122.【か】 『果報(かほう)は寝(ね)て待(ま)て』 (2002/04/01)
『果報は寝て待て』
幸運はそのうち自然とやって来るから気長に待つべきだということ。焦らないで待っていれば、良い報(しら)せはいつか必ずやって来る。
類:●待ては甘露の日和あり●Everything comes to those who wait.●The net of the sleeper catches fish.(寝ている人の網に魚が懸かる)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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罷免(ひめん)という話まで持ち出されては、小豆内海(しょうどうつみ)も、心中穏やかではない。
相手が、いくら町人どもとはいっても、男7人に囲まれては手も足も出ない。それに、案外、酔いが回ってきてもいた。

>八:旦那の話に出てきたその若年寄というのは、いったいどういうお方なんですか?
>小:将軍家の取り巻きだ。
>八:へ? 斉(なり)ちゃんの?
>小:なんと? 上様のことを、さも親しそうにそのような呼び方をするな。この罰(ばち)当たり目が。
>八:へへーんだ、罰なんか当たるもんですかっての。・・・そんなことより、その「お気に入り」は、もしかして、悪いお人なんですかい?
>小:儂(わし)の口から言うのもなんだが、相当な悪(わる)だ。大奥や寺社とも繋(つな)がって居る。
>八:うへえ、大奥ですかい? こりゃあ駄目だ。おいらもう、手を引かして貰いやす。
>熊:何を言ってやがる。将軍様が怖くもねえお前ぇが、どうして大奥と聞いただけで怖じ気付くんだ?
>八:怖じ気付いてる訳じゃねえんだよ。なんてんだろうな、おいらは、女の人には刃向かわねえって、決めてるんだ。
>熊:なんだと?

>八:だってよ、昔、近所のお福ちゃんの飴玉をくすねたことがあったんだがよ、向こう半年も盗人呼ばわりされたんだぞ。辻て会うたんびにおいら、飴玉を1個ずつ買わされたんだ。まったく、女って生きもんはよ、1のことに仕返しするのに1じゃ気が済まねえで、その上、腹の虫が治まらなきゃ、一生涯だって仕返しし続けるんだ。
>熊:そりゃあお前ぇ、相手が悪かっただけだろ。お福ちゃんならおいらも知ってるけど、利口なやつなら、端(はな)っから関わろうなんて思わねえよ。
>咲:そんな物凄い人なの? お福さんって。
>熊:ああ。長持(ながもち)を5つくらい積んで駆けてくる大八車みてえな女だ。近寄ったら跳ね飛ばされちまう。
>咲:体付きが?
>熊:それがよ、見た目は定吉んとこのお杉ちゃんと大して違わねえってんだから不思議だよな。
>八:お福ちゃんの話はもうもうそれくらいにして呉れよ。「噂をしたら影」なんてことになったらどうするんだよ。
>熊:そんな都合良く現われるもんか。・・・たしかお福ちゃんは、年季が明けてからどっかへ嫁に行ったんじゃなかったか?
>八:嫁になんか行くもんか。お前ぇ、なんにも知らねえんだな。
>熊:なんだよ。でも、もう何年も見掛けてねえぞ。
>八:だからよ、・・・。恐れ多くも、お、大奥に居るんだとよ。
>熊:なんだと? 将軍様はどっかとち狂ってるんじゃねえのか?
>八:だろ? ・・・折角、
厄介払いできたと思って安心してるとこへ、大奥の話だろ? おいら、「一抜けたぁ」だ。

お福のことを知っている熊五郎には、八兵衛の気持ちが分からぬでもなかった。
しかし、若年寄1人を懲らしめようとするだけで、大奥に関わろう筈もなし、況(ま)してその中の特別な1人と面と向かう筈など、殆ど在り得ない。
皆で寄って集(たか)って宥(なだ)め賺(すか)し、どうにか八兵衛を落ち着かせた。

>八:まあ、考えてみればそれもそうだよな。いくらその若年寄が繋がってるってったって、今回のことは大奥なんかよりもお寺の方が、よっぽど関係が深いもんな。
>三:そうでやすよ、八兄い。坊さんってったら揃いも揃って男でやすから、まったくもって障(さわ)りも何もありませんよね。
>四:当の若年寄ご本人も男ですから、言うまでもなく、大丈夫ですよね。
>八:そうだな。男ばっかりなら怖いものなんか1つもありゃしねえよな。よーし、この件は、どーんと八兵衛さんに任せときなさい。
>三:その調子その調子。
>熊:おいお前ら、八をあんまり調子付かせるんじゃねえぞ。後の始末に困る。
>八:何を言う。おいら抜きじゃ転がる車も転がり出しゃしねえだろ?

