第34章「老いらく甚兵衛の鰯の頭(仮題)」

288.【た】 『棚(たな)から牡丹餅(ぼたもち)』
 (2005.06.13)
『棚から牡丹餅』
思いも掛けない幸運。労せずに幸運を得ることの喩え。
類:●棚牡丹(たなぼた)●勿怪の幸い●A windfall(A godsend)●pennies from heaven
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遂(つい)に梅雨(つゆ)入りしてしまった。五月雨(さみだれ)、である。
日も出ていないというのに、この蒸(む)し暑さはどうしたことだろう。なんだか、年を追うごとに気温が高くなっているようだ。
昨日から降り始めた雨は、降っては上がり上がっては降るといった具合いで、どっちつかずに彷徨(うろつ)いている八兵衛そのもののようだった。

>熊:得手公(えてこう)じゃあるめえし、そんな風にうろうろしてるんじゃねえ。
>八:そうは言ったってよ、ひとっところにじっとしてたら、尻から根っこが生(は)えてきちまうじゃねえか。
>熊:飲み屋に座ってるときには、しっかり根っこを生やしてる癖に。
>八:そりゃあ、目の前に酒やら食いもんやらがあるもんよ。ここにはなんにもねえじゃねえか。
>熊:まったく、手前ぇはなんでも食いもんだな。・・・手持ち無沙汰だってんなら、万吉と千吉に釘(くぎ)の打ち方でも教えてやって呉れよ。
>八:そんな、腹の足(た)しにもならねえようなことをしたってなあ・・・
>熊:けっ、やることがねえって言うから楽そうな仕事を宛がってやったってのに、その言い種(ぐさ)はなんだ。「腹の足しにならねえ」だと? そんなんじゃな、手前ぇは、いつになっても親方になんかなれやしねえ。
>八:何をぅ? それとこれとは筋が違うってもんじゃねえか。そもそもな、万吉と千吉は、手前ぇの弟子じゃねえか。自分の弟子には自分で教えやがれってんだ。
>熊:なんだと? 手前ぇは、いつから他人(ひと)の弟子には教えねえなんて尻(けつ)の穴の小せえ野郎に成り下がりやがったんだ?
>八:今日っからよ。・・・この腹の太(ふて)え八兵衛さんが、そんなけち臭(くせ)えこと言うもんかってんだ。・・・おいらは唯(ただ)、おいらが教えちまったら、親方であるお前ぇのやることがなくなっちまうだろうっ思たのよ。どうだ、有り難え話だろ?
>熊:ものは言いようだよな。怠(なま)けることに掛けちゃ、べろに油でも塗(ぬ)ったみてえに、良く舌が回りやがる。
>八:そういう受け取り方はねえと思うぞ。お前ぇのことを思えばこそなんだからよ。
>熊:そんなら、こっちの思い遣りも有り難く請(う)けやがれ。

>八:やだよーっだ。
>熊:・・・なあ八よ。玄翁(げんのう)の使い方に掛けちゃ、この辺じゃお前ぇが一番だって評判じゃねえか。頼むから、そいつを教えてやって呉れよ。こっちも下手(したて)に出てるんだからよ。
>八:何? そういう評判か? ・・・よう、三吉。お前ぇ、聞いたことあるか?
>三:勿論(もちろん)ですとも。町娘の間じゃその話で持ち切りですぜ。
>八:そ、そうか? 参(まい)ったねえ、どうにもこうにも・・・
>熊:教えてやって呉れるか?
>八:そうさな。そこまで言われてるってんなら、ほんのちっとだけ教えてやるとするか。・・・やい、不届き千万(せんばん)の迷惑千万。
>熊:そういう2人を一緒くたにして呼ぶのは止(や)めろってんだ。
>八:まあ良いじゃねえか。お互いが分かりゃ良いの。・・・なあ、恐縮(きょうしゅく)千万ども?
>熊:なんだ、少しは恐縮してるんじゃねえか。
>八:八兵衛さんはな、滅多(めった)なことじゃ、手解(てほど)きなんかしねえんだぞ。お前ぇらの親方が拙(つたね)えもんで、見るに見兼ねて教えてやるんだからな。
>万:よろしくお願いいたします。
>八:ほんとに有り難く思ってんだろうな?
>千:は、はい。恐悦(きょうえつ)至極(しごく)で御座います。
>八:おいらがそんな気になったのは、雨が降ってるせいだからな。そうでなきゃ、こんなことは引き受けやしなかったぜ。これも天の恵(めぐ)みだと思って、お天道(てんとう)さんに礼でも言うんだな。

