89.【お】 『鬼(おに)の居(い)ぬ間(ま)の洗濯(せんたく)』 (2001/08/06)
『鬼の居ぬ間の洗濯』
主人や監督者など、気兼ねしたり恐れたりする人がいない間に、十分に寛(くつろ)ぐこと。また、したいことをすること。
★ここでの「洗濯」は、「命の洗濯」のこと。
類:●鬼の留守に洗濯●When the cat is away, the mice will play.猫の留守にねずみが遊ぶ<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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あくる日の夕刻、なんにしろ顔見知りであることには違いないのだからと、八兵衛に引き摺られるようにして、熊五郎と太助は件(くだん)の旅籠(はたご)にやってきた。
またあんたかと、露骨に嫌そうな顔をしながらも、番頭は内房翁(おう)に取り次いで呉れた。

>内:おや、八つぁんでしたね。今日はお連れさんも一緒かい? さ、遠慮せずにお上がんなさいな。
>八:ご隠居さん。ちょいと頼みがあって来たんだけど、聞いて貰えねえかな?
>内:この年寄りにですか? もう萎(しお)れちまって、殆(ほとん)どなんにもできやしませんがね。
>八:とんでもねえ。こいつはご隠居さんじゃなきゃできねえ類(たぐい)のことなんで。・・・おい、太助、お願い申し上げろ。
>太:はあ。あの、おいら、野崎屋という絵草紙屋に雇(やと)われて、読売りをしてるもんです。
>内:ほうほう、読売りをねえ。近頃評判になっているそうですねえ。
>八:流石(さすが)ご隠居、まだまだ耳も達者ですねえ。
>太:それで、今書いている話が次の回で終わりになるんですが、その後に売れるようなものを載せないと、おいら首になっちゃいそうなんです。
>内:そうですか。お察ししますよ。ですがね、あたしは文士でもないし、面白い話を知っている訳でもありませんしねえ。
>太:そこでなんですが、お奉行様のお裁きなんかを、その儘(まま)載せようって考えたんです。それで、文章に直して呉れるお人を探していまして・・・
>内:へえ、それは中々良いところにお気付きですねえ。それで? それをあたしにってことですね?
>太:はあ。もし、お聞き届け願えれば、ということでして・・・
>内:そうですか。そんなことでしたら、お引き受けしましょう。
>太:は? 良いんですか?
>八:ほんとですか? 流石ご隠居、気風(きっぷ)も良いときてる。

>内:但(ただ)し、注文(ちゅうもん)が2つあります。
>八:給金のこととかですかい?
>内:はは、そうじゃないですよ。給金なんかこれっぽっちも要(い)りませんよ。
>八:これっぽっちもですか? おい、太助、こりゃあ儲(もう)かっちまったな。なんなら手間賃ってことでおいらが・・・
>熊:こら、八。
>八:へーい。・・・そんで? その注文ってえのは?
>内:先ず1つ。あたしは物書きじゃないですから、嘘やご愛敬(あいきょう)は書けませんし、書きたくもありません。そのまんまを堅苦しい文面でしかお出しできません。
>太:はい。事実をその儘というものにしたいと思ってますんで、それはその方が良いと思います。
>内:そうですか。では2つ目。あたしは老い先がそう長くありません。半(なか)ばで死ぬようなことも考えられない訳じゃありません。その日の為に、介添(かいぞえ)人のような者を予(あらかじ)め用意しておきたいんですが、その人選を一任して貰いたいんです。
>八:いつごろくたばりなさるんで?
>熊:八、縁起でもねえこと言い出すんじゃねえ。
>八:だって、本人がそう言うんだから・・・
>内:ほんとに面白いお人だ。八兵衛さんとこんな風に話ができるんだったら、まだまだ生きられそうですよ。
>八:そうですか? おいらで良いんだったらいつだって話に付き合いますよ。
>内:そうかい。そいつは有難い。そういうことでしたら、本当にこちらから頭を下げてお願いしたいくらいですよ。太助さん、この注文はいかがですか?
>太:はあ。ですが、たったこれだけの注文で良いんですか? もっと色々言って下さればできる限り・・・
>内:今回のことはね、年寄りにとっては何よりの薬なんですよ。生きる張り合いって言うんでしょうか? 有難いことですよ。

