第17章「能天気八兵衛の空腹(仮題)」

155.【き】『騏驥(麒麟・きりん)も老(お)いては駑馬(どば)に劣(おと)る』
(2002/11/18)
『麒麟も老いては駑馬に劣る』
優れた人物も、年老いてしまったら、その働きや能力が普通の人(凡人)にも及ばないようになる。
類:●昔千里も今一里●A genius grown old becomes worse than mediocre.(老いぼれた天才は凡人より厄介だ)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
反:●腐っても鯛亀の甲より年の功
参考:戦国策−斉策・閔王」 「騏驥之衰也、駑馬先之、孟之倦也、女子勝之」 名馬でも老衰すれば、その辺のつまらない馬にも負けるようになる。
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「改革」とは名ばかりの寛政の時代を終えたが、庶民の暮らしは一向に豊かになっていなかった。
幕府が頭を痛めている問題は、高利貸し化した札差(ふださし)の台頭と、旗本や御家人が慢性的に抱え込んでしまった不良な借財であった。
米以外のもの全ての値段が高騰して、日々のおかずにさえ
気を遣うような有り様である。

>鴨:まったく、俺みてえな半端(はんぱ)役人だって、いただく扶持(ふち)を銭に替えなきゃならねえ。それがどうだ? 米が安いから碌(ろく)な額にもなりゃしねえ。
>熊:真逆(まさか)、お前ぇも札差から借金してるんじゃねえだろうな?
>鴨:あのな、役人が銭を必要とするときってのはな、誰かに袖の下を渡すときなのさ。俺に、そんな気を起こす要領があったら、今頃こんな縄暖簾(なわのれん)で大工相手に酒を飲んでたりしやしねえ。
>熊:それもそうだな。
>八:なあ鴨の字よ。そんな札差に、お上はなんにもできねえのか?
>鴨:お上に何ができるってんだ? でかい声じゃあ言えねえが、一番放蕩(ほうとう)の限りを尽くしてるのが上様なのさ。下々のことなんかお構いなしよ。
>八:斉(なり)ちゃんがか? そいつはいけねえな。一遍びしっと言ってやんねえとな。
>鴨:誰だその「なりちゃん」ってのは?
>八:決まってんじゃねえか、将軍様だよ。家斉ちゃん。
>鴨:随分と馴れ馴れしい呼び方をするじゃねえか。それになんだ? 「びしっと言ってやる」が聞いて呆れるぜ。
>八:おっ、信じねえのか? なんなら一遍引き合せてやろうか?
>鴨:何を言い出しやがるんだか。・・・おい熊五郎、お前ぇも黙って聞いてねえで留めるもんだぜ。
>熊:仕様がねえだろう。丸っきり嘘って訳じゃねえんだからよ。
>鴨:なんだと? 冗談も休み休み言えってんだ。一国の頂点に御座(おわ)すお方が、大工ごときと知り合いの筈が・・・。本当なのか?
>熊:内房のご隠居さんが連れてきちまったんだ。仕方ねえだろ? 向こうが勝手に来ちまったんだからよ。
>鴨:嘘だろ? 俺だって、顔も拝(おが)んだことがねえってのに。

天保14年(1789)に『棄捐令(きえんれい)』という御触れが出されていた。借金棒引きの御触れである。
しかし実情はというと、二度と借りられなくなることの方が重大事だったらしく、救済される筈だった旗本たちは、逆に大打撃を受けていた。

