60.【う】 『牛(うし)を馬(うま)に乗(の)り換(か)える』 (2001/01/15)
『牛を馬に乗り換える』[=乗り替える]
劣った方を捨てて、優れた方に乗り換えること。好都合な方に便乗(びんじょう)すること。
反:●馬を牛に乗り替える
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場が落ち着いたところで八兵衛が、五六蔵弟子入りの一幕(ひとまく)を、最初から演じ始めた。
五六蔵以下、三吉・四郎も、恥ずかしがりながらも喜んで参加していた。
松吉は酔いのせいもあり、昼間のもやもやを忘れて楽しんでいるらしかった。
物語が終わり、「へえ、親方って凄(すご)い人なのね」という菜々の感想が出たところで、改めて乾杯となった。
表で頃合いを見計らっていた六之進が、やっと座に加わり、話題は、自然と菜々のことに移っていた。

>八:なあ菜々ちゃん、親方はまだ何も言ってこねえのかい?
>菜:ええ。暮れに向かって外での寄り合いも増えてるみたいだし、あんまり顔を合わせないの。
>八:忘れちまった訳じゃねえだろうな?
>熊:真逆(まさか)。自分の昼飯を忘れても弟子の用事を覚えてるって人が、忘れる訳ねえと思うぜ。
>八:そうだよな。でもよ、こと色恋に関してはまったく駄目なお人だからな。
>熊:姐(あね)さんに頼んどいた方が良かったかな、やっぱり?
>八:でもな、今はちょいとな。
>熊:そうだな。
>八:ここはおいらが腰を上げねえといけねえかな?
>熊:却(かえ)って心配だっての。なあ五六蔵?
>五六:へい。言わして貰って構わねえってんなら、心配でやす。
>八:なんだと手前ぇ、お前ぇはお愛想(あいそ)ってもんが言えねえのか。
>五六:自分のことならどうだってお任(まか)せできるんですが、なんせ妹の一生のことでやすから。
>八:そうか。そうだよな。・・・ああ、なんでこんな大事なとき姐さんはこんなことになっちまってるんだよ。
>菜:あ、お内儀(かみ)さんって言えば、そうそ、忘れてた。お咲ちゃんにって文(ふみ)を預かってきてたんだっけ。はい、これ。
>咲:あら、素早いわね。ちょいと失礼しますよ皆さん。あっちで読んできますんで。
>八:なんだよ。ここで読んだって良いじゃねえかよ。
>咲:あやさんとあたしの内緒(ないしょ)の話なの。
>八:嫌な感じ。隠されると益々気になっちまうじゃねえかよ。

あやからの文面はこんな内容のものだった。
「大丈夫。もう始まっちゃったんだから。無理に慌てさせちゃ駄目よ。ということで、親方とわたしにできることはここまで。菜々さんには明日にでも、媒酌役を安兵衛さんに代わって貰ったって伝えるつもり。なにしろわたしがこんな有様だから、ね。お義母(かあ)さんに聞いたらもう大丈夫そうだって。親方には今夜教えてあげるわ。熊五郎さんと八兵衛さんが近頃遠慮してるのは多分そのせいだろうから、そこでお披露目(ひろめ)しちゃっても良いわよ。それと、明後日辺りお夏ちゃんとお茶でも飲みにいらっしゃいな。塩煎餅(しおせんべい)を用意しとくわ。それじゃあ、宜しくね。」
あらもう退(ひ)いちゃうの? というのがお咲の印象だった。

