187.【こ】 『弘法(こうぼう)も筆の誤(あや)まり』 (2003/06/30)
『弘法も筆の誤まり』
弘法大師のような書道の名人でも書き損じをすることがある。その道に長じた人でも時には失敗を犯すことがあるという喩え。
類:●猿も木から落ちる河童の川流れ麒麟の躓(つまず)き●荒神の火傷、水神の川流れ●Even Homer sometimes nods.ホーマーすら時に居眠り[失策]をする<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
★ 空海は勅命を受け、京の都の応天門の額を書いたが、門に掲げてから「応」の字の初めの点を書くのを忘れたことに気付いた。 しかし慌てず、墨を含んだ筆を投げて点を足し、「応」の字を完成させた。
人物:空海(くうかい) 平安初期の僧。真言宗の開祖。774〜835。俗姓佐伯氏。幼名真魚(まお)。諡号(しごう)弘法大師(こうぼうだいし)。讚岐の人。延暦23年(804)入唐して長安青竜寺の恵果(けいか)に真言密教を学ぶ。大同元年(806)帰国、高野山に金剛峯寺を建立。弘仁14年(823)には東寺を与えられ、これを国家鎮護の祈祷道場とした。綜芸(しゅげい)種智院を設立して子弟を教育。承和2年(835)真言宗年分度者三人の設置が勅許された。書に優れ、三筆の一人といわれる。死後、大僧正、法印大和尚位を贈られた。著に「三教指帰」「文鏡秘府論」「文筆眼心抄」「篆隷万象名義」「性霊集」「十住心論」「秘蔵宝鑰」「即身成仏義」、書簡「風信帖」など。
*********

雨は一向に降り止む気配を見せない。
もう半時(約1時間)近くも居座っているというのに、饅頭(まんじゅう)屋には1人の客すら現れていない。「かつかつです」という店主の言葉も頷(うなず)ける。

>八:太市の旦那はいったいどうしたいんでやすか?
>太:どうもこうもありゃしませんよ。状況を鑑(かんが)みれば、静観するしかないのですから。
>八:そうじゃなくって、お上のご意向とか、幕府の金蔵とかのことを抜きにしたら、どうしたいかってことでやすよ。
>太:そのような、考えても仕方ないことを、ここで言っても詮(せん)ないのではないですか?
>八:その通りにならないのは百も承知ですよ。ですが、全く意味がねえ訳じゃねえですよ。気分がすっきりするでしょう? そういうのが結構(けっこう)、一番必要なことなんじゃねえですかい?
>熊:八の言いようはちょっと乱暴ですが、間違ってねえと思いやすぜ。どうです? 話してみませんか?
>太:ふむ。なるほど。その言い分にも一理ありますな。・・・それでは、いま暫(しばら)くお付き合い願いましょうかね。
>八:それじゃあ、普通の大きさの大福餅も頼むとしましょうよ。ねえ、良いでやしょう?
>熊:なんだと? お前ぇの目的はそっちの方だったのか?
>八:うん? なんだ? 他に何があるっていうんだ? そんなの決まってんじゃねえか。