小豆の背後で糸を引いていた若年寄は、堀田という家の出で、代々摂津守(せっつのかみ)を務(つと)める者だった。
上役への取り入り方が巧く、おべっか・賄賂・女と、使えるものならなんでも使ってきたという。
胡麻擂(す)りで出世してきたということは、周りにそれを喜ぶ上役が蔓延(はびこ)っているということである。
熊五郎は、話が途方もない広がりを見せ始めたので、前途に不安を覚えた。
「これはちょっとやそっとじゃあ片付かない」
しかし、総元締めから申し渡された期限はあと3日。実質、丸2日と半日しか残されていないのだ。

>熊:ねえ、小豆様。こんな話を持ち出して申し訳ねえんですが、おいらたちの仲間になっちゃ呉れませんか?
>小:なんと? つまり、当初の話通りということか?
>熊:違いますよ。おいらたちは別に仕事に溢(あぶ)れてる訳じゃねえですし、小豆様が出世なさるって話も捏(でっ)ち上げなんです。
>小:なんと。・・・いや、矢張りそうか。そんなことじゃないかと思った。
>熊:もう一度お聞きしやす。仲間になっちゃあ呉れやせんか?

>八:おい熊、こんな使えそうもねえ飲んだくれを仲間にしたって仕様がねえんじゃねえのか?
>熊:お前、ご本人の前で、よくずけずけと言えるもんだな。
>八:こういう性分なの。
>熊:性格は仕方ねえとしても、これから力になって貰おうってお方をそんな風に言うもんじゃねえ。
>八:本当に力になるんならな。
>熊:止せったら。
>小:・・・いや、構わん。そう言われても仕方のない男だよ、儂は。おべっかも使えない、財産がある訳でもない、もし女があっても上役に渡すくらいなら自分のものにしたい。これじゃあ
(うだつ)が上がらないのも当然だ。
>咲:小豆様。それが分かれば十分なんじゃありませんか?
>小:分かったからと、どうなるものでもない。
>咲:違いますよ。自分の立っている位置が分かったということは、もうそこより悪い方へは行かないということです。そうじゃありませんか?
>小:そうなの、だろうか? ・・・お主のような娘に諭(さと)されようとはな。
>咲:あら、申し訳ありません。差し出がましい口を利いてしまいました。
>小:とんでもない。儂には、お主が如来のように見えて居るわ。

>八:お咲坊、天女の次は如来様だとよ。まったく、世の中の男どもはいったいどこに目を付けてるんだろうな?
>咲:八つぁん!
>八:はは。ちょいとばかし調子に乗り過ぎたか? ・・・なあ四郎、小豆の旦那みたいなのを「解脱(げだつ)」っていうのかな?
>四:ちょっと違うようですが、煩悩(ぼんのう)のことを「盆の法事」とかって言ってる人よりはよっぽど近いようです。
>八:なんだお前ぇ、あん時は寝てたんじゃなかったのか?
>四:寝てました。さっき、番町へ向かいがてら三吉から聞かされたときは、腹の皮が捩(よじ)れるかと思いました。
>八:お前ぇ、もしかして、おいらのことを馬鹿にしてるのか?
>四:滅相もない。大受けするほど気の利いたことを仰ったんですよ、八兄いは。
>八:そうか? そんなに気が利いてたか? そうかそうか・・・

