第31章「曲者厳ノ輔の野望(仮題)」

265.【た】 『大海(たいかい)は芥(あくた)を択(えら)ばず』
 (2005.01.05)
『大海は芥を択ばず』[=塵を〜]
大人物は度量が大きくて、分け隔てなく人を受け容れる。
類:●河海は細流を択ばず名人は人を謗らず
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夏も暑かったが、真冬になったのに、それほど寒くない。近来(きんらい)稀(まれ)に見る暖冬(だんとう)である。
暦(こよみ)は程なく「師走(しわす=現在の1月10日頃〜)」だというのに、ちっとも慌ただしくなってこない。
例の火事騒ぎが江戸まで飛び火してきているようだが、幸(さいわ)いにも死者は出ていなかった。
概(おおむ)ね安泰(あんたい)といえる日々である。

>八:材木の値が戻ったのは良いんだがよ、家(うち)を建てようって人がなくっちゃ話にならねえな。
>熊:困ったもんだよな。・・・考えてみりゃよ、あと半月もすりゃ年の瀬なんだよな。
>八:生きるか死ぬかの瀬戸際(せとぎわ)だってのに、家なんか建ててられるかって訳か?
>熊:全部が全部そうだって訳じゃねえだろうがよ。でもな、現(げん)にこの体(てい)たらくじゃ、そう思うしかねえだろう?
>八:どっかに好い鴨はいねえかねえ?
>熊:銭をくださる有り難いお客に向かって「好い鴨」はねえだろう。
>八:あ、そうか、それもそうだな。鴨よりも鶏(にわとり)の方が食うところはたくさんあるもんな。
>熊:何を惚(とぼ)けたこと言ってやがる。鴨でも鶏でも駄目だってんだ。
>八:そうか? でもよ、なんだかほんとに温(あった)かい鍋もんが食いたくなってきちまったな。
>熊:お前ぇって奴はほんとに食うことだけだな。お花ちゃんが泣くぞ。
>八:泣くもんか。なんてったって腕っ節なんかおいらより強いんだぞ。殴(なぐ)り掛かろうとしようもんなら、こっちの方が伸(の)されちまう。
>熊:喧嘩したことあるのか?
>八:ある訳ねえだろう? 美味(うま)い飯をちゃんと食わして呉れてるんだからよ。こっちにはなんの不服もねえ。・・・どうだ、羨(うらや)ましいだろう?
>熊:けっ。勝手に惚気(のろ)けていやがれ。

>八:それはそうと、内房のご隠居さんが、斉(なり)ちゃんに「おねだり」しとくって言ってたが、まだ寄越(よこ)さねえな。
>熊:そんなもん期待するな。別においらたちが何をしたって訳じゃねえんだからよ。
>八:でもよ、ご隠居は言ったことをすっぽかすような人じゃねえぞ。
>熊:それはそうだろうが、うっかりってことだってあるだろうよ。
>八:いや。そりゃあねえよ。って言うより、そりゃあねえぜ。催促(さいそく)にでも行ってみるかな?
>熊:止(よ)せよ。意地汚(いじぎたね)え
>八:良いじゃねえか。どうせここにいたって、やることもねえんだからよ。
>熊:だがよ、おいらは端(はし)たねえと思うぞ。
>八:そんなの、今に始まったことじゃねえもん。おいらは平気の平左よ。
>熊:お前ぇは良いよ。お前ぇの面倒を見てる親方の面子(めんつ)もあるだろうってことだよ。
>八:うーん。そういうもんか? でもよ、相手は内房のご隠居だから、分かってくださるだろう。なんてったって、平目(ひらめ)みてえに心の広(ひれ)えお人だからな。
>熊:それを言うんなら「海のように」だろ。・・・まあ、そうまで言うんなら止めやしねえ。あそこの番頭から睨(にら)まれたって知らねえぞ。
>八:構うもんか。そんじゃ、ちょいと行ってくら。・・・おーい、三吉、お前ぇも一緒に来い。
>三:八兄い、なんかご用で?
>八:ご用で、じゃねえよ。荷物持ちだ。たんまりといただいちまったら、おいら1人じゃ持ち切れねえからよ。うっしっし。
>三:なんですか、この変な笑いは? また、妙なことですかい?
>熊:斉ちゃんから、ご褒美(ほうび)を賜(たまわ)ってる筈なんだとよ。
>三:だって八兄い、おいらたち、なんにもしてねえんですぜ。そんなんじゃ・・・
>八:内房のご隠居がそう言ったの。おいらはご隠居を信じる。
>熊:都合の良いようにばっかり信じやがる。・・・忘れてたってことでも食い下がってくるんじゃねえぞ。
>八:そんときゃ、昼飯を鱈腹(たらふく)食ってきてやるよ。

八兵衛と三吉は出掛けて行った。
暖かいとはいっても冬は冬である。風はそれなりに冷たい。
八兵衛が言うように、鍋物が恋しい時節である。
そんなところへ、入れ違いで源五郎が帰ってきた。