「親爺ぃーっ」と八兵衛が店主を呼び付け、大福8つを頼んだ。
2つ多いじゃないかという五六蔵の苦情にも、「おいらが3つ食うのさ」と、八兵衛はこともなげに答えた。

>太:2つの両替商は1つになって、屋号も変えるそうです。瑞穂(みずお)屋と名付けたそうです。瑞穂の国というのは、この日の本の国のことです。大それた名だとは思いませんか?
>八:凄(すげ)えな。流石(さすが)は太市の旦那。物識(し)りでいらっしゃる。
>熊:感動するとこが違うんだがな。
>太:屋号を変えれば悪評も消えるというのは、大きな勘違いです。どう頑張ってみても、元のようには戻れません。
>熊:でも、雇(やと)い人を沢山(たくさん)辞めさせれば、巧く回っていくんでしょう?
>太:初めのうちだけです。考えてもみてください。沢山辞めさせるということは、お店(たな)のことを一所懸命に考えて呉れていた人も沢山辞めさせてしまうということです。・・・長い目で見ると、これこそが大損そのものなのです。
>八:するってえと、遅かれ早かれ潰れちまうってことですかい?
>太:人の情(なさ)けというものをどの時点で取り戻すかに掛かっているでしょうね。
>八:情けですかい?
>太:そうです。情けがない者への人々の接し方は、情けがないものと決まってますからね。借りるのなら情けがある方へと考えるのが当たり前でしょう?
>八:そりゃあそうだ。太市の旦那が言うまでもなく、そりゃあ世の中の理(ことわり)ってもんだ。
>熊:お上は、それが分かっていても梃(てこ)入れしなきゃならないんですか?
>太:借財を返さなければなりません。しかし、蔵は空(から)同然。名目だけでも梃入れしているということにしなければならないというのが実情なのです。

太市は視線を目の前に積まれた饅頭に落とした。1つ摘(つま)み上げてそれをしげしげと眺め、やおら口へ運んだ。
「ふむ、中々いけます」と呟いた。

>熊:幕府の蔵って話でやすがね、上納金や運上(うんじょう)金ってのは、いつになったら入ってくるんでやすか?
>太:米の収穫が終わった後ですな。しかし、どこもかしこも内証は火の車です。先延ばし先延ばしで、2年分も滞(とどこお)っているところだってあります。
>熊:溜めてたって払える見込みがあるんですかね? おいらは無理だと思いますぜ。
>太:無理でしょう。しかし、勘定方は「必ず納めさせるのでご安心召され」としか言ってきません。それとなく納所(なっしょ)も調べさせましたが、同様の返答のようでした。
>八:なんか怪しくねえですか?
>熊:なんでだ? こんな世の中なんだぜ。無理に絞(しぼ)り取らねえってのが温情かも知れねえじゃねえか。
>八:何を言ってやがる。役人だって運上が上がってこなけりゃ食いっ逸(ぱぐ)れちまうんだぞ。にこにこ笑いながら「ご安心を」なんざ、どうして言えるってんだよ。
>太:やっぱりそう思いますか、八つぁん?
>八:おいらの目は節穴じゃあありやせんぜ。大方、そいつら寄って集(たか)っ示し合わせてピン撥ねしてやがるに違いねえんだ。
>太:全部がそうとは言えませんが、大体は八つぁんの推察の通りでしょう。そうでなければ、いくらなんでも蔵が
底を突くことなど考えられませんからね。
>八:それじゃあよ、蔵に入ってくる筈のもんをきちんと入れさせりゃ良いんじゃねえですかい?
>太:そうですね。そうすれば、両替商ごときへの借財など、熨斗(のし)を付けて返せます。
>八:そうなりゃ、加賀屋と岡部屋が合わさるのも止められやすか?
>太:そこまでは無理でしょうが、辞めさせられる人を減らすことくらいには、役に立つでしょう。
>八:まあ良いか。指を咥(くわ)えて見てるより、なんぼか気が休まる。
>太:ちょっと当たってみる価値はありそうですかね。

店主が大福餅8個を盛ってやってきた。もうにこにこ顔である。

>八:今度はやけに早えな。
>店主:へい。なんと言いましても、主力商品ですので、いつも10個は作り置くことにしていますです、はい。
>八:昨日のじゃあねえだろうな?
>店主:勿論ですとも。1日置いておくと餅が硬くなってしまって、とてもお売りできない代物になってしまいますから。
>八:そうかい。それを聞いて安心したぜ。それじゃあ、いっただきまーす。
>太:ご主人。
>店主:は? なんで御座いましょう?
>太:半紙を2枚いただけますかな?
>店主:はい、良う御座いますとも。硯(すずり)もご入り用で?
>太:そうさな。それでは、太目の筆もお借りしましょう。

