112.【か】 『河童(かっぱ)の川流(かわなが)れ』 (2002/01/21)
『河童の川流れ』
河童でも時に水に流されることがあるというところから、その道の名人、達人と言われる人でも時には失敗することもある。
類:●猿も木から落ちる弘法も筆の誤り過ちは好む所にあり●荒神の火傷、水神の川流れ●Even Homer sometimes nods.(ホーマーすら時に居眠り[失策]をする)●No one is wise at all times.(四六時中賢明なものはいない)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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門弟に案内されてきたのは、矢張り、源五郎たちだった。
静(しずか)を抱いたあやの後ろから現れた女性を見て、真っ先に市毛大路郎が反応した。

>市:純(じゅん)。そなたが何故ここに?
>純:「何故ここに?」ではありません。一人娘の夫を剣の腕前で決めるなどと、戯(たわ)けたことを仰るから、我慢ならずにこうして参ったのです。
>市:何が戯けたことだ? そなただってそうして私と添ったのではないか。
>純:それはそれです。・・・ええ勿論わたくしは満足しております。ですが、聡(さと)のこととは別です。
>市:何がどう別だというのだ。
>純:当時は娘の夫は家が決めるものでしたが、当世は勝手が違ってきているのです。聡の周りの娘たちを御覧なさい。好いた好かれたで一緒になるそうではありませんか。
>市:そうは言ってもだな、我が家には我が家の方針というものがあるだろう。
>純:浪人している武家にどんな方針があるというのですか?
>市:そう浪人浪人と言うな。
>純:あら、だって事実なんですもの、仕方がないじゃありませんか。・・・それに、序(つい)でだから言わせて頂きますがね、太平の世の中では、剣術は嗜(たしな)みであって、身を立てる材料にはなりません。
>市:これ、そんなことを言うものではない。
>純:本当のことを言って何がいけないのですか?
>市:剣術道場で、「剣術は嗜みだ」などと言うなと申しておる。
>純:あ。・・・これは、皆様、失言を致しました。どうも娘のこととなると、周りのことが見えなくなってしまいまして・・・
>千:まあ良いではありませんか。奥方様の仰ったことにも一理あります。ここは、ご息女を交えて今一度話し合いなされるのが良いかと存じます。
>市:千場殿。拙宅内の恥を曝してしまい、情けない限りです。どうやら今日のところは出直してきた方が良さそうです。
>千:まあそう仰らず、この千場めに、お手伝いさせてくださいませ。

先ほどまで軽い乱取りをしていた門下生たちは、手を止め、突っ立ったままこの騒動を見守っていた。
功次郎が見回すと、一斉に壁際に引き下がり、指示を待つべく、神妙に正座した。

>千:奥方様、それに、熊五郎殿の親方とお内儀様、どうぞ、こちらへお集まりください。それから、猪ノ吉、熊五郎殿とこちらへ来て、ご一同にご挨拶なさい。
>市:千場殿、何もお弟子たちが居られるところでせずとも・・・
>千:まあ、そう堅いことを仰いますな。追っ付け、ご息女もここに見えられますから。
>純:聡も来るのですか?
>千:はい。只今お迎えに伺っているところです。・・・ご挨拶が遅くなりました。千場功次郎で御座います。
>純:市毛の家内の純で御座います。
>千:存じております。・・・25年前に、拝顔致しております。
>市:千場殿はな、件(くだん)の試合で唯一私から一本取ったお方だ。
>純:あっ。
>千:その節は、貴方様を愚弄するようなことをしてしまい、お詫びの言葉もありません。
>純:・・・そうですか。やはり、ご立派な道場をお建てになられたのですね。
>千:ここまで盛り立てたのは、婿の猪ノ吉の手柄です。私などは、今では隠居も同然。・・・唯(ただ)無鉄砲なだけだったあの頃が懐かしいようです。
>純:そんなことを仰らないでください。職を失った市毛とは違うのですから、千場様には益々名を轟(とどろ)かせて頂かなくてはいけません。
>千:はは。そのような大それたことなど望んでは居りませんよ。
>純:なんの。曲形(まがりなり)にも指南役を務めるほどになった者から一本取ったお方ですもの。
>千:いや、きっと、私の珍妙な型に戸惑いなさったたけのこと。「上手の手から水」というやつですよ。
>市:そんなことは御座らん。千場殿の強さは、立ち会った拙者が一番分かっております。

