253.【せ】 『背(せ)に腹(はら)は替(か)えられぬ』 (2004.10.12)
『背に腹は替えられぬ』[=変えられぬ・代えられぬ]
大切なことのためには、他のことを顧(かえり)みる余裕などないということ。差し迫った大きな苦痛を避けるためには、小さな苦痛や多少の犠牲は止むを得ない。
類:●背より腹●苦しいときは鼻をも削(そ)ぐ●Necessity knows [has] no law.(必要の前に法律なし)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
★腹は大切だから、その腹を守るため、背中なら犠牲になっても止むを得ない。「背中では、腹の代わりにはなれない」という意味合いで言う。
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鐘吉(かねきち)が、どうにかこうにか客あしらいができるようになるまでには、優(ゆう)に3日を要した。
お釣(つり)の勘定などは間違えないのだが、頭の下げ方がどうもぎこちない
教育係を仰(おお)せ付かった与太郎も、下役(したやく)を持つのが生まれて初めてとあって、今一つ勝手(かって)が分からない。

>与太:無理して笑うことはないんですよ、鐘吉さん。笑うよりも感謝の気持ちを態度で伝えた方がお客様は喜びます。
>鐘:お頭(つむ)じゃ分かるんだけど、どうも、手足が言うことを聞かねえんです。
>与太:お頭で分かる必要なんかないんです。手も足も首も、ひとりでに動くようになりますから、お頭では青物たちのことだけ考えるようにしてみてください。
>鐘:そうは言うけど、俺は青物のことなんか何一つ知っちゃいねえんですよ。
>与太:知ることなんかありません。手で触ってみて、元気があるか草臥(くたび)れてきているかを見てあげれば良いんです。お客様に、草臥れてきた青物などお渡ししないようにしてください。
>鐘:だって、そんなことしてたら、草臥れちまったのが売れ残っちまうじゃねえですか。余(あま)らしちまったらどうするんです?
>与太:残って悪くなったものは捨てますよ、勿論(もちろん)。

>鐘:だけど、そんなんじゃ商(あきな)いにならねえじゃねえですか。
>与太:そんなことありませんよ。青物は1つ3文(=約60円)や4文でしょう? そんなものごっそり捨てたって高が知れてます。恐いのは、「あそこでは腐(くさ)る間際(まぎわ)の青物を平気で売る」などという評判の方です。そうなったら、本家本元の呉服商の方にまで迷惑を掛けるようになるんです。
>鐘:・・・はあ。そういうことですか。小さい損より大きい得、ですね?
>与太:そういうことです。あたいが学んできた「商い」なんです。・・・棒手振(ぼてふ)りを始めた頃は、あたいも1つ1つの青物を大事に思いました。それが悪いことだとは思いません。ですが、傷(いた)んだものを届けると、次の日にこっぴどく怒られるんです。棒手振りにとったら、1軒1軒が大事なお客様ですから、そのうちの1軒から見捨てられたら相当の痛手なんです。
>鐘:青物も大事だけど、お客様の方がもっと大事なんですね。
>与太:そういうことです。そのためなら、可愛い青物たちも捨てなきゃならないんです。・・・でも、鐘吉さんは賢(かしこ)いですねえ。あたいのいうことをすぐに自分のものにしてしまう。
>鐘:そんな、そんな立派なもんじゃねえですよ。
>与太:いいえ。立派です。あと一月もしたら、お客様の半分と顔馴染(なじ)みになれますよ。そうすると、また商いが面白くなるんです。

褒(ほ)め千切(ちぎ)りながらの躾(しつけ)だが、鐘吉にはそういう遣りようが合ったようだ。
5日もする頃には、自然に頭を下げられるようになってきていた。

そんな報告でもしたのだろうか、姉のおつると隣のお亀が鐘吉の仕事振りを見にやって来た。
与太郎は、お咲から事情を聞いていたので、2人を与志兵衛のところへ連れて行った。

