203.【さ】 『先(さき)んずれば人(ひと)を制(せい)す』 (2003/10/20)
『先んずれば人を制す』
他人よりも先に物事を実行に移せば、有利な立場に立つことができる。先手を取ることができれば、相手を制圧することができる。
類:●先んずる時は人を制す●He who makes the first move wins. ●The early bird gets the worm.
出典:「史記−項羽本紀」「吾聞、先即制人、後則爲人所制」
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熊五郎は、源五郎から少し時間を貰って、昼時間の千場(ちば)道場を訪れた。
師範代・猪ノ吉は、今一つ気が乗らないらしく、母屋の居間で憮然(ぶぜん)と目刺を齧(かじ)っていた。

>熊:よう、猪ノ吉。随分 時化(しけ)た面してるじゃねえか。
>猪:なんだ、熊ちゃんじゃねえか。まあ上がれや。・・・どうだ、目刺しでも食うかい?
>熊:大道場の師範代が目刺しでもねえだろう?
>猪:そうか? 今はどこだってこんなもんだろ? それに、武士は食わねど気取ってねえとな。人の目もあることだし。
>熊:そんなことはあるかよ。こんな世の中だからこそ、余計に見栄を張って楽しそうにするべきなんじゃねえのか?
>猪:成る程、それもそうか。・・・ま、明日っから心掛けてみよう。
>熊:かみさんにでも頼んでみるんだな。・・・誰もいねえのか?
>猪:ああ。嬶(かかあ)は餓鬼どもの読み書きの様子を見る会だとよ。そんなの放っとけってんだよな。剣術さえ立派なら良いって言ってるのに、まったくよ。・・・親父殿は、道場だ。
>熊:大(おお)先生が直々(じきじき)に手解(ほど)きか? 珍しいんじゃねえのか?
>猪:俺が逃げ出したんだから仕方がねえだろう。
>熊:なんだと? ・・・じゃあ、お夏坊が聞いてきたってのは本当なのか?
>猪:お夏? ああ、鹿之助の妹か。・・・鹿之助に愚痴を零(こぼ)した通り、俺の手に負える野郎じゃねえんだよな。
>熊:お前ぇほど腕が立つ奴がお手上げだってんなら、大先生だって無理だろ。
>猪:そうでもねえさ。親父殿は根気がある。俺と違って途中で投げ出したりしねえ。

>熊:どういうことだ?
>猪:弱過ぎるんだよ。竹刀(しない)を持ち上げるのがやっとって感じだ。木刀なんかとてもとても。
>熊:なんだと? 強えんじゃなかったのか?
>猪:見込みなしだ。親はこれまでどういう育て方をしてきやがったのかねえ、嫌んなるぜ。
>熊:商人の若旦那とかで、なよっとしてるとか、そういうんじゃねえのか?
>猪:ああ、違う。歴(れっき)とした武家の長男坊だ。名前なんか凄(すご)いぞ。「嘉剛(よしたけ)」ってんだ。
>熊:強そうじゃねえか。それなのにひょろひょろなのか?
>猪:ああ、ひょろひょろだ。末成(うらな)りの瓢箪(ひょうたん)の方がまだ増しってもんだ。
>熊:そんなに酷(ひで)えのか?
>猪:酷え。お前ぇんとこの四郎とかいう、大人しいのの方が間違いなく強えな。
>熊:よっぽどだな、そりゃ。お前ぇが頭を抱えるのも分かるぜ。

猪ノ吉は「そうだろ?」と言って、茶碗に茶を注いで、残った米を掻き込んだ。

>熊:お夏坊から「頼りにしてる」とか言われちまったが、そんなんじゃ、おいらは出る幕なしだな。
>猪:なんだ? そんな気で来たのか?
>熊:とんでもねえ。おいらは、今夜鴨太郎の餞別の会があるからって、呼びにきただけだ。唯の大工なんだぞ。大工が木刀なんか握って、なんの役に立つかってんだ。
>猪:そうでもねえかも知れねえぞ。なんてったって、子供より弱いんだから。
>熊:冗談は止せよ。大工なんぞ道場に入れやしねえだろ? それに、相手は武家の長男さんなんだろう?
>猪:俺が許す。好きなように叩きのめして呉れ。
>熊:そんなことをして、親が怒鳴り込んできたらどうするんだよ。
>猪:親も承知のことだ。命に関わることでなければ、構わねえってことだからな。

>熊:だからってったてよ。・・・しかし、変わった親だよな。一体どこの何様なんだ?
>猪:普請奉行の藤木様の孫だとさ。
>熊:その藤木っていうお奉行さんは偉い人なのかい?
>猪:さあな。少なくとも俺は会ったことがねえ。奉行になったくらいの人だから、多分偉い人なんだろ?
>熊:その偉い人の孫をこてんぱんにしちまったら、お前ぇ、道場を潰(つぶ)されちまったりするんじゃねえのか?
>猪:当の本人と、その父上殿が、頼むって言ってきたんだ。この際、爺さんのことは気にしねえで良いだろ。
>熊:そんなもんかねえ・・・

道場へ向かいながら、「ときに、鴨太郎はどこへ行くんだ?」と尋ねられて、お夏とのことを掻い摘(つま)んで説明した。
「へえ、鹿之助の妹とねえ」と、感慨深げに溜息を吐(つ)いた。
気付かなかった振りをしてはいるが、鴨太郎に負けず劣らず、お夏を可愛がっていたのを、熊五郎は知っていたのだ。

