123.【か】 『剃刀(かみそり)の刃(は)を渡(わた)る』 (2002/04/08)
『剃刀の刃を渡る』
失敗したら大怪我をするような、危険な行動をすることの喩え。
類:●刀の刃を歩む●薄氷を踏む氷を歩む氷を踏む
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正月2日、朝。
三吉と四郎が迎えに行くと、小豆内海は身繕(みづくろ)いを済ませ、無精髭も剃り、すっきりした顔で待ち受けていた。
腫(は)れぼったかった赤ら顔から酒気が失せているせいか、昨晩より幾歳か若返ったように見受けられた。

>小:内房のご老人は、矢張り、風体(ふうてい)とか姿勢に煩(うるさ)いのであろうな?
>三:ご隠居さんがですか? いいえ。全然でやす。
>小:しかし、上様にご意見なさるほどのお方、下手な格好なぞしては伺えまい。
>三:「ご意見番」とは言われてやすが、結局は、旅籠(はたご)の隠居ですぜ。気にしなくても大丈夫ですって。
>小:そうか? ・・・しかし、なんとも、心配ではあるな。
>四:小豆様。昨夜、八兄いが「臭い仲」って言ったの覚えてらっしゃいますか?
>小:どういう間柄なのだ? 真逆・・・
>四:いえ、大したものじゃあないんです。八兄いが厠(かわや)を借りに行ったら、偶々(たまたま)開けた雪隠(せっちん)にご隠居がしゃがんでらしたそうなんです。それだけですよ。
>小:それで、「臭い仲」なのか? 八兄いというその方(ほう)らの上役はまったく変わって居るのう。
>三:ですがね、雪隠で鉢合わせしてから、世間話をし始めたら、豪(えら)く気に入られちまって、今でも月に2、3遍はお茶を飲みに行くんですぜ。
>小:ほう、それは凄い。
>四:そんなご隠居ですから、どうぞ、お気兼ねなくお振る舞いください。
>小:そうか。それなら、一安心だが。
>三:でも、お侍(さむらい)様には厳しいかも知れませんぜ。びしいーっと、やられるかも知れませんねえ。
>四:こら、三吉。折角(せっかく)緊張を解(ほぐ)そうとしてるのに、それじゃあ元の木阿弥じゃねか。
>三:済みません、旦那。揶(からか)っただけですって。八兄いが一緒に居れば、いつだってにっこにこなんですから。
>小:意外に、頼りになる上役なのだな、八兄いというのは。
>三:ご冗談でしょ。

内房の旅籠には、熊五郎八兵衛以下、五六蔵、太助、与太郎、そしてお咲とお夏が勢揃いしていた。
旅籠だけに、広い部屋なら幾らでもある。
内房老人は、「至福」と言わんばかりに顔を綻(ほころ)ばせていた。

>内:正月2日から、賑(にぎ)やかで結構ですね。隠居の年寄りのところになんか、そうそう客など来るもんじゃないんですがねえ。なんだか、盆と正月が一緒に来たようです。
>八:ご隠居、お盆がこんな寒いときだったら、ご先祖様の霊も寒くて適(かな)わねえじゃねえですか?
>内:ほっほっ。喩(たと)えですよ。嬉しいことが2倍来たということです。
>八:なあんだ、そういうことですか。おいらまた、正月にも魂が戻ってくるんじゃねえかとはらはらしちまいましたよ。
>内:魂というものは、季節や刻限に関係なくそこいらにあるものです。盆に限ったものじゃないんですよ。
>与:そうですよ、八兵衛さん。三吉さんたちは、お菊さんを見てきたってことですから。
>八:なんだいそりゃ? 菊人形は秋だろ?
>内:・・・なるほど、皿屋敷ですね。そう言えば、小豆内海の役宅は番町でしたね。八つぁん、中々面白い芝居ですよ。肝の細い人には、それどころじゃないんでしょうけどね。
>八:ああ皿屋敷って、女の幽霊の話ですよね? おいら、どうも駄目なんですよね。
>内:おや、八つぁんは幽霊が苦手なんですか?
>八:いやあ、お化けくらいなんてことありませんや。おいらが怖いのは、恨みを持った女ですよ。どうにも始末が悪い。
>内:おや、女好きの八つぁんにしては珍しいことを言い出したもんですねえ。どういう
風の吹き回しです?
>八:お福ちゃんっていう「禍(わざわい)の元」が居たっていう、そんな下らねえ話ですよ。
>内:はて、お福さんですか? つい最近聞いた名前ですね。
>八:そうでやすか。そいつは奇遇ですね。似たような名前なら幾らでもありますからね。
>内:そうですね。私が聞いた話は、大奥のお福の方ですから、関係ある筈はありませんよね。
>八:な、なんでやすって?
>熊:ご、ご隠居。真逆そのお福様ってのが、今回の一件に絡(から)んでるなんて訳はありませんよね?