>与太:ご隠居様、鐘吉さんのお姉さんが挨拶(あいさつ)に来てくださいましたよ。
>与志:おお、そうですか。どうぞ、こちらに入って貰ってください。
>与太:はい。・・・どうぞこちらへ。こちらが一黒屋のご隠居様です。そんでもって、こちらが数次(かずじ)さん、ええと、店主ということで良かったですよね?
>数:肩書き上ではってことですよ、与太郎さん。正しくは、店主見習い中です。・・・鐘吉どんのお姉さんと、ええと、そちらは?
>亀:あ、あたし、お亀っていいます。隣に住んでます。鐘坊とは姉弟(きょうだい)みたいなもんです。
>与志:おお、そうですか、あなたがお亀さんですか。なんでも、小豆(しょうど)様のところで、花嫁修業をされているとか。
>亀:そんなご大層(たいそう)なもんじゃありませんよ。みんなが行っているからって真似(まね)して行ってるだけ。手習いとか風流とかなら、おつるちゃんの方がずっと上だもの。
>与志:おおそうだ、お咲さんから提灯(ちょうちん)を見せていただきましたよ。たいしたものですね。
>つる:ほんの手遊(てすさ)びです。父には遠く及びません。

>数:あの、おつるさん、ちょっと聞いても良いですか? あの提灯に書かれていたのは挙句(あげく)の七七だけですが、あの歌の発句(ほっく)はどのようなものです?
>つる:詠み人など詳しくは知りません。月が入っているものを使わせていただきました。「去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は渡りてし」
>数:ほう、人麻呂(ひとまろ)ですか。それに、ああいう風に続けた訳ですね? いや、素晴らしい。
>つる:素人(しろうと)の言葉遊びです。聞き流してください。
>数:町人のあなたが、どこでその歌を?
>つる:亡くなった祖母が、どなたかからいただいたと言っていました。両親は知らないと言っています。
>数:へえ、そうなんですか。今度、見に行かせていただいても良いですか?
>つる:そのようなこと・・・
>与志:おつるさんや。鐘吉どんがうちへ来て呉れていることもありますし、一度、ご挨拶に伺(うかが)わせます。数次は店主なのですからね。宜しいですね?
>つる:はあ・・・。そういうことでしたら、お待ちしております。

>亀:なーんだ。これで、おつるちゃんのお嫁入りの話は本決まりね。
>つる:お亀ちゃん。そんなこと・・・
>亀:良いじゃないの。だって、数次さんだって満更(まんざら)じゃないって顔してるもの。
>与志:お亀さんや、そう見えますかな?
>亀:見えるわよ。あたし、ぴーんと来ちゃったもんね。それに、お似合い。きっと巧く行くわ。あたしの勘(かん)よ。
>与志:ほう、これは幸先(さいさき)が良いですね。
>数:お義父(とっ)つぁん、そりゃあ幾らなんでも気が早い
>与志:何? それじゃあなんですか? お前はおつるさんを余所(よそ)の人に取られてしまっても良いというんですか? そんなんじゃ、あたしゃ、友助さんに合わす顔がありませんよ。
>数:そういうことじゃなくって、ですよ。こっちが望んだって、あちらが望まなければ仕方がないということです。
>亀:あら、おつるちゃんの方だったら大丈夫よ。そっちのことは気にしないで。だって、胸の支(つか)えは鐘坊のことだけだったんだもの。それが下(お)りたとなったら、邪魔なものなんかなんにもないもの。
>つる:お亀ちゃんったら。喋(しゃべ)り過ぎよ。
>亀:良いじゃないの。目出度(めでた)いことになるんなら。ねえ、ご隠居様?
>与志:そうですな。・・・おつるさんや。このお話、進めさせていただきますよ。
>つる:・・・はあ。

