153.【き】 『渠(きょ)成(な)って水(みず)至(いた)る』 (2002/11/05)
『渠成って水至る』[=到る]
「渠」は溝(みぞ)のこと。掘り割りができると水は自然に流れてくる。ものにはそれぞれ順序や段取りがあるということ。
*********

丈二は、お杉のためということもあって、翌日には「だるま」に沢田を連れてきた。
大方の話は納得(なっとく)の上だという。

>八:お前ぇもせっかちだねえ。そんなに張り切ることもねえじゃねえか?
>丈:だってよ、あんまり日が開いちまったら、奈良屋さんをしょっ引く訳にも行かなくなるじゃねえか。
>八:そりゃぁそうかも知れねえが、慌て過ぎるのもどうかと思うぞ。
>熊:まあ良いじゃねえか。それだけお杉坊への思い入れが強いってこった。な、丈二?
>丈:ま、まあな。・・・ああ済まねえ、沢田さん。こっちが八つぁんでこっちが熊さんだ。大工の腕はどうだか知らねえが、他人の面倒見だけは、間違いなく良いお人らだぜ。
>八:大工の腕も確かだがな。
>熊:沢田さん、こんな小汚ねえとこに来て貰っちゃいやして、申し訳ありやせん
>沢:いや、日頃から世話になっている丈二さんの頼みとあらば、どこへなりと出向こうというものだ。
>丈:相済みません。沢田の旦那。
>沢:旦那はなかろう。年は拙者の方が下なのだ。肩肘の張る呼び方はなしにして貰いたいものだな。
>八:よっ、伊達(だて)男。・・・この旦那は中々話が分かるな、丈二。こりゃあ頼りになりそうだ。
>沢:拙者にできることであるならば、できる限りのことはいたそう。

>熊:それで? 奈良屋の旦那さんのことは何とかできそうですかい?
>沢:聞けば人助けのための行ないだというではないか。それなら聞かぬ訳には行くまい? 早速(さっそく)上の者に話を通しておいた。そして、了承も得ておる。
>八:流石(さすが)切れ者。長谷川様の懐刀。よっ。
>沢:八つぁんは拙者のことを茶化しておるのか?
>八:とんでもねえ。もう尊敬頻(しき)り、羨望(せんぼう)しきりで御座いますとも。なあ熊?
>熊:お前ぇの話しっ振りが、どう聞いたって小馬鹿にしてるようなんだよ。
>八:仕様がねえだろう、生まれ付きなんだからよ。沢田さん、おいらは本当に心の底からそう思ってるんでやすからね。信じてくださらねえと、おいらここに火を点けて首括(くく)って死んじまいますぜ。
>熊:そんなことを言ってやがるから信が置けねえって言うんだ。
>沢:はは・・・。変わった人たちだね、丈二さん。
>丈:へへ。おいらも振り回されっ放しでやして・・・

沢田は、奈良屋庄助を引っ立てることは簡単なことだと言ったが、牢屋には隙間がないからほんの一時も留め置いてはやれぬと言い放った。
協力できるのは奈良屋から連れ出すところまでで、その後は勝手にやれということである。

>八:え? それっぱかししかやって呉れないんでやすか?
>沢:火盗にそれ以上何をさせようというのだ? 幾時も掛けて説教でもしろというのか? 幾人もの役人の手を煩(わずら)わせよとでもいうのか?
>八:そのくらいはするもんとばかり思ってやしたよ。然(さ)もなきゃ、三角材に座らせて石を抱かせるとか、棍棒で50回引っ叩(ぱた)くとか・・・
>沢:火盗はそのようなことはせぬ。庶民は何か勘違いをしているのではないか? いくら「鬼」と恐れられているお頭(かしら)がいるとしても、無実の者を拷問(ごうもん)などするものか。そのようなことをしようものなら、忽(たちま)ち若年寄様が捻じ込んでくるわ。
>八:へ? 堀田摂津守(せっつのかみ)
でやすかい?
>沢:ほう、若年寄様の名を知っているとは立派だな。案外捨てたものでもないかも知れんな。
>八:それで? なんで摂津守が捻じ込んでくるってんです?
>沢:そもそも火付け盗賊改めというところはだな、ご老中様直轄のものなのだが、先のご老中様が罷免(ひめん)されたのを機に堀田様の管轄となったのだ。今、堀田様には良からぬ嫌疑(けんぎ)が掛けられているせいで、身を慎(つつし)みたいときなのだ。そんな折りに直属の我らが何か世間の目を引くような事態を起こさば、堀田様の旗色が怪しくなるのは必定(ひつじょう)。そうならぬよう、躍起(やっき)になっておるのだ。
>八:おいらが聞いた話だと、若年寄は相当な悪(わる)らしいじゃねえですか?
>沢:これ、そのようなことを大声で言うものではない。