武士たるものが大工どもの仲間になぞなってどうするのかと、最後まで抗(あらが)い続けていた「体面への執着」がぽろりと落ちた。

>小:なんだか、お主たちの話を聞いていると、出世とか妻帯とかに躍起(やっき)になっている自分が、矮小(わいしょう)な存在に思えてくる。
>熊:仲間になっていただけるんでやすね?
>小:儂はこれまで、潔(いさぎよ)い一生とは、1つの目標だけに向かって形(なり)振り構わず邁進(まいしん)するものとばかり考えて居った。同僚は皆競争相手で、如何に有力な伝手(つて)を手に入れるかで、将来が違ってくるとな。・・・しかし、気付かぬうちに変わってしまっていたのだ。手を差し伸べてくれていた同僚の手を打ち払い、有力者からは良いように捨て駒にされる。そんな男に成り下がって居った。現状にしがみ付いて、「安定こそが潔し」と考える男にな。
>熊:小豆様・・・
>小:済まん。酒を食らって愚痴を垂れるようじゃ、老い先も知れたものだな。そうよな。どうせ短い人生なら、お主らに賭けてみるのも悪い選択ではないな。一生に一度くらいは良い転機が向こうの方から訪れるときがあるものだ。
>熊:有り難う御座います。
>八:あーあ、また、むさ苦しいのが増えちまったか。

>小:それで、拙者はこれからどうすれば良いのだ?
>熊:今日のところは一旦お帰りください。
>小:帰っても良いのか? もしかするとこのまま、彼(か)のお方のところへ駆け込むかも知れぬのだぞ?
>熊:そんなことなさる道理はありませんや。
>小:どうしてそう言い切れるのだ?
>熊:そんなの口じゃあ説明できませんや。四郎、お前ぇはどう思う?
>四:へい。夕刻にお屋敷の木戸から出てきた小豆様より、すっきりしたお顔をしてるように思います。・・・こんな答えで良う御座いましょうか?
>小:まったく、お主らという者どもは・・・
>熊:それでは、明日、早い時間にお迎えを遣りますので、ご同道ください。何分にも、お年寄りは朝がお早いものですんで。
>小:お年寄りとは?
>熊:内房のご隠居様です。
>小:なんと。あの煩型(うるさがた)のか? 先ほどその如来様が言っていた「後ろ盾」というのは、内房老人のことなのか?
>熊:まあ、そう思ってくれても構わねえですし、もっと別のを出して欲しいってんなら、そうもいたしましょう。
>八:おいらの友達なんですぜ。凄いでしょ? 「臭(くさ)い仲」ってやつで。

小豆は、千鳥足にもならず、真っ直ぐ歩いて帰っていった。
夜道を素面(しらふ)同然で歩くなど随分久し振りだと、北叟笑(ほくそえ)んでしまっていた。
若年寄からの呼び出しにどきどきさせられることもなく、今夜はぐっすり眠れそうだと考えていた。もしかすると、明朝目覚めたとき、自分が別の人間になっているのじゃないかと、信じ込みたい気分だった。

>八:なあ、熊よ。小豆の旦那を仲間に引っ張り込むなんて、お夏ちゃんの筋書きにはなかったじゃねえかよ。
>熊:まあ堅いことを言うな。要は、寝正月を決め込んでる親方と、棟梁とに難が及ばねえようにすりゃ良いんだろ?
>八:本当に大丈夫なんだろうな?
>熊:多分な。
>八:多分なじゃ困るじゃねえかよ。布団を引っ被ってる親方だって、それこそ「枕を高くして眠れねえ」ってもんだよ。
>熊:分かってるよ。・・・けどよ、この一件はよ、一筋縄じゃあいかねえぞ。なんてったって、若年寄だからな。下手をすりゃあ、おいらたち全員の首が飛ぶんだぞ。
>八:真逆。高(たか)が「爺(じじ)いと呼ぶにはちょっと早い年寄り」だろ? なんてこたあねえやな。
>熊:「若年寄」ってのはだな、ご老中の直ぐ下の役職の名前だってんだ。
>八:なんだそうなのか? おいらまた、いつか大きくなれるって夢を持ったまま年食っちまった人なのかと思ったぜ。そうか、そりゃあ良かったな。大きくなるどころか、偉くなっちまったじゃねえか。長く待ってりゃ良いこともあるってことだよな?
>熊:そういうことなじゃねえだろ。
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