>八:偉い人らが考えてやっても、駄目なことってあるんだな。
>鴨:偉い人らにゃ下々のことが分からねえ。下々の者らにゃ上の人らの思惑が分からねえ。所詮、無理してやる改革なんてものは、必ず綻(ほころ)びができるもんなのさ。
>八:何をやっても無駄ってことか?
>鴨:さあな。庶民の暮らしが苦しいってことは、どっかに贅沢(ぜいたく)してるやつらがいるってことだからな。そこから搾(しぼ)り取らねえ限りはどうしようもねえんだろうな。
>八:倹約しろってのがお上のお達しなんだろ? 贅沢してるやつらなんかいるのか?
>鴨:そりゃあいるさ。幕閣然(しか)り、賄賂(わいろ)を取ってる役人然り、豪商然り、豪農然りだ。ごろごろいるじゃねえか。
>八:なるほどな。こちとら波銭(4文銭)1枚稼(かせ)ぐのにひいひい言ってるのに、山吹色がざくざく唸(うな)ってるって訳か。・・・ってことはよ、千人のうち1人が笑ってて残りがみんな泣かされてるってことか?
>鴨:そういうこったな。千人から波銭1枚集めれば1日で4千文だから1両、10日で10両、1年で360両、10年で千両箱3つ半、・・・きりがねえ
>八:へえ、千両箱3つ半は凄(すげ)えな。・・・だがよ、おいらは1日4文なんか払っちゃいねえぜ。
>鴨:それがな、実は払っているのさ。運上金(うんじょうきん)ってものはそういうものよ。年貢(ねんぐ)ばかりが租(そ)じゃあねえ。今度棟梁にでも聞いてみな。
>八:へえ、そうなってるのか。全然知らなかったぜ。・・・でも、いただく銭が変わりねえんなら、まあこのままで良いかな。
>鴨:そうやって、知らねえうちに取られてるのよ。口の悪い言い方をすりゃあ、掠(かす)め取られてる訳だ。租税が安くなりゃあ、今よりももっと暮らし向きは楽になる筈なんだがな。
>八:そうなのか? もっとたくさん貰えるんならその方が有難えな、確かに。
>熊:何をのんびり構えてやがるんだか。おいらたちも好い年扱(こ)いてるんだから、ちっとはそういうことに興味を示せってんだ。
>八:そうは言うが、おいらは良いや。その日その日を面白可笑しく生きていられりゃ十分さ。
>熊:いつか一本立ちして弟子を抱えるようになってから吠え面掻くんじゃねえぞ。
>八:そんときゃそんときよ。おいらみてえな弟子ばっかり集めときゃ、誰も文句なんか言って来ねえさ。
>熊:その前に潰(つぶ)れちまうっての。

>八:なあ熊よ、そもそも、おいらたちはなんでこんな話をしてるんだっけ?
>熊:そりゃあ、お前ぇが河豚(ふぐ)の鍋を食いてえなんて言い出すからだろ?
>八:そうだったな。一度で良いから食ってみてえよな。刺し身でも良いがよ。
>熊:毒にやられて死んじまうぞ。だからよ、貧乏大工はここで粗煮(あらに)を突付いてるのが似合いだってんだ。ほれ、良い具合いに大根に味が染みてんだろ?
>八:同じ粗でももう少し身の付いたやつにして貰いてえもんだぜ。親爺の野郎、相当けちってやがるな。
>熊:どこもかしこも不景気ってこった。ここの親爺に限ったことじゃねえだろ。
>鴨:いつになったら金回りが良くなるのかねえ。
>熊:お前ぇも愚痴ばっかり零(こぼ)してねえで、有り難く食いやがれ。
>鴨:魚の骨をしゃぶりながら、安酒を上げ底の銚子で3合か? ああ情けねえ。
>熊:悔しかったらお前ぇも袖の下を取りやがれ。
>鴨:そんなことできるかよ。
>熊:それなら、手に職を持った嫁でも貰って、共働きして小金でも貯めろ。
>鴨:落ち零れ役人のところなんか誰が来るってんだよ。咎人たちから怨まれこそすれ、好意を持たれたことなんか生まれてこのかたありゃあしねえ。
>熊:そこまで卑下することもねえだろ? なんなら、口利きしてやらねえでもねえ。
>鴨:止せったら。混ぜっ返すなってんだ。
>八:やい熊、誰か良いのがいるのか? それなら、おいらを先にするのが義理ってもんだろ?
>熊:残念ながら、八には合いそうもねえ娘なんだ。また今度な。