>熊:あの、皆様の譲り合いの精神ってやつは美しくて結構なんですが、それじゃあ切りがありませんや。親方たちがどうして奥方様とご一緒してるのか、その訳を聞かして頂けませんか?
>純:そうでしたね。・・・どういうご縁かは分かりませんが、市毛が田原屋さんのご主人に頼み事をしてあるというので、どういう経緯(いきさつ)なのかと聞いて回っておりました。そうしたら、娘の聡の婿探しだというではありませんか。なんと早まったことをするのかと、更に足取りを追いまして、今朝ほどやっと源五郎様のところに行き着いたのです。そこへ、市毛が然(さ)る道場に出掛けたという報せが来ましたので、慌てて源五郎様に案内を願い出たのです。
>熊:なあるほど。・・・で、親方?
>源:なんだ?
>熊:親方はどうしなさるお積もりなんですか?
>源:俺たちが係(かかず)らっていても良いことなのかどうか決めて貰って、もうこれ以上出しゃばるなということなら、引き下がるべきだろうな。
>熊:そうですよね。元々が田原の父つぁんの尻拭いですからね。しないで良いんならそれに越したことはねえですよね。
>市:待て待て。それでは話が違う。
>純:あなた! 大概になさいませ。ご自分で探せないものを昨日今日会ったばかりの源五郎様に委(ゆだ)ねようというのがそもそも筋違いだとはお思いになりませんか?
>市:それはそうだが・・・
>千:まあまあ、そう邪険になさらずとも良いではありませんか。少なくとも、拙者を市毛殿や奥方様と引き合わせてくださったのです。私は良い縁を取り持ってくれたと感謝しておるのです。
>市:そうなのだよ、純。私の願いの半分はここでこうして叶ったのだ。ある意味では、田原殿に頼んだ甲斐(かい)があったというものだろう。
>熊:いっそのこと、お嬢さんのお相手もここで見付かっちまえば、万万歳なんですがね。この道場には、おいらたちなんかと違って、家柄も腕も学問も文句なしのお相手が50人から居るんですからね。

そうこうしているところへ、八兵衛たちが戻ってきた。
連れてこられた市毛の娘は、見るからに若く、ともすると、お咲やお夏と変わらない年頃かも知れない。

>聡:あら、母上までいらしたんですか? お揃いで結構なことね。
>市:これ、無作法な。先ずこちらへ座って、ご一同にご挨拶せぬか。
>聡:はーい。

聡は、ちょこまかと走ってきて、母親の脇にすとんと座り、「聡です。お見知り置きを」と言い、にっこり笑った。

>千:市毛殿、不躾(ぶしつけ)なことをお聞きするようですが、ご息女は幾つになられるのですか?
>市:間もなく、数えの17になります。長いこと子宝に恵まれませんで、やっと生まれた娘なものですから、少々甘ったれに育ててしまいました。
>千:差し出がましいようですが、婿探しの件はそれほど慌てなくとも良いのではないですか?
>市:いや、拙者も間もなく50になろうとしております故、少しでも早くに婿を取り、男子を儲(もう)けさせ、市毛の名を継がせたいと思って居るのです。ご忠告は尤もなのでしょうが、我が家の事情故、干渉はご無用に願いたい。
>八:あの。
>市:何かな、八兵衛殿?
>八:道々伺ったんでやすがね、お嬢様は婿を取るんじゃなくて嫁に出たいって仰ってるんですが。
>市:なんと。本当なのか、聡。
>聡:そうよ。だって、父上が家に居るようになってからこっち、母上が嬉しそうなんですもの。あたしがいなくなれば、夫婦水入らずで楽しくしていられるでしょ? あたしだって、お邪魔虫でいたくないくらいの分別はあるのよ。
>純:まあ、この子ったら。
>市:そのような本末が転倒したことを申すでない。武家は御家(おいえ)があってこそ。立派な殿御(とのご)を得て立派な後継ぎを生(な)すことだけ考えて居れば良いのだ。親夫婦のことがどうであろうと、子供はそのようなことを考えなくとも良い。
>聡:あら。そんなことで良いんなら、10年くらい懸けて、ゆっくりと立派な殿御を探すわ。父上たちが亡くなったって市毛の血が絶える訳じゃないんだもの。
>市:理屈を捏(こ)ねるのではない。

>千:はっはっは。娘御に掛かっては、剣豪の市毛殿も形無しですな。
>市:千場殿、笑い事ではありませんぞ。
>八:そういうのを、「河豚は食いたし命は惜しし」って言うんですよね。
>熊:お前ぇ、ほんと、食い物のこととなると、知らなくても良いようなことまで知ってるな。
>八:だから言ってんだろ。分からないことがあったらこの「八兵衛殿」に聞けってよ。
>熊:何を言ってやがる。「人は死して墓を残す」なんて言ってるやつがよ。
>八:なんか間違ってたか?
>熊:「虎は死して皮を残し人は死して名を残す」ってんだ。尤も、お前ぇなんぞには、残せる名誉も財産もねえだろうけどよ。
>八:流石(さすが)の「八兵衛殿」だって、100遍に1遍くらい間違うさ。

>聡:あはは。八兵衛さんって、面白い人ね。それから、相方(あいかた)の人も。
>熊:「相方」って、おいら三味線弾きかなんかじゃあねえんですけど。
>聡:言葉の文(あや)よ。・・・でも、お2人みたいな面白い人と夫婦(めおと)になれたら、一生楽しいでしょうね。
>熊:からかうのは止(よ)してくださいよ。おいらたちだって二六時中(にろくじちゅう)頓珍漢(とんちんかん)なことをやってる訳じゃねえんですから。
>八:何言ってやがる、大工は毎日トンテンカンやってるじゃねえか。
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