275.【た】 『宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れ』 (2005.03.14)
『宝の持ち腐れ』[=持ち腐らかし]
役に立つ物を持ちながら利用しないこと。また、優れた才能がありながら発揮しないこと。
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熊五郎が六之進とお咲を伴(ともな)って「だるま」に到着したとき、八兵衛たちは菜の花のお浸(ひた)しをつまみに、ちびちびと酒を飲んでいた。

>熊:あれ? 親方も姐(あね)さんも来てねえのか?
>八:姐さんのとこにも届いてたんだとよ、文(ふみ)が。
>熊:なんだそうだったのか。
>咲:え、そうなの? あたしのとこには来てないわよ。お夏ちゃんったらどうしちゃったのかしら?
>八:女同士の付き合いなんてものはそんなもんなのさ。
>咲:そんな筈(はず)ないって。遅れてるんだわ。明日か明後日には着くわよ、きっと。
>八:どうだかな。
>咲:来るに決まってるって。
>八:でもよ、中身は今夜鹿の字から聞いちまうんだから、もう要(い)らねえんじゃねえの?
>咲:それでも欲しいの。肝心なのは、あたしのこと大切の思ってるかどうかってことなんだからね。
>八:だから、もう大事じゃないんだって。
>咲:八つぁんの意地悪。
>八:なあお咲坊、お夏ちゃんのことなんかさっさと忘れて、熊とでも一緒になっちまえ。
>六:な、なんと。そのような話は聞いておらぬぞ。
>八:遅かれ早かれでしょう?
>咲:勝手に決めないで。あたしにだって考えってもんがあるんだから。
>八:ほう。どういう考えだか、とっくりと聞かせて貰いてえもんだな。
>六:そのようなことは親である私とだけ話せば良い。
>八:そりゃあねえよ、六さん。おいらにも聞かせて呉れよ。なあ熊、聞きてえよな?

>熊:そんなことはどうでも良いって。それよりよ、随分としみったれた飲み方をしてるじゃねえか。どうしたんだ、親方からの飲み代(しろ)は?
>八:お、話を逸(そ)らしやがったな?
>熊:良いじゃねえかよ。
>八:まあ良いや。・・・親方も人が悪くなったもんだよな。おいらの下心見え透いてるってんで、渡しちゃ呉れなかった。
>熊:それだけ、お前ぇのお頭(つむ)の中がすかすかだってことだろう。
>八:何をぅ?

>五六:ま、ま。そのくらいにしといてくださいよ。折角(せっかく)お夏さんの便りが聞けるってんでやすから。
>三:そうですよ、八兄い。もっとこう、色々食いもんを並べて、面白おかしく待つってことにしましょうよ。
>八:ん? そうか? まあ、割り勘で良いってんならおいらはそれでも構(かま)わねえぞ。
>熊:お前ぇが呼び出した分は面倒を見ろよ。
>八:なんだと? 全部おいらに出させようってのか? まあ、六さんの分は仕方がねえとして、お咲坊の分くらいお前ぇが持てよな。
>熊:お前ぇなあ。どうせ出すんだったら、2人分も3人分も変わらねえだろ?
>八:頼むよ、熊。仲間じゃねえか。
>熊:まったく、都合(つごう)の良いときだけ仲間呼ばわりしやがって。
>六:じ、自分たちの飲食代くらい、こ、こっちでなんとでもするぞ。
>八:傘貼りなんかしてる貧乏浪人に出させられるかってんだ。
>六:「浪人」はその通りだから仕方がないとして、「貧乏」とは聞き捨てにできぬぞ。
>八:だってその通りなんだろ? 無理しなさんなって。腰のもんだって、疾(と)っくの昔っから竹光(たけみつ)になってんだろ?
>六:い、いや、それはだな。太平のご時勢に刃物などは無用の長物ゆえ、預けてあるだけのことだ。仕官が叶(かな)うとなればいつでも請(う)け出す用意はあるのだ。
>八:ほんとかい? 怪(あや)しいな。
>六:まあ良いではないか。まあ、今日のところは、八つぁんの顔を立てて、ご馳走(ちそう)になることと致(いた)そうか。
>八:端(はな)っからそう言えば良いじゃねえか。まあ、武士には武士の面目(めんぼく)ってのがあるんだろうけどな。
>六:それを知っているんなら、八つぁんこそ、最初から触れないでおいて貰いたかったな。
>八:そうだったな。済まねえ済まねえ。親方があんまりにも冷てえもんだから、憂(う)さ晴らしをしたかったんだな、きっと。

