第27章「茶目っ気あやの鬼の居ぬ間(仮題)」

236.【す】 『水魚(すいぎょ)の交(まじ)わり』
(2004/06/14)
『水魚の交わり[=思い・因(ちなみ)・親(しん)]』
水と魚の関係のように、非常に親密な友情や交際を喩えていう言葉。
類:●刎頸(ふんけい)の交わり管鮑の交わり莫逆(ばくげき)の交わり膠漆(こうしつ)の交わり
参照:「三国志・蜀志−諸葛亮伝」 「孤之有孔明、猶魚之有厦水也。願諸君勿復言」
出典:蜀志→三国志(さんごくし) 192 呉下の阿蒙 参照。
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空梅雨(からつゆ)であるせいか、八兵衛は今のところ、「なんか面白(おもしろ)いことでも起きねえかな」とは言い出していない。
予定以上に仕事が舞い込み、大女将(おおおかみ)のお雅はほくほく顔である。

>雅:ねえお前さん、温泉にでも行ってこないかい?
>棟:なんだよ、藪から棒に。足腰も丈夫だし、どこも痛(いて)えところなんかねえぞ。
>雅:湯治(とうじ)じゃないよ。息抜き骨休めのためだよ。
>棟:二人っきりで、しっぽりとか?
>雅:そんな訳ないでしょう。孫らとあやを連れてだよ。
>棟:うん、まあ、それも良いが、慶二はまだ生まれてから3月(みつき)と経(た)ってねえからな。どんなもんだかな?
>雅:そうだねえ。首が据(す)わるには、あと2月くらい掛かるかねえ。
>棟:それじゃあ、それまで待てば良いじゃねえか。温泉は逃げやしねえんだからな。
>雅:そうかい? ・・・でもさ、思い立つ日が吉日だって言うじゃないか。そんなに待ってたら、なんだかんだと用事ができちまって、結局行けなかったってことになったりするもんさ。
>棟:そりゃあ、梅雨の時期と比べりゃ夏の方が忙しいに決まってら。
>雅:それじゃあ、こういうのはどうだい? あやには済まないが、静と源太の2人を連れて4人だけで出掛けちまうってのは?
>棟:あやがそれで構わねえって言って呉れたらだな。

>雅:それじゃあ決まりだね。行き先はどこにしようかねえ?
>棟:おいおい、まだあやが納得するかどうか分からねえんだぞ。駄目だってことなら取り止(や)めになるんだ。先に行き先の話をする奴があるか。
>雅:へへーんだ。もうあやの了承は取り付けてるのさ。
>棟:なんだと? またお前ぇ・・・
>雅:違うさ。あやの方から言ってきたんだよ。鎌倉の紫陽花(あじさい)が見事(みごと)だそうですよって。
>棟:そりゃあ花見ってことだろう? 温泉とはまた違うだろ。
>雅:出掛けるのには違いがないでしょう?
>棟:蜻蛉返(とんぼがえ)りになるか、何日か泊まってくるかだぞ。大きな違いじゃねえか。
>雅:大した違いじゃないでしょ? 要は、日頃の気(け)だるい思いを忘れて、滅多(めった)に行けないところに行って、羽を伸ばすってことだもの。
>棟:そりゃあ理屈じゃそうだろうが、源五郎が怒り出しゃしねえか?
>雅:構うことなんかないさ。もしかするとさ、2人きりになれて、却(かえ)って喜ぶかも知れないじゃないか。

「半月くらいのんびりさせて貰うからね」というお雅の言葉に、あんぐりと口を開けた源五郎であったが、言い出したお雅を止めることなど誰にもできないということに思い至り、渋々承服したのだった。

>雅:何も自分たちだけが良い思いをしようってんじゃないよ。お前たちにも特別に小遣(こづか)いを出しといたから、あやに配分して貰いな。
>源:そういうことなら、弟子たちにも話は付くがな。でも、あんまり浮かれた顔ばっかり見せるなよな。
>雅:分かってるよ。それじゃあ、早速(さっそく)準備に取り掛かるとしましょうかね・・・
>源:梅雨なんだから、どこへ行ったってどうせ雨だぜ。
>雅:半月もしたら梅雨だって明けちまうさ。初めが悪くたって終わりが良ければ良いの。
>源:そんなもんかね。俺だったら、雨の中を歩きたいなんて思わねえがな。
>雅:そんなもんこっちの好き好きだろう? あんたみたいな唐変木(とうへんぼく)には、雨っ降りの良さなんか分かりゃしないだろうね。
>源:分かるさ。雨が降りゃあ、仕事を休める。
>雅:そんなこったろうと思ったよ。
>源:はいはい。・・・そんで? どこに行くってんだい?
>雅:箱根さ。途中で、鎌倉の紫陽花寺にでも寄ってみようかと思ってるのさ。お前には花の良し悪(あ)しなんか理解できないだろうが、静と源太にはそんな風になって貰いたくないからね。
>源:なんだと? 静と源太を連れてくっていうのか?
>雅:あやの了解は貰ってあるよ。・・・偶(たま)には夫婦(めおと)水入らずってのも良かろうよ。
>源:そんなもん、今更・・・
>雅:子守りでもなんでも頼んで、雨の散歩にでも連れ出しておやり。
>源:大きなお世話だって言ってんだろ。