藤山嘉剛は、道場の隅(すみ)で伸びていた。額には、たん瘤(こぶ)を冷やすためか、濡らした手拭いが載せられていた。

>猪:ご師範。熊五郎に手合わせをさせたいのですが、宜しゅう御座いますか?
>功次郎:おお、これはこれは熊五郎殿。その節はお世話になりましたな。
>熊:あの、おいらは別に・・・
>功:昼前一杯嘉剛の相手をしてたので、このわたしも流石(さすが)に疲れました。宜しかったら、代わってください。
>熊:で、でやすが、おいらは唯の大工だし。
>功:そんなことはこの際関係ありませんよ。それに、わたしは腹が空(す)きました。・・・では頼みましたよ。
>熊:そ、そんな。大先生・・・

行ってしまった。熊五郎に口を挟む間も与えぬほどである。
それほど、代わって欲しかったのかも知れない。
猪ノ吉に、嘉剛の昼飯はどうするのかと聞いたら、「無駄に太っているから抜きだ」と、あっさり答えられた。

>猪:さて、おい、そろそろ起きたらどうだ? 大方、もう四半時(約30分)は狸寝入りしているんだろう?
>嘉剛:・・・あれ、ばれていましたか? 流石は師範代ですね。
>猪:お前は、自分の口から「鍛(きた)えてください」と言ったのだぞ。その癖に、まったくやる気が見えぬ。
>嘉:あれは、父上が隣にいたから・・・
>猪:そういう了見(りょうけん)だから少しも上達せぬのだ。
>嘉:それでは話が違うではありませんか。大きな道場だから、さぞかし教え方が巧いのであろうと思って来たのですからね。私が上達しないのは、師範代が碌に立ち会って呉れぬからではないのですか?
>猪:やる気のない者には、何を教えても無駄だ。
>嘉:そんなことはないでしょう? 兵法書を隅から隅まで読んだだけでも違うというではないですか。
>猪:兵法というのは、戦(いくさ)の陣形であって、個人の熟達を説いたものではない。
>嘉:それなら、私は軍を指揮する者になります。それなら、剣客(けんかく)でなくても良いでしょう?
>猪:指揮するのは、藩主やその参謀と相場が決まっておる。お主がご当主様から召し抱えられるほど立派とは、到底(とうてい)見えぬ。・・・そもそも、その兵法書などを、手に取ってみたことはあるのか?
>嘉:そ、それはまだですが、これから帰って、早速(さっそく)求めに行かせるつもりです。善は急げと言いますし。

>猪:嘉剛、お主は幾つになった?
>嘉:年ですか? 17ですが、それが何か?
>猪:やる気がある者は、早ければ10(とお)になる前にここに来る。お主がその年になるまで何もしてこなかったということは、もう既に負けているということなのだ。兵法書には「先手必勝」という言葉だってある。それだというのに、何を今更「善は急げ」か。
>嘉:そんなことを言ったって、お爺様が、何もしないで良いと言ったのですから・・・
>猪:他人のせいにするでない。責任は全て己で取るのだ。
>嘉:しかし・・・
>猪:しかしも案山子(かかし)もない。・・・それでは聞くが、なぜ剣術を選んだのだ?
>嘉:それは、お爺様の立場が怪しくなったから、「自分の身くらい守れるようになれ」と、父上から・・・
>猪:また他人に選択を委(ゆだ)ねたのか? 一体、お主の本心はどこにあるのだ?
>嘉:そんなこと急に言われてって・・・
>猪:「急に」であるのかどうか、もう2、3発打ち込んで貰ってからじっくり考えてみろ。
>嘉:え? まだ打たれろっていうのですか?

猪ノ吉は熊五郎に、「こういう男だったら思う存分打てそうだろう?」と言って、竹刀ではなく木刀を持たせた。
「気を失うまでやって良いぞ」と、小声で言ってから、「餞別の会の前に喉(のど)をからからにしとけ」と付け加えた。

>嘉:ちょ、町人ではありませんか。そのような者と立ち会えというのですか?
>猪:そうだよ。1本でも取れたら、お父上のところに頭を下げに行ってやる。・・・頼むぞ、熊ちゃん。
>熊:済まねえが、お坊ちゃん。おいら、剣の作法なんか知らねえから、手加減なんかできねえからな。
>嘉:町人の分際で、その口の利き方はなんだ。か、仮にも普請奉行・藤木嘉秋(よしあき)の孫であるぞ。
>熊:爺さんのことなんか、知ったこっちゃねえってんだ。お前ぇさんの話を聞いてたら、性根が腐ってるってことが分かったからな。おいらがその膿(うみ)を出してやるよ。
>嘉:何を偉そうに。町人は町人ではないか。それは一生掛かっても引っ繰り返りはしないわ。
>熊:お前ぇさん、まだ分かってねえのか? おいらが上に上がることはなくっても、お前ぇさんが地に落ちるのは目に見えてるってことだよ。
>嘉:そんなこと町人になど分かって堪(たま)るか。
>熊:まったく、物分りの悪いお坊ちゃんだな。・・・おいらの知ってる娘はだな、今16だってのに、長崎に行って5年も掛けて医学を学ぶんだって、明日旅立つんだよ。どんな決心か、お前ぇさんには、それこそ一生掛かっても分からねえだろうよ。
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