内房老人が聞いてきた話では、どこぞの寺の住職と密通しているという話だった。
大奥のお方様たちは、代参(だいまい)りという名目で寺社を訪れ、小姓やら住職を侍(はべ)らせて、大いに息抜きをしているというのである。
中でも最も派手に振る舞っているのがお福の方で、その奔放さたるや目に余るものがあると、こういうことである。

>熊:そいつは、あのお福ちゃんに違いねえ。
>八:もしかして、堀田なんとかって若年寄と関係あるなんてことはねえですよね?
>内:なんと? 撫道の後ろに付いているのは摂津守だというんですか?
>熊:そうだって言ってました。
>内:うーむ。これは・・・・
>熊:微妙な問題になってきちまいましたね。
>八:ご隠居までそんな渋い顔なさらねえでくださいよ。なあに、ご隠居の手に掛かれば若い年寄りの1人や2人、ちょちょいのちょいでしょ? なんてったって、年寄りの年季が違いますもんね。

そこへ、小豆たち3人がやってきた。
小豆は畏(かしこ)まり、内房の前に、まるで潰(つぶ)れた蛙のように平伏した。

>内:まあまあ小豆様、お手をお上げくださいまし。町人相手にそのように遜(へりくだ)らなくても良いではありませんか。
>小:そうは申せど、ご老体は上様ご昵懇(じっこん)のお方。武家も同然、いや、それ以上のお方です故。
>内:そう持ち上げなくても良いではありませんか。ここは役所でもお城でもなんでもないんですから。
>小:しかし・・・
>内:しかしも案山子(かかし)もありません。黙ってお従いなさい。
>小:は、ははあっ。
>内:それがいけないって言うんですよ。まあ、直ぐに改めろとは言いませんから、もっと、お気楽になさいまし。・・・そんなことより、摂津守のことを聞かせてください。
>小:はっ、なんなりとお尋ねくださりませ。拙者にお答えできることでありますれば、包み隠さず申し上げ奉りまする。

予(あらかじ)め予想していたが、それにしても酷(ひど)過ぎる凶状の数々だった。
鼻の利く者はどこにでも居るということなのだろうか? それとも、類は友を呼ぶの言葉通り、集まってくる悪人はそこら中に居るということなのだろうか?
名前を挙げようとすれば、疑わしい者だけでも、錚々(そうそう)たる顔触れである。
今のところ、直接的には、やくざ者との繋がりは見られないが、末端では、間違いなくたくさんの「親分さん」たちが蠢(うごめ)いているのだろう。