>夏:菜々さんと誰が始まっちゃってるんですって?
>咲:何よ、盗み読み? 端たないわよ。
>夏:良いじゃない。あたしも来るようにって書いてあるじゃない。
>咲:分かったわよ。混ぜてあげるわよ。
>夏:そう来なくちゃ。で、誰?
>咲:あそこに居るわよ。当てて御覧なさい。
>夏:ははあ、成る程ね。お似合いね。五六蔵さんは知ってるの?
>咲:知らないから面白いんじゃない。当のご当人たちだって気が付いてないんだから。
>夏:そうなの。あやさんらしいやり方ね。あたしも後押ししちゃおっと。それで? 何をすれば良い?
>咲:何もしなくたって良いみたい。そう書いてあるでしょ?
>夏:それじゃつまらないじゃない。何かさせてよ。
>咲:そう言われてもねえ・・・。あ、そうだ。じゃあ、それとなく三吉さんとか四郎さんを嗾(けしか)けちゃってよ。
>夏:良いの? 本気になったら困ることになるわよ。
>咲:そうか。四郎さんなんか首を括(くく)っちゃうかも知れないもんね。やっぱり止(や)めよう。
>夏:八兵衛さんはどう?
>咲:駄目よ。まだお夏ちゃんに望みがあるかも知れないって思ってるんだから。
>夏:あたしに? ありゃまあ。困ったもんだ。
>咲:やっぱりあやさんが言うように暫(しばら)く放(ほう)っておくのが良いみたいね。
>夏:なんだ、つまんない。あーあ、あたしにも松吉さんみたいな人と引き合わせて呉れないかしら。
>咲:何言ってるのよ。鴨太郎さんがいるでしょ?
>夏:鴨太郎さん? だから、あれは父上が勝手に言ってるだけだって。
>咲:そう? それじゃあ、あたし乗り換えちゃおうかしら。お武家様だし、頼り甲斐(がい)あるし、父上が聞いたら飛び上がって喜ぶわ。
>夏:嫌な子ねえ。そんな気これっぽっちもない癖に。そんなんであたしに鎌を掛けたつもり?
>咲:ほうら揺(ゆ)れてきた。女心と秋の空ね。
>夏:勝手に言ってなさい。

お咲は文をお夏に渡して席に戻ってきた。
六之進は勧(すす)められるまま、着実に杯を重ねていた。

>咲:父上、もうそのくらいにしといたら?
>六:なあに今日は大丈夫だ。
>咲:それで? 今日の秘策ってなんだったの?
>六:ああ。ちょいと早稲田まで行ってな、田吾作っていう農民に頼んで牛の乳を分けて貰ってきたのだ。なんでも、酒の取り込みが少なくなるから酔い難(にく)くなるそうなのだよ。
>咲:だからって決まった量より多く飲んじゃ駄目でしょ?
>六:平気平気。さ、じゃんじゃん行こうではないか。
>咲:あーあ。松吉さん、今日も父上のこと負(お)んぶしてってね。
>松:はいはい。覚悟(かくご)の上。

>八:それはそうとお咲坊、姐さんからはなんだって?
>咲:あのね、稚児(やや)を授(さず)かったの本当だって。もう安全な頃合いになったから皆に教えちゃっても構わないって。
>八:ほんとか? ああ良かった。これで姐さんに会いに行けるな。
>熊:まったくだ。どうだ? この際だ、菜々ちゃんのこと、改めて姐さんにお願いしてみようぜ。
>咲:あ、そのことだけど、もうちょっと言うの待ってて。
>熊:どうしてだ?
>咲:ちょっとね、事情があるの。
>八:なんだよ。なんでいけねえんだ? 姐さんに任すのが一番間違いねえじゃねえかよ。
>咲:そりゃその通りだけど・・・
>八:お咲坊、お前ぇなんか隠してやがるな?
>咲:いいえ、別に。そういうことじゃなくって、もしかすると、菜々さんの方で誰か目星でも在(あ)るんじゃないかと思って。
>五六:お前ぇ、そういう奴が誰かいるのか?
>菜:嫌ねえ、五六兄ちゃんったら。いる訳ないじゃないの。親方に任せてるんだもの。
>五六:そうだよな。親方に任せてるんだもんな。
>八:けどよ、親方も稚児のこと聞いたらそれどころじゃなくなっちまうんじゃねえのか?
>五六:忘れられちまいやすか?
>八:ああ、忘れちまうね。だから、早いとこ姐さんに頼んどいた方が良いんじゃねえかっての。
>五六:でも、姐さんだってご自分が孕んでなさる訳だから・・・
>八:あそうか。姐さんもそれどころじゃねえか。こりゃあなんだぜ、もっと都合(つごう)の良さそうな人に頼み直した方が良いぜ。例えば、大家さんとかによ。
>熊:そんなの駄目に決まってるぜ。姐さんのときのことで懲(こ)りてんだろ?
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※お詫び 用法が好ましくありません。
「女心と秋の風」は、昭和以降に言われ始めたものとされています。元来は「男心と秋の空」として使われた言葉です。ご承知置きください。(上に戻る)