太市は、紙と筆を受け取ると、さらさらとなにやら書き付けた。

>八:なんて書きなすったんで?
>太:「小金(こがね)餅3個にて4文、大金餅1個にて4文。但し、小人(こども)に限り小金餅2個にて1文」と書きました。いかがでしょう?
>店主:「小金餅」とは?
>太:ご主人、名はなんと申される?
>店主:はい、金太で御座いますが、それが?
>太:やはりな。屋号が「金太楼(ろう)」とあったからそんなところじゃないかと思いました。どうです? こういう風に品物に名前を付けると、少し高くなっても食べてみたいと思いませんか?
>八:なるほど。おいら物凄く食いたくなったぞ。
>熊:お前ぇには名前なんか関係ねえだろ。
>八:だってよ、面白いじゃねえか。「大金餅」に「小金餅」だろ? 小金餅で良いっていう控え目なとこなんか洒落(しゃれ)が利いてるじゃねえか。
>熊:お前ぇに洒落なんか分かる筈がねえじゃねえか。
>八:おいらだから分かるんじゃねえか。ねえ、太市の旦那?
>太:まあ、そういうことにしておきましょう。・・・ご主人、丸に「金」かなんかの焼き鏝(ごて)でも誂(あつら)えて、大福や饅頭に捺(お)せば、箔も付くと思いますよ。
>店主:ですが、それでは儲(もう)け過ぎでは御座いませんか?
>太:なんの。これでも安過ぎるくらいです。評判が良くなったらほんの少し値上げすると良い。
>店主:そ、そんな滅相もないことで御座います。それ以上高くしたら罰(ばち)が当たります。

>三:それにしても、太市の旦那。達筆でやすねえ。
>四:文士をしてらしたんだから、筆遣いは慣れたものなんでしょうか?
>太:文士だからということではありませんよ。文士には悪筆の者も沢山います。若い頃に良い師匠に付いて手習いしましたからね。
>四:なるほど。昔取った杵柄ですね? ・・・おや?
>八:どうかしたのか?
>四:「饅頭」の饅の字が違ってます。・・・ほらね、鰻(うなぎ)になってるでしょう?
>太:あいや、これは失態。昨日、水道町の鰻屋に飯を食いにいって、「土用の丑の日は鰻」というのを10枚も書かされたもので、つい。手が癖になってしまったのですかな。書き直しましょう。済みませんが、半紙をもう1枚ください。
>店主:恐れ入ります。今すぐお持ちします。・・・あ、そうだ。その書き損じなのですが、そのままいただいても宜しゅう御座いますか?
>太:しかし、書き損じでは意味をなさぬでしょう?
>店主:今思い付いたんですが、鰻の頭を擂(す)り潰して、饅頭の粉に練(ね)り込んで売れば、梅雨の季節の売り物になるのではないかと・・・
>太:ほう。それは奇抜ですね。気を惹(ひ)かれそうな饅頭です。
>八:親爺、もしそいつが出来上がったら一番に食わして貰えるかい? なんてったって考えの元はおいらたちなんだからよ。
>熊:太市の旦那だけだろ。おいらたちはなんにもしちゃあいねえ。
>八:みんなで一緒にってことにしといでも良いでしょう? ねえ、太市の旦那?

>太:良いですよ。それじゃあ、締(し)めて80文、波銭10枚ずつを八つぁんと2人で払いましょうか?
>八:そ、そんなに高かったでやすか?
>店主:42文です。9の9の24ですから。
>太:良いではないですか。値段を決めてしまったのは私ですから、私が一番最初にその代価でお支払いしませんとね。
>八:おいらがその半分でやすか? だって、40文ってったらこれまでの値段の6人分と2文しか違わねえじゃねえですか。
>太:はっは。わたしが全部持ちますよ、安心してください。
>八:ほんとでやすね? ・・・ふう。身包(みぐる)み剥(は)がされるかと思ったぜ。
>太:そこまで大袈裟に言わなくても良いでしょう。
>八:とんでもねえ。飲み代(しろ)より余計に銭を使うってことは、おいらにとっちゃ、身を切られるのとおんなじくらい辛いことなんです。おいらこれまで、一度としてそんなへまをやらかしたことなんかねえんです。それが真逆(まさか)こんな饅頭屋でやらかすことになってたら、もう死んでも死に切れねえ
>熊:もっと増しなことで、生き死にを考えて呉れってんだ。
つづく)−−−≪HOME