>八:悪者を取り締まる役の沢田さんが、悪者を庇(かば)うのって、どっか可笑しいんじゃありやせんか?
>沢:な、何を言う。
>熊:こら、八。勝手なことを言い出すんじゃねえっての。沢田さんだって答えられることとそうじゃねえことがあるだろう。
>八:答えられねえのは、後ろめたいところがあるからだろ?
>沢:そのようなことはない。我々は日々悪人退治を心掛けておる。なんの後ろめたさがあるものか。
>八:でも、若年寄の味方なんでやしょう?
>沢:味方ではないと申しておる。配下なのだ。
>八:悪者の配下ってことは、火盗は悪者揃(ぞろ)いってことでやすか?
>沢:話が飛躍し過ぎるぞ。・・・これでは、頼みごとをされに来たのか喧嘩を売られに来たのか分からぬ。
>熊:済いやせん、沢田さん。酒の上でのことだと思って、大目に見てくださいやし。・・・八、手前ぇも少しは穏やかに話せってんだ。
>八:おいらはいつだって穏やかだぞ。沢田さんが勝手に熱くなってんじゃねえかよ。
>沢:私がいつ熱くなったというのだ。
>丈:まあまあ、おふたりとも、頭を冷やしてくださいよ。おいらの祝言(しゅうげん)が賭(か)かってることなんだ。余計なことで、仲間割れなんか止しと呉れよ。
>沢:おお、そうであったな。いかんいかん。八つぁんとやら、今日のところは、丈二さんの顔に免じて、若年寄様の件は棚に上げるとしましょう。
>八:そうでやすね。沢田さんを責めたからってどうなるようなことじゃあねえですからね。済いやせんでした。
>沢:いや何、こちらの方こそ、痛いところを指摘されたので、ついつい意地を張ってしまったのだ。済まん。
>八:若年寄をどうやれば失脚(しっきゃく)させられるかなんて大それたことを、こんな小汚い縄暖簾(なわのれん)で話すもんじゃあねえですね。先ずは、悪事を働いたという確たる証(あかし)を探すことから始めるのが順序ってものでやすよね。そう容易(たやす)く済ませられるようなことじゃあねえ。
>熊:それ以前に、おいらたち大工風情(ふぜい)が関わる話じゃあねえんだけどな。
>八:そうは行くかよ。悪いもんは悪いんだ。知ってる以上黙って見てなんかいられるか。
>沢:まったくな、大工で置いておくには勿体ないな。
>熊:止してくださいよ。「火盗にならないか」なんて言わないでくださいよ。こいつ、益々逆上(のぼ)せ上がっちまいますから。

沢田は幾分かの歩み寄りを見せ、堺屋徹右衛門への引き渡しまで付き合うと約束して呉れた。
問題は、お咲が徹右衛門と顔を合わせるのを渋っていることである。

>熊:お杉坊のためなんだからな。
>咲:分かってるわよ。分かってるけど、気が進まないのよ。
>熊:そりゃあ、おいらだって気が進まねえさ。でも、仕方がないだろう。な? 頼むよ。
>咲:分かったわよ。でも、あたしは名乗らないわよ。どこの誰だか知れるのも嫌。これっきり二度と顔を合わせないで済むようにしといて貰わないと嫌よ。
>熊:大丈夫だって。ほんのちょっと顔を出して、ささっと引き上げちまえば良いのさ。
>咲:ほんとね? 裏切ったら承知しないわよ。

と、自分から言っておきながら、お咲は「それでは次の試練を与えます」から始まって「努々(ゆめゆめ)疑うこと勿(なか)れ」まで打(ぶ)ち上げて、徹右衛門をその気にさせた。
引き摺って帰ろうとすると、名残り惜しそうに徹右衛門に手を振りさえした。

>熊:お前ぇなあ。喜んでやってなかったか?
>咲:やってみると、案外面白いものね。また何かあったら言ってね。
>熊:もうねえっての。
>咲:だって、あたしのこと「菩薩様」って呼ぶのよ。勘違いでもちょっと嬉しいわ。
>熊:勝手に言ってろ。
>咲:あら熊さん。あたしに何か困ったことが起こったら力になって貰う約束(やくそく)だからね。それも、懇(ねんご)ろによ。
>熊:知るか。結局は1人で楽しんでやがったんだからよ。そんな約束はもうなしだ。
>咲:狡(ずる)ーい。

主(あるじ)がいなくなった奈良屋では、番頭の文吉を中心に、信用の取り返しと商(あきな)いの
巻き返しに取り組んでいた。
一時は、息子たちが舵(かじ)を取ろうと試(こころ)みてはみたが、結局、
手に余って放り出してしまった。
余りに不甲斐な引き下がってしまったので、お種・お実も、なんの手も打て
ず、唯、文吉の指図(さしず)に従うしかなかった。
文吉が乗り出すと、それまで文吉に信頼を寄せていた者たちが俄然(がぜん)張り切り出し、奈良屋はこれまでにない活気を見せ始めた。

堺屋に預けられた庄助は、朝寝も朝湯も止められて、丁稚(でっち)並みにこき使われていた。
2・3日も頑張れば、商いの面白味やお店(たな)の経営の醍醐味(だいごみ)に気付くかも知れない、気付かないかも知れない。
轍(わだち)の上に乗せてあげたのだから、やる気を出すかどうかは、本人次第ということだろう。

つづく)−−−≪HOME