「もうこうなったらどうとでもなれ」と、半(なか)ば自棄(やけ)になった八兵衛が6種類の肴(さかな)と銚子を6本頼んだ。
やがて店も混み始め、お花とお町では手が足りなくなってくると、お咲がひょっと立ち上がって、洗い物を手伝ったりしていた。
六之進の顔に赤みが差し始め、八兵衛の機嫌(きげん)が急上昇し始めた頃に、鹿之助が現れた。

>鹿:やあ済まん済まん。すっかり遅くなってしまった。
>熊:なにも、ここじゃなくても良かったんじゃねえのか?
>鹿:いや、夏に縁(ゆかり)のあるここが良いのだ。・・・と、おお、六之進殿まで来られていましたか。
>六:久し振りで御座る、栗林殿。お父上はご健勝(けんしょう)か?
>鹿:はい。少々足腰が弱ってはおりますが、「孫を抱くまでは死ねぬ」などと、遠回しに嫌味(いやみ)を言っております。
>六:そうですか、孫ですか。そうですな。目に入れても痛くないと申しますからな。
>鹿:まあ、こればかりは授(さず)かりものです故(ゆえ)、無理に急(せ)かすなと言っていたのですが・・・
>六:「ですが」と言われると、もしや、授かりましたか?
>鹿:あ、いえ、私たちのところではありませんが、まあ、なんです、それにつきましては、これから話します。
>八:やい、鹿の字。どうでも良いから、後回しとか、お預けってのはもう好い加減に止(や)めて呉れよ。
>鹿:そうでしたな。では、早速(さっそく)本題に入りましょうか。
>熊:まあそれほど急ぐなって。久し振りに会ったんだ。2・3杯飲んでからでも良いだろう?
>鹿:熊ちゃんも知っているであろう。私は不調法(ぶちょうほう)で・・・
>熊:六さんだって、お前ぇに負けず劣らずの不調法だぞ。
>六:なにを申すか。以前から比べれば、格段の上達ではないか。今ではもうすっかり一端(いっぱし)になっておる。
>熊:どうだか。
>咲:父上。もうそれくらいにしといてよね。酔い潰(つぶ)れた親の姿なんてあんまり見たいもんじゃないからね。
>六:大丈夫だと申しておる。そうそう毎回毎回酔い潰れてなど・・・ひっく。
>咲:ほうら、もう危なっかしいじゃないの。水を貰ってくるから、暫(しばら)く水を飲んでなさい。

六之進がしゅんとなって水を舐(な)め始めたところで、鹿之助がお夏からの文を出して見せた。
武家の娘らしく達筆(たっぴつ)の仮名文字で書かれてあって、熊五郎や八兵衛には読めない。

