもんの反感を買い兼ねねえ。そうなったら、真面目(まじめ)な雇(やと)い人だって遣る気を失くします。
>円:ふうん。そういうもん?
>角:熊五郎さんの言う通りかも知れないね。
>円:角之進様はそう思うの? それなら、あたし、もうちょっと考えるわ。
>角:そして、わたしはやはり、実入りの良い職を探さねばならないということか。
>熊:そうでやすね。贅沢(ぜいたく)に慣れちまったお円さんを養(やしな)ってかなきゃならねえってことは、生半(なまなか)な職じゃ駄目かも知れませんね。性根(しょうね)を据えて掛からねえと。
>角:但馬屋さんの言いたかったことというのは、そういうことなんであろうか?
>熊:恐らく、そういうことでやしょう。それも、角之進さんが養うという形じゃないといけないんじゃねえかと思いますぜ。但馬屋さん以外のお店で丁稚(でっち)から始めるって気は起きやせんか?
>角:但馬屋以外でか・・・
>円:話を聞いてると、なんだか、あたしが角之進様の足を引っ張ってるみたいじゃない。
>熊:・・・あの、これば余計な差し出口かも知れやせんが、正(まさ)しく、そういうことなんじゃねえかと思いますぜ。

まるで、浮かれた2人に冷水を掛けてしまったようだった。
出過ぎたことを言ってしまったような気になり、熊五郎とお咲は酒にも手を付けず、隣の部屋に戻ってきた。

>熊:余計なことを言っちまったかな?
>咲:良いんじゃない? 人の質(たち)なんてもんは、あのくらいで直りゃしないものよ。おんなじことを3回も4回も言ってあげるのが親切ってもんかも知れないわね、この場合。
>熊:あんまり諄(くど)いのもなぁ。
>咲:正しいことを言ってあげてれば、きっと分かって呉れるわよ。
>熊:そうかな。
>咲:そうよ。そうでなかったら、いつまで経(た)ってもあたしたちはここに住まなきゃならない。あたしはそれでも良いんだけど。 >熊:そんなにいつまでもこんなこと続けてられるかってんだ。
>咲:そうよね。あたしだって、いつまで道理を保ってられるか分かんないもんね。
>熊:よ、止(よ)せったら。
>咲:だって、もしも今のあたしが熊さんに襲(おそ)い掛かられたら、きっと逆らえないもの。
>熊:馬鹿なことを言うなってんだ。
>咲:馬鹿なことでもなんでも、そうなんだもの仕方がないわよ。・・・きっと、お夏ちゃんが情に絆(ほだ)されたってのも、こんな感じだったのかもね。

>熊:お夏坊とのことは、鴨太郎の我慢(がまん)の勝ちだと思うけどな。
>咲:それもあるかな。・・・じゃあ、熊さんも鴨太郎さんに負けないくらい我慢してみて。
>熊:お前ぇなあ、さっき言ってたのと全く反対のことを言ってねえか?
>咲:良いじゃない。女子(おなご)のお頭(つむ)の中は、自分でも分かんなくなるくらい面倒なものなの。今は、あたしのために我慢してて呉れるってだけで、満足なの。一々全部を真(ま)に受けてたら命がいくつあっても足りないわよ。
>熊:だったら、頼むから、全部なんか言わねえで呉れよ。
>咲:そんなこと頼むのがそもそもの間違いなの。それこそ無理な相談って奴よ。
>熊:男はそれに、一生踊(おど)らされ続けなきゃならねえって寸法か?
>咲:何言ってるのよ。それを上手(うま)い具合いに受け入れるのが殿御の度量(どりょう)ってもんじゃないの。
>熊:へん。こちとら一介(いっかい)の大工だってんだ。大工にそんな度量なんか無用の長物よ。
>咲:そんなことないわよ。やがて親方になるんだからね。そしてあたしは若女将(わかおかみ)。それだったら悪くないわ。じゃ、寝るわね。お休みなさい。・・・あ、それから序(つい)でに言っとくけど、筍のことを与太ちゃんに頼んどくの忘れないでね。
(第32章の完・つづく)−−−≪HOME