>与志:今日は、お亀さんが来てくだすって本当に助かりましたよ。
>亀:ほんと? ・・・じゃあ、ご隠居様、一つお願いしちゃっても良い?
>与志:なんでもどうぞ。
>亀:あの、鐘坊の先生をしている与太郎さんって、まだ独(ひと)り身だって聞いたんだけど、あたしでどうかしら?
>つる:お亀ちゃん。本気なの?
>亀:あら、どこか変? あたし、鐘坊の話を聞いてて惚(ほ)れちゃったのよね。そんでもって、さっき会ってから、益々気に入っちゃったのよ。・・・どう?
>与志:あたしは良いお話だと思いますよ。・・・どうですか、与太郎どん?
>与太:あ、あたいなんかのことを、好いてくださる方がいるなんて、夢にも思っていませんでしたから・・・
>与志:それは承知ということですね? それは良かった。どうです、お亀さん?
>亀:ほんとに良いの? あたし、とっても幸せ。・・・おつるちゃんのこと、小豆先生にお話して良かったぁ。
>与志:あっはっは。近頃の娘さんが元気だとは聞いていましたが、こうまであっけらかんと言われてしまうと、却(かえ)って清々(せいせい)しますね。・・・数次、お前さんもきっぱりと決めてしまいなさい。
>数:は、はい。・・・おつるさん、頼みます。あたしの嫁になってください。あたしには、あんたしかないんだよ。
>与志:おつるさん。如何(いかが)です?
>つる:は、はい。・・・あの、不束(ふつつか)では御座いますが、何卒(なにとぞ)、末永くお願いします。
>与志:はっはっは。なんだか、まやかしの術(じゅつ)にでも懸かったようですよ。・・・でも、とても心地良い。これで、一黒屋は万万歳。あたしがくたばっても、末代(まつだい)まで安泰(あんたい)ですな。

その日の夕方、与太郎からの報告を聞いて、お咲は拍子抜けしてしまった。

>咲:なんなのよ。あたしがいないところでそんなに面白いことがあったの? 呼んでよね、そういうときは。
>与太:それは無理ってもんですよ。当のあたいだって、呆気(あっけ)に取られていたんですから。
>咲:そうか。そうよね。それにしても残念だったな。一黒屋にずーっと張り付いてりゃ良かった。
>与太:そうですね。でも、4日も5日も待ってるつもりがあればですけど。
>咲:そんなに暇じゃないって。こう見えても何かと忙しいんだから。お花さんの後釜(あとがま)を探さなきゃならないし、それまでの間、あたしが「だるま」の手伝いをしなきゃならないのよ。
>与太:そりゃあ大変ですねえ。
>咲:何よ、人事(ひとごと)みたいな言い方しないでよね。
>与太:だって、あたいにとっちゃ他人事ですから。太助どんならまだしも。
>咲:つれないのね、与太ちゃんも。
>与太:そんなことを言ってるんだったら、お咲ちゃんも「だるま」のことなんか打っちゃっておけば良いじゃないですか。
>咲:そうもいかないのよね、これが。あたしが見捨てちゃうと、潰(つぶ)れちゃうかも知れないんだから。
>与太:なんだかんだ言っても、「だるま」のことが好きなんですね? それとも・・・?
>咲:余計なことは言わないの。さてと、今日も飲んだくれどもに愛想を振り撒(ま)いてくるとしますか。
>与太:あ、そういうことでしたら、熊さんと八つぁんにはお咲ちゃんから伝えておいて貰えるんですね?
>咲:分かったわよ。特別だからね。
>与太:あ、そうそう。お花さんと八つぁんが一緒になるんですってね。お祝いの言葉を伝えといてください。
>咲:急に男らしくなっちゃったじゃないの。良いわよね、皆さん花盛りで。・・・ありゃ? 待てよ。お花さんが八つぁんと夫婦(めおと)になるってことは、もう暫(しばら)く「だるま」にいたって、なんの障(さわ)りもないってことじゃないの?

だるまへ行く刻限が迫っていたが、お咲は、源五郎の家へと向かった。あやと相談するために、である。
あやの了解さえ取れれば、またお花を引っ張り出せる。
そうすれば、自分の自由は保障されるのだ。
「だるま」の亭主に文句を言われようと、給金を減らされようと構(かま)いやしない。
肝心なのは、当面の自由なのだ。この際、ちょっとくらいの契約反故(ほご)など、然(さ)したる問題ではない。
(第28章の完・ つづく)−−−≪HOME