>八:お夏ちゃんそんな字で書いてきちまったのか? そんな蚯蚓(みみず)みてえな字じゃ、読めやしねえじゃねえか。
>鹿:だから、読んで聞かせると言ったではないか。
>熊:姐さんのところへもそんなので書いてきてるのかな?
>咲:馬鹿ね。もっと読み易く書いてきてるに決まってるじゃない。去年、あやさんのところに届いたのを見せて貰ったもん。
>八:お咲坊んとこにはどっちなんだ?
>咲:蚯蚓がのたくったような方。
>八:へえ。お咲坊、こんなのが読めるのか? 凄(すげ)えな。
>咲:こう見えてもね、読み書きだけなら立派な武家の娘なの。
>六:「だけ」ということはなかろう。どこへ出しても恥ずかしくないくらいの学問は身に付けさせておる。
>咲:滅多(めった)に役に立たないけどね。
>六:それを言うなという。人生、どこでどう好転しないとも限らんのだからな。
>咲:無理無理。このまま一生こんな暮らしが続くのよ。
>六:寂しいことを言うな。私の微力が責められているようで敵(かな)わぬ。
>咲:別に嫌味で言ってる訳じゃないから安心して。感謝してるのよ、これでも。なんにも使えなくたって良いの。学問は楽しかったし。
>六:そうか。感謝して呉れるか。
>咲:勿論(もちろん)よ。学問所に行ってなかったら、お夏ちゃんとも会えなかったしね。本当に有り難う。

六之進は目を潤(うる)ませた。
年齢的に涙脆(なみだもろ)くなっていたからというのではない。軽い泣き上戸(じょうご)なのである。

>鹿:では、気を取り直して、夏の文をご披露(ひろう)するとしましょうか。
>八:待ってました。どーんと打(ぶ)ちかまして呉れよな。
>鹿:なにもそんなに構えずとも、それほど中身が多い訳ではないのです。読んで聞かせるほどのものでもないのです。
>八:なんでも良いから、すいっと本題に入って呉れよ。
>鹿:はいはい。・・・書いてあることは2つです。1つは、咲(さき)殿に謝(あやま)っておいて欲しいということ。
>咲:あたしに? どういうこと?
>鹿:敢(あ)えて文を出さなかったので、私からその訳を話しておいて欲しいということです。
>咲:じゃあ、ほんとにあたし宛てに出さなかったの?
>鹿:出し難(にく)かったのだそうです。
>咲:なによそれ。水臭いったらないわね。
>鹿:では、肝心のもう1つの方からお話しましょう。・・・実は、稚児(やや)ができたというのです。
>咲:誰に?
>鹿:夏にです。夏の終わり頃に生まれるのだそうです。
>咲:えーっ。
>八:ちょ、ちょ、ちょっと待って呉れよ、鹿の字。そりゃあ、なんかの間違いじゃねえのか?
>熊:だってよ、「あたしは医術と添い遂げるのよ」なんてこと言ってたんじゃなかったか?
>鹿:その医術の師から言われたのだそうです。「自分で命を作り出しもしないで、人の命をどうこうしようというなどおこがましいとは思わぬかね?」とね。
>熊:そんなことを言われたからって、はいそうですかって稚児を作るか?
>鹿:「どんなに覚えが良くても、命の大切さを知らなければ良い医者とは呼べぬ」と言われたそうなんです。「そういう者に医術を教えても、無駄になるだけだ」ともね。
>熊:成る程(なるほど)ねえ。ちょいと言い過ぎだけどな。
>鹿:ちょっと窘(たしな)めるために言っただけなのでしょう。・・・勿論、直接の原因は別にあります。夏が長崎に着いて直(す)ぐの頃のことです。あまり根を詰め過ぎて10日ほど寝込んだことがあったのだそうです。医者の不養生(ふようじょう)というのでしょうか、まったく、人には話し難(にく)いことです。その折に、手厚い看病でもされたのでしょう。・・・言い訳のように一言、「つい、情に絆(ほだ)されてしまった」などと書いてありました。

>八:あ、相手は、相手は誰なんだ?
>鹿:桃山ですよ。他に誰がいますか?
>熊:鴨太郎か?
>八:鴨の字なのか?
>鹿:問題はないでしょう? 元々、許婚(いいなずけ)なのですから。
>八:あ、そうか。そう言や、そんな話もあったっけな。でも、それってのはずっと残ってたのかい?
>鹿:正式な断(こと)わりが来た訳ではありませんからね。・・・そんな事情なのです。咲殿、夏のことを許してやって貰えますか?
>咲:許すもなにも、お目出度(めでた)いことじゃない。あの意地っ張りが情に絆されたなんて、こんな痛快なことはないわ。
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