6つ半にお夏が来ると、鴨太郎は居心地悪そうにもぞもぞし始めた。
「帰って寝るかな」などと言い出すところを、熊五郎が無理矢理引き止めて、追加の銚子を2本頼んだ。

>夏:あら鴨太郎さん、珍しいわね。ここいらで捕物でもあったの?
>鴨:いや、別にそんなものありゃあしねえさ。
>熊:お夏坊の顔が見たかったんだとよ。
>夏:まあ。ほんと? お愛想でも嬉しいわ。
>熊:嬉しいってよ。良かったな。
>鴨:好い加減にしやがれ。偶(たま)に暇ができたから昔馴染みの顔を見にきてやっただけじゃねえか。勝手に変なことを言い出すな。
>熊:まあ良いじゃねえか。・・・なあお夏坊。鴨太郎ったらよ、大工相手に役人と札差の話しなんかしやがるんだぜ。
>夏:ははあ、それで不景気な顔をしてるの? 止めてよね、こっちまで不景気になっちゃうじゃないの。・・・そういえば、なんとかいう学者先生が高利貸しとか両替商をどうとかするって言ってたみたいだけど。
>鴨:ああ。竹上某(なにがし)とかいうお人だ。重鎮(じゅうちん)の面々は猛反対だそうだ。まったく勝手だよな。
>八:おいら、あんまり小難しい話は分からねえがよ、その先生は世の中を良くしようとしてるのか?
>夏:そりゃあ良くしようとしてるんじゃない。これ以上悪くなって貰っちゃ困るわよ。
>鴨:さっきもこいつらに言ったが、世の中の金回りを無理して弄(いじ)くるのはあんまり感心しねえな。
>夏:あら、あたしは良いことだと思うわ。そりゃあ、札差とか両替商が全部悪いだなんて言わないけど、余計に
甘い汁を吸ってるのは間違いないものね。・・・知ってる? こんなご時世だっていうのに、両替商のお給金は役人なんかの3層倍なんですってよ。貰い過ぎでしょ? 儲け過ぎでしょ?
>鴨:お前ぇ、両替商に怨みでもあるのか?
>夏:別にないけど。兄上の3層倍貰ってるかと思うと悔しいじゃない。

>鴨:そうは言ってもな、こうも風当たりが強くちゃあな。・・・なんでも、川田塩十とかいう古株の重役がねちねちと難癖を付けてるらしいぞ。
>八:若年寄より古株なのか?
>鴨:川田に比べりゃ若年寄なんか小僧みたいなもんさ。
>八:それじゃあ「古年寄」だな。うん、相当偉そうだな。
>夏:全然偉そうじゃないけど・・・
>鴨:若い頃は偉かったが、上様の代が替わってからこっち、鳴かず飛ばずの状態だな。なにしろ一度隠居してたからな。
>八:そんなのが先頭に立っていびってやがるのか?
>鴨:ここぞとばかりに張り切ってるそうだ。年寄りの冷や水だってえの。
>八:内房のご隠居とどっちが偉い?
>熊:違うものを比べたって仕様がねえじゃねえか。何を聞いてるんだ? ・・・というより、そんなことを聞いてどうするってんだ?
>八:そりゃあ決まってるさ。一所懸命に良いことをしようとしてるのを邪魔するんじゃねえって、頭をぽかりとやってくるのよ。
>熊:止せってんだ。そんなことしたら首が飛ぶぞ。
>八:平気だよ。斉ちゃんが構わねえって言えば良いんだろ? 訳ねえさ。
>熊:いくら酔狂な将軍様でも、そんなこと、誰が許すかってんだ。
>八:そんなの聞いてみなくちゃ分からねえじゃねえか。・・・おいらはよ、自分じゃ何もやり始めねえ癖に、他人の文句ばっかり言っていやがる古狸気に入らねえの。古狸は古狸らしく、往生際良く鍋にでもなんでもなっちまえってんだ。
>熊:お前ぇ過激派か?
>八:なんだそりゃ?

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