>源:相馬屋の父(とっ)つぁんから呼び出されたときには、また揉(も)め事かとうんざりしたがよ・・・
>熊:お帰りなさいやし。元締めがなんでやすって? また見合い話ですか?
>源:いやいや、そうじゃねえ。見てみろよ、この包み。
>熊:なんですか、随分重そうですね?
>源:猪だとよ。
>熊:猪って、食えってことですか?
>源:そうだ。牡丹(ぼたん)鍋にでもしろとよ。菜っ葉は後から届けるってよ。
>熊:そんなもんなんで元締めが?
>源:奉行所から届いたそうだ。ほかにも兎(うさぎ)や鴨もあったそうなんだが、「猪だけは源五郎のところへ渡すべし」とかという添え書きがあったんだとさ。
>熊:ははあ。そりゃあ、あれですね? 斉ちゃんからの・・・
>源:そういうことのようだな。お奉行が絡(から)んでるとなればな。
>五六:でも、兎や鴨もってのはどういうことなんですかね?
>源:そりゃあ、こんなに捕まえたんだぞっていう謎(なぞ)掛けなんじゃねえのか?
>五六:八兄いに対するってことですかい?
>源:大方、そういうところだろうよ。
>五六:見栄(みえ)っ張りの子供みてえでやすね。
>四:というより、恩の押し売りみたいですけど。
>源:まあ、そう言うな。うちだけじゃなくってほかの職人にも配るようにってことなんだからよ。気の利いた心遣(こころづか)いだと受け取ってやろうじゃねえか。
>五六:まったく、世話を焼かせますね、あのお人も。
>源:そう言や、八と三吉が見えねえがどうしたんだ?
>熊:ご褒美の催促(さいそく)に、内房のご隠居様を訪ねていきました。
>源:まったく、あの馬鹿が。
>熊:もう受け取った後だって知ったら、あいつ顔を真っ赤にしますぜ。
>源:そんなもんで済むんならまだ良い。俺の方こそ顔が赤くなら。ご隠居に顔を合わせられねえぞ、こりゃ。
>熊:やっぱり。・・・あいつも、あと半日待ってりゃ良かったのにねえ。
>源:それができてりゃ、今頃弟子の3、4人も抱えてるだろうよ。
>熊:ご尤(もっと)もで。
>源:もう良い。今日の昼飯は、八抜きで食っちまおう。
>熊:三吉はその巻き添えを食うんですかい?
>源:仕方ねえ。埋め合わせは八にして貰うことにする。

程なく、一黒屋から青物類が届いた。
天秤棒を担(かつ)いできた鐘吉(かねきち)が、山のような荷を下ろし、「なんだか知らねえですが、うちの方にも鴨が届きました」と、ぺこんと頭を下げてから帰っていった。
源五郎は、お雅とあやに料理を任(まか)せ、午後からの仕事の段取りの説明に入った。

>源:実はな、猪の序(つい)でに元締めから仕事を貰ってきた。
>熊:もしかして、ちょっと厄介(やっかい)なもんなんじゃないですか?
>源:うーん。やることについちゃ、それ程大変なもんじゃねえ。
>熊:いやな言いようですね。やっぱり、裏がありますね?
>源:まあな。
>五六:どんなもんでやすか?
>源:なんでも琳派(りんぱ)のなんとかっていう偉い絵師に襖絵(ふすまえ)を描(か)かせたそうなんだが、そいつをみんなに見せてえからって、2部屋をぶち抜いて1つにしてえんだとよ。
>五六:それ自体は、そんなに大変でもなさそうでやすね?
>熊:そうでもねえの。・・・考えてもみろ。間にある敷居の3寸(=約9センチ)の隙間はどうするんだ? 畳の長さは5尺8寸(=約176センチ)って決まってんだ。骨組みは今更替えられねえんだぞ。
>五六:あ、そうか。
>源:まあ、家主(いえぬし)さんと、とっくりと、話さねえと埒(らち)は明かねえがな。
>熊:ねえ親方、藺平(いへい)父つぁんとも話してみた方が良いんじゃねえですかい?
>五六:家(うち)の義父(おやじ)さんにですかい?
>源:そうだな。そんときは頼みに行くとしようか。・・・まあ、幅3寸の畳を作れなんて言い出さねえことを祈るとするか。
>熊:家主さんはどういうお人なんですかい?
>源:父つぁんの話じゃ、人望の厚いご隠居さんだってことだが、こればっかりは会ってみねえことにはな。
>熊:お名前は?
>源:根塚厳ノ輔(ねづかごんのすけ)。
>五六:なんとも堅苦しそうな名前でやすねえ。
>源:もしかすると物凄く厳しいお人なのかも知れねえな。人望が厚いってのと、融通が利くってのとは別もんだからな。
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