とは言ったものの、そういえばあやの外出はここのところめっきりなくなっていたなと、源五郎は考えていた。

>八:へ? 棟梁たち、出掛けるんでやすか?
>源:半月だとよ。
>八:そんなにでやすか? そりゃあ豪勢だ。羨(うらや)ましいですねえ。
>源:そうか? 足腰も弱ってきてるってのに、よくもまあ遠出なんかするもんだよな。
>八:弱ってるから行くんじゃねえですか。いつ足腰が立たなくなるか分からねえですから、行けるときに行っとかなきゃね。
>熊:お前ぇなあ、そういうことは分かっててもはっきり言うもんじぇねえってんだ。
>八:そうか? でもよ、うちの母ちゃんも良く言うぜ。いつくたばるか分からないから早く嫁を貰って、孫の顔を拝(おが)ませて呉れって。
>熊:そりゃあ随分と際疾(きわど)い脅(おど)し文句だな。
>八:そうだろ? ・・・ねえ親方、そろそろおいらの嫁の話をなんとかして貰えねえもんですかねえ?
>源:そんなもん自分で何とかしろ。目当ては疾(と)っくに決まってるんだろう?
>八:へ? そんなこと、誰が言いました? 嫌だなあ親方、そんなありもしねえことを言い出さねえでくださいよ、ははは。
>熊:何を言ってやがるんだか。そんな期待に満ちた目をするんじゃねえったら。
>源:ま、あんまり気乗りはしねえんだが、その話は爺さんと婆さんがいなくなってから、あやの奴と相談してみるよ。
>八:ほんとですかい?
>源:あんまり期待するなよ。
>八:へい。・・・へい。あんまり期待せずに、色好い結果を待っていやす。
>熊:何を言ってるか分かってるのかね、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)じゃねえか。
>八:話し言葉は滅茶苦茶でも、心の中身はちゃんと伝わってるのさ。なんてったって、おいらと親方とはそりゃあ長い付き合いなんだからよ。・・・ねえ、親方?
>源:分かりたくねえほど分かるから、もうそれくらいにしとけ。・・・あーあ、厄介(やっかい)なことにならなきゃ良いがな。

「今日はお前ぇらに任せるから、適当にやっとけ」と言うと、源五郎は奥の間へ引っ込んでしまった。
源五郎が言うところの「厄介なこと」というのは、あやが張り切り過ぎてしまうこと、である。 なんといっても、こういう話は嫌いではないのだ。目がないといっても過言(かごん)ではない。

>八:なあ、熊よ。あんまりでかい声で言えたもんじゃねえんだけどよ、大女将さんが半月もいねえとなると、なんだかこう、軽くなるよな気がするよな。
>熊:十分にでかい声だな。聞こえちまうぞ。
>八:あ、いけね。そう言や地獄耳なんだっけな。・・・ふう。大丈夫だったみてえだな。きっと、旅支度(たびじたく)のことでそれどころじゃねえんだな、多分。
>熊:そうだと良いんだがな。
>八:・・・なあ。親方と姐さん、なんとかして呉れると思うか?
>熊:姐さんはどうにかしてくださるだろ? それに親方だって、ああは言ったって、最後にはちゃんと立ち回ってくださるって。お前ぇだって長い付き合いなんだから、そのくらい分かってんだろ?
>八:頭じゃ分かってるんだけどよ、ことが自分のこととなると、やっぱり心配なんだよな。
>熊:そりゃあそうかも知れねえな。
>八:分かって呉れるか?
>熊:ああ。分かりたくねえほどにな。

>八:そんでよ、聞くのが怖かったからまだ聞いてなかったんだがよ、お前ぇ、お花ちゃんのことどう思う?
>熊:どうってったってなあ。良い娘なのは間違いねえだろうが、八と夫婦になってどうかってことになると、なんとも言えねえな。悪い話じゃねえ。お前ぇにとってはな。
>八:そうだよな。当のお花ちゃんにとってどうなのかってことだよな。そうなるとおいらもちょいとばかし自信がねえんだよな。
>熊:なんだよ。お前ぇがそんなじゃ、話が前へ進まねえじゃねえか。しっかりしろ。
>八:しかしよ、職人は職人で、商人(あきんど)は商人だからな。
>熊:そんなこと気にしてたって始まらねえだろ? どーんとぶつかっていくしかねえのさ。
>八:それで、見事(みごと)玉砕(ぎょくさい)か?
>熊:そんときゃそれで仕方がねえ。もしそうなっちまったら、鰻かなんかを奮発(ふんぱつ)してやるさ。
>八:ああ。そんときゃ頼むな。

食い物の話をしても乗ってこない八兵衛を見て、こりゃあよっぽど本気だぞと、熊五郎は感じていた。
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