第32章「花娘お咲の揺れる思い(仮題)

274.【し】 『大欲(たいよく)は無欲(むよく)に似(に)たり』 (2005.03.07)
『大欲は無欲に似たり』
1.大きな望みを持つ者は、小さな利益に目もくれないから、外見は無欲のように見える。
2.欲の深い者は、欲のために却(かえ)って損をしがちで、結局は無欲の者と同じ結果になる。また、大欲を抱き目的を達成したとしても、その結果を有効に用いなければ、結果として小欲と同じであるということ。 類:●二兎を追う者は一兎をも得ず
出典:「徒然草−217」「究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり
*********

正月からのばたばたした1ヶ月間は、野暮用(やぼよう)に追われているうちに過ぎてしまった。
年が改(あらた)まってから一月も経(た)つと、いよいよ春めいてきて、そろそろ遊びにでも出掛けようかという気持ちが湧(わ)き上がってくる。

>八:なあ熊、なんにもしねえうちに2月になっちまったな。
>熊:そうだな。30を過ぎると坂道を転げるようだって言うもんな。
>八:このまんま転げてっちまったら、一体(いったい)どこまで下(くだ)ってっちまうんだろうな?
>熊:そんなの知るかってんだ。親方か棟梁にでも聞いてみろ。
>八:そうか? そんじゃ聞いてくっかな。
>熊:よ、止(よ)せってんだ。棟梁になんか聞いたら、「早く死ねってことか?」ってんで、怒鳴られるのが落ちだぞ。
>八:そんなことを聞こうとしてるんじゃねえぞ。
>熊:そうじゃなくたって、聞かれた方がそう思えば、そういうことになっちまうの。
>八:そうか? そんじゃ止しとくとするが、誰かおいらとおんなじことを考えてる奴はいねえかな?
>熊:鹿之助にでも聞いてみろ。あいつなら真剣に考えて呉れるだろうよ。
>八:成る程(なるほど)。そんじゃちょっくら行ってくるかな?
>熊:仕事中だぞ。
>八:良いってことよ。今日の分はあらかた片付いたし、残りのことは三吉でも四郎でも十分にこなせる。
>熊:そりゃそうだが、お前ぇ、また変な虫が騒(さわ)ぎ始めたのと違うのか?
>八:へへ。実はそれなのさ。こうなんにも起きねえと、気が塞(ふさ)いでくるってもんだよな。
>熊:変な騒ぎを起こしてくるんじゃねえぞ。
>八:おいらが起こすんじゃねえの。巻き込まれてくるのさ。・・・そんじゃな。後は任(まか)したぜ。
>熊:あーあ、ほんとに行っちまいやがった。年を取るとどうなるかなんてこと、今から考えてたって仕方ねえだろうってんだ。

走り去る八兵衛を見ていたのであろう、五六蔵が熊五郎に尋ねてきた。

>五六:八兄い、泡(あわ)食って走っていきやしたが、どこへ行ったんですかい?
>熊:ああ。別にどうってことはねえよ。鹿之助に聞きたいことがあるんだとよ。
>五六:なんだ、そんなことでやすか。あっしはまた、何か騒動でも持ち上がったのかと思いましたよ。
>熊:なんだ、お前ぇも八とおんなじか。
>五六:へっへ。悪い虫だってのは分かっちゃいるんですけどね。
>熊:まあ仕方ねえか。そういうおいらの方だって、暇にしてるよりは何かが起こった方が楽しいんだからな。
>五六:熊兄いがですかい?
>熊:なんだ? おいらがそう思っちゃいけねえってのか?
>五六:そういう意味じゃねえんですよ。どっちかってえと、度を越しそうな八兄いやあっしらを止める側に回っていなさることが多いから。
>熊:八だけだって。お前ぇらは、あれほど無茶なことはしねえからな。

>五六:それはそうと、八兄いは鹿之助さんに何を聞きに行ったんですかい?
>熊:おいらが「30を過ぎると年月が坂道を転げるように早くなる」って言ったら、「転がり落ちる先はどこなんだろう」なんてこと言い出しやがったのさ。
>五六:そりゃあ、死んじまうってことなんじゃねえですか?
>熊:まあ、簡単に言っちまえばそうなんだろうが、なんだか違う答えが欲しそうだったからよ。
>五六:それで鹿之助さんのとこに。そういうことでやすか。
>熊:鹿之助がどう答えるかなんて分かりゃしねえけどな。でも、それらしいことを教えて呉れそうだからな。
>五六:そんなことを考えたからって、どうなるもんでもねえんですけどね。
>熊:でもよ、普段(ふだん)からなんにも考えないで生きている八にしちゃ上出来だろ?
>五六:小難しい話を聞かされて、お頭(つむ)から煙を吹かなきゃ良いですけどね。
>熊:はっは。そうだな。鹿之助の話は回り諄(くど)いからな。