>八:ねえご隠居。堀田って人が、とんでもなく悪い野郎だってことは分かるんですけど、生臭坊主なんか使って、いったい何をしようとしてるんでやすかね?
>内:味方を増やそうとしているのでしょうね。
>八:味方って、若年寄って肩書きがあれば幾らでも味方なんか居るでしょう? それに、役職を決めてるのは上様なんだから、考えようによっちゃ上様だって、仲間ってことになりゃあしませんか?
>内:はは。八つぁんにしちゃ珍しく、理路整然としたことを言いなすったね。・・・ですが、ちょっとだけ勘違いしてます。上様は特別なお方で、誰の味方もしません。そういうものなんです。
>八:はあ? なんだかさっぱり分かりませんが。
>内:分からなくても良いんです。・・・そんなことより、肝心なのは、誰を味方に付けようと画策しているかということです。
>八:誰なんで?
>内:八つぁんの良く知っている、お福の方なんじゃないかと思います。
>八:お福ちゃんなんですか? だって、元々はおいらんとこの近所に住んでた町娘ですぜ。
>内:出自がどうかなんていうことは関係ありませんよ。要は、今のお福の方がどれだけ力を持っているかということです。
>八:そりゃあ、昔っから物凄い力持ちではありやしたが?
>熊:そういう意味じゃねえって。つまりだな、どれだけのお侍を顎(あご)で使えるかってことだ。
>八:なんだと? お福ちゃんが顎の力も強かったのなんて、お前ぇ良く知ってるな。おいら全然知らなかったぜ。
>熊:そうじゃねえって。命令しただけで、お侍さんを使うってことだよ。

>八:するってえと何かい? お福ちゃんってそんなに偉くなっちまってるってことなのかい?
>熊:そういうことなんだろうな。
>内:まあ、町内で暮らすあなたがたにお城の在(あ)りようなど、耳にすることもないでしょうね。況(ま)して、大奥の事情は、表向きには秘密になっていますからね。
>八:へえ、そんなもんなんですかね? ・・・でも、上様のお手が付いたってだけで、どうしてそんなに偉くなれるんです?
>熊:真逆、お世継ぎを生んだってことじゃねえですよね。
>内:お子は産んでおられるが、姫様だそうです。ただ、どうしたことか、上様はこの姫様が殊の外お気に入りのようで、度々お福の方にお声掛けをなさる。周りの人たちは、お福の方を粗末には扱えなくなる。そういうことで、自然と取り巻きが増えてくるんですよ。

>八:でも、さっきご隠居が言ったような、不埒なことをしてるんでしょ? 駄目じゃねえですか。
>内:堀田のような者が、自分の味方に抱き込もうとして、「蜜(みつ)の味」を覚えさせるんです。見方によっては、被害者なのかも知れませんね。
>八:そんなこと言ったって、悪いことをしてるには違いねえんでしょう? 上様に言って叱って貰った方が良いんじゃねえですかい?
>内:そう簡単には行かないんですよ、八つぁん。
>八:ご隠居ならそんな面倒なことじゃねえでしょう? なんならおいらから斉(なり)ちゃんに言っても良いですよ。
>内:お福の方一人じゃ済まなくなるんですよ。例えばですよ、同じような「蜜」を舐めたことのあるお方様たち全員がお仕置きを受けることになったらどうします? お方様の中にはお大名の姫様だっていらっしゃるんですよ。それらが裏で図(はか)って「将軍家転覆」でも企ててみなさい。そうでなくても参勤交代に泣かされている藩は無数にあるんですからね、あっという間に戦国の世の中に逆戻りです。
>八:喩(たと)え話ですよね。そんなことになる筈なんかある訳ないじゃないですか、ねえ。ご隠居もお人が悪い。
>内:夢物語を話している訳じゃないのです。1つ歯車が狂うととんでもない方向へと転がり始めてしまう。幕府というものは、いつの世でも、そういう風に危なげに在(あ)るものなのです。

>八:ってことはですよ、お福ちゃんについては、おいそれとは手を出せねえってことでやすか?
>内:今のところは様子を見るしかなさそうですね。
>八:それじゃあ、布団を引っ被って寝てる親方たちはどうなるんです?
>内:そうですね、撫道とその徒党を懲らしめるくらいなら然したる問題はないでしょう。堀田にとって撫道どものことは、いつでも切れる「蜥蜴(とかげ)の尻尾」でしょうからね。
>八:するってえと、お福ちゃんの方は、切れると墜落しちまうってことで、「凧(たこ)の尻尾」でやしょうかね?
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