一行は、茶菓子まで出され、「以後出入り自由」の口約束まで貰って帰ってきた。

>八:な? 言った通りだろ? どうだ、おいらの有り難味が身に沁(し)みただろう。
>熊:何を言ってやがる。偶々(たまたま)ご隠居さんが良い方だったってだけだ。お前ぇの方こそ、仏様に感謝しとけ。
>八:ご隠居さんがくたばったら、せいぜいたんまりと香典を包むとしよう。
>熊:まだ言ってやがる。止(よ)しなさいっての。
>太:・・・あの、言い忘れたことがあるんですが。
>熊:何をだ?
>太:例繰方(れいくりかた)の与力か誰かを、引き合わせた方が良いかどうか、聞かなきゃいけなかったんじゃないでしょうか?
>熊:そうだな。
>八:馬鹿だね、お前ら。良いか? ご隠居さんはな、お奉行様と碁(ご)なんか打つ間柄なんだぞ。必要なら勝手にご自分でなんとでもするさ。
>熊:そりゃあそうかも知れねえが、礼儀ってもんもあるだろうよ。
>八:礼を欠いてんなら、あんなににこにこしながら引き受けたりしやしねえって。大丈夫。任せときゃ良いのよ。
>太:そうでしょうか?
>八:そうなの。万が一臍を曲げたら、この八兵衛さんが行って世間話でもすりゃあ、もう一発で御機嫌が良くなるさ。安心して飲みにでも行こうぜ。太助、前祝いだ。この間の銭はまだたんまり残ってるんだろ?

>熊:お前ぇ、まだ集(たか)ろうってのか? 言ってることとやってることが違うじゃねえか。
>八:あん時は、いつ次があるか分からなかったから貯めとけって言ったがよ、今度は間違いなく稼(かせ)げる話だからな。一寸(ちょっと)くらいお零(こぼ)れに預(あず)かったって罰は当たらねえよ。
>熊:だがな、考えてみろ。太助は幾ら稼ごうが一律の賃金しか貰えねえんだぞ。
>八:なんだと? ってえことは、おいらたちは骨折り損ってことか?
>熊:情けねえことを言うんじゃねえ。同じ長屋の太助が助かるんだ。この上なく目出度(めでて)えことじゃねえか。
>八:あーあ、ほんとに情けねえ。
>太:分かりました。今夜の飲み代(しろ)はおいらが出します。それで気分を直してください。
>八:端(はな)っからそう言ってりゃあ良いんだよ。なにも一生集ろうって訳じゃねえんだからよ。

「だるま」に入るなり、お咲がつかつかと寄ってきた。

>咲:今まで何処(どこ)ほっつき歩いてたのよ。探してたのよ。
>熊:なんか良くねえことでもあったのか?
>咲:その逆、・・・なのかな? あやさんが産気付いたみたいなの。棟梁からの遣いが来たわ。
>熊:そうか。良かったじゃねえか。何も慌(あわ)てるようなもんじゃねえだろう?
>咲:何言ってるのよ。熊さん、勘定もできないの? 月足らずなのよ。1月も。
>八:それって、大変なことなのか?
>咲:何を暢気(のんき)なこと言ってるのよ。お産っていうのはね、普通のときだって危ないもんなんだからね。
>八:そうなのか? 菜々ちゃんは安産だって太鼓判捺(お)してたけどな。
>夏:そうよ。大丈夫。
>咲:あんたまだここに居たの? 見に行ってって言ったじゃない。
>夏:だって心配ないもの。でも、むしろ、親方の方は心配かもね。
>八:お産って父親(てておや)の方も危険なのか?
>夏:そんな訳ないじゃない。おろおろしちゃってるのが目に浮かぶようよ。初産(ういざん)は刻(とき)が掛かるから、下手すると今夜は一睡もできないわね。明け方近くになって産まれて、母子共にぴんぴんってことになるでしょ? 稚児(ややこ)を見た途端安心しちゃって、そのまんまぐっすりよ。
>八:目出度し目出度しだな。・・・そんじゃあよ、明日はよ、親方は休みだな。・・・なあ熊、明日は暇だしよ、昼前に現場を片付けちまってどっかへ羽を伸ばしに行かねえか?
>熊:まったく、お前って奴は・・・

>咲:あんたたち、どうしてこんなときにそんな冗談話ばっかりしていられるの? もっと心配してなさいったら。
>夏:まるでお咲ちゃん本人の稚児が産うまれるみたい。
>咲:産む本人なら、こんなにはらはらしちゃいないわよ。
>夏:それなら大丈夫よ。あと2・3年もしたら、そうなるから。
>八:それってなんだ? 熊との稚児ってことか? ・・・やい熊、お前らもうそんなことになっちまってるのか? おいら許さねえぞ。
>咲:あんたら、なんてこと言ってるのよ。もう、あたし帰る。
>夏:熊お兄ちゃん、送ってあげたら?
>熊:大概にしとけよ。まったく、鹿之助が聞いたら泣くぞ。・・・見ろ、太助が呆れ返っちまってるじゃねえか。なあ?
>太:はあ。あの、そこいらの瓦版なんかより、よっぽど面白いなって思っちゃいまして・・・
(第9章の完・つづく)−−−≪HOME