ところが、八兵衛が質問する前に、鹿之助の方から話を切り出された。

>鹿:なんだ、八つぁんじゃないですか。丁度良いところに来て呉れました。熊ちゃんは?
>八:熊の野郎は置いてきちまった。おいら1人だ。
>鹿:そうか。それなら、今夜にでも「だるま」に行きますよ。
>八:何も態々(わざわざ)来て貰わなくたって、すぐに済むからよ。
>鹿:こっちに用があるんだよ。実はね、夏から文(ふみ)が届いたのですよ。
>八:お夏ちゃんから文?
>鹿:程なく1年半になるんですねえ。
>八:ああそうか。もう1年半になるのか。30を超えると、月日の経つのは・・・
>鹿:ちょっと凄(すご)い内容ですから、皆さんが揃(そろ)っているときに読んで聞かせたいと思いましてね。
>八:それなら、先においらにだけ読んで聞かせて呉れない?
>鹿:駄目(だめ)ですよ。実に面白い内容ですからね。抜け駆けはいけません。
>八:そうなの? なんだ。そんなら後のお楽しみってことで。
>鹿:皆さんに集まっておいて貰ってくださいね。半時(=約1時間)ほどで行きますから。
>八:聞きたいことがあって来たんだが、そっちの方が面白そうだから、こっちの用はもうどうでも良いや。
>鹿:聞きたいこと?
>八:良いって良いって。あれもこれもじゃ申し訳ねえもんな。今度のお楽しみは1つだけにしといてやるよ。
>鹿:なんですか、それは?
>八:こっちの事情だから気にすんなって。そんじゃ、待ってるからな。
>鹿:お咲さんも必ず呼んでおいてくださいね。
>八:分かってるって。そんじゃな。

そんな訳で、八兵衛はすっ飛んで現場に戻ってきた。

>熊:早かったじゃねえか。懇切丁寧(こんせつていねい)に教えて貰ってきたんじゃねえのか?
>八:そんなことは後回し。それより熊、お前ぇ、お咲坊を呼びに行って呉れ。
>熊:なんだよ藪から棒に。
>八:文、文が来たんだよ。お夏ちゃんから。
>熊:なんだと? それで、なんだって?
>八:「ちょっと凄(すご)い内容」だから、この場じゃ教えねえってんだよ。
>熊:それじゃあ、みんながいるとこで読むってんだな?
>八:だから端(はな)からそう言ってんじゃねえか。とっととお咲坊を呼びに行って来い、この唐変木(とうへんぼく)。
>熊:そこまで言うことはねえだろ。・・・そんなに言うんだったら手前ぇが迎えに行きゃあ良いじゃねえか。
>八:おいらは親方と姐(あね)さんに報(しら)せるの。するってえと、親方が「今日の飲み代(しろ)は俺が持つ」なんて言って呉れるだろう? 酒は飲み放題(ほうだい)、お夏ちゃんの便(たよ)りも聞ける。こんな良いことはねえな。
>熊:どっちが大事(だいじ)なんだってんだ。
>八:そりゃあ両方に決まってんじゃねえか。ああ、お夏ちゃん、今頃どうしてるかな?

>熊:手前ぇは嫁のある身なんだぞ。鼻の下なんか伸ばしてやがると、お花ちゃんが焼き餅焼くじゃねえか。
>八:そんなことあるかってんだ。お花の奴はおいらのこと信じてるからな。うっしっし。
>熊:勝手に言ってやがれ。・・・そんじゃ、お花ちゃんにも、来るように言っとくからな。
>八:それは良いの。今日はもう出掛けてる頃だからな、「だるま」へ。
>熊:なんとまあ都合(つごう)良く。
>八:虫の知らせかな? 鼻が利くだろ?
>熊:大方、お前ぇが飲みに行きてえって強請(ねだ)ったんだろ?
>八:へへ。ばれたか。今日辺りはどうしても飲みたくってよ。筋書き通りだな。
>熊:一切合財(いっさいがっさい)がお前ぇの思い通りになるなんて思うなよ。世の中そんなに甘かねえぞ。
>八:そんなことあるかってんだ。付いてるやつにはとことん付きが付いて回るもんなの。・・・あ、そうだ。序(つい)でだ、六さんも引っ張ってきちまえ。
>熊:後で吠え面(ほえづら)掻いたって知らねえからな。

八兵衛が勇んで源五郎に言上(ごんじょう)すると、源五郎は驚いた風もなく「そうか。それじゃあ行ってこい」とだけ答えた。

>八:あ、あの、姐さんに報せなくても良いんですかい?
>源:そのことなら構わねえ。あいつんとこにも来てたようだからな。
>八:へ? するってえと、親方はもう文の中身をご存知なんで?
>源:まあな。
>八:そ、それでどうでやした? 凄い中身でしたかい?
>源:それを話しちまったら鹿之助さんの心遣(こころづか)いが無駄になっちまうだろ?
>八:親方までそんなことを言うんですかい? 寄って集(たか)っ気を揉(も)ませやすねえ。
>源:がっつくんじゃねえよ。文は逃げやしねえ。
>八:そんなこと言ったって、親方と姐さんと鹿の字の3人は先に知っちまってるんでしょう? 狡(ずる)いや。
>源:良いじゃねえか。別に損をしてるって訳じゃねえんだから。
>八:とんでもねえ。こっちは、半日分も1日分も損をしちまった気分ですよ。飲み代の算段も儘(まま)ならねえし。
>源:そいつは残念閔子騫(ざんねんびんしけん)。貴重(きちょう)な便りを読んで聞かせて貰えるってんなら、鹿之助さんに木戸銭(きどせん)でも払うくらいの気持ちで聞きやがれ。
>八:うへえ。酒を飲ませた上に木戸銭まで取られちゃ、なんのためにお咲坊や六さんまで呼び出したのか分かんないじゃねえですか。
つづく)−−−≪HOME