>熊:礼を言うんだったら、雨雲にだろ? お天道さんに言ったら、晴れちまうじゃねえか。
>八:そのお天道様じゃねえよ。雲の上にいるとかいう神(かみ)さんのことだよ。
>熊:そんなもん、いるかってんだ。
>八:おっ、言ったな? そんなこと言ってて良いのか? 罰(ばち)が当たるぞ。なんでも、相当な臍(へそ)曲がりだって言うぜ。
>熊:そっちこそ酷(ひど)い言いようじゃねえか。
>八:そ、そうか? ・・・でもよ、神さんがよ、ぴかって光らすのは臍を取るためだってえじゃねえか。お前ぇ、臍を取られちまってから吠(ほ)え面(づら)掻くなよ。

熊五郎たちに乗せられて、八兵衛は、案外丁寧(ていねい)に玄翁の使い方を教えている。
その間に、熊五郎は源五郎のいる居間に上がり込んだ。

>源:よう。・・・どうだ、あの2人は使えそうか?
>熊:へい、どうにか。腰を据えて大工になろうとしてるようです。
>源:そうか。そりゃぁ良かったな。
>熊:それで親方、初めんときの話なんですが・・・
>源:ん? どの話だ?
>熊:万吉と千吉が大工になることを決めたら、祝言(しゅうげん)を挙げて、一本立ちするって話ですよ。
>源:ああ、そうか。それで、どうする?
>熊:どうしましょうか? ・・・というよりも、まだなんとなく、早過ぎるような気がしてしょうがねえんです。
>源:祝言がか?
>熊:ええ。それもですが。
>源:仕事の方か? ・・・まあ、それも無理からぬことだろうよ。どうやったって、お前ぇと見習いじゃ仕事にならねえもんな。
>熊:どうすりゃ良いんでしょうか?
>源:どうすりゃって、お前ぇとお咲ちゃんで話して決めれば良いじゃねえか。
>熊:へ? ・・・だって、決まりの話なんじゃねえんですかい?
>源:そこまでこっちに決めさすのか? そりゃ、いくらなんでも、美味(うま)くねえだろう。
>熊:それじゃあ、まだおん出ていかなくっても良いんですかい?
>源:良いよ。
>熊:こりゃまた、あっさりと言って呉れますねえ。
>源:だって仕方ねえだろ。甚兵衛父(とっ)つぁんの方の都合(つごう)が変わっちまったんだからよ。

>熊:どういうことですかい?
>源:なんでもな、甚兵衛の爺さんは、近頃なんとかっていう八卦見(はっけみ)に入れ揚げててよ・・・
>熊:八卦見が関わりあるんですかい?
>源:ああ。お前ぇらのために家(うち)を見付けてるってんだ。
>熊:家ですかい? おいらたちの?
>源:そうだ。弟子を持つってことになりゃ、広い土間(どま)のある家がいるだろう? それだ。
>熊:そ、そんなこと言ったって、おいらんとこにゃ家を買う銭なんかありませんぜ。店賃(たなちん)だって溜(た)めてるほどなんでやすから。
>源:ああ、そりゃあ良いんだ。こっちでなんとでもする。
>熊:でも、それじゃぁ、あんまり甘え過ぎじゃ・・・
>源:そんなことあるか。商人(あきんど)だって、暖簾(のれん)分けんときはお店(たな)を作ってやって、支度金(したくきん)まで出すじゃねえか。
>熊:でも、大工でそんなことは、あんまり聞いたこともねえです。
>源:そりゃあ、大方(おおかた)の大工は1人ずつやってるからな。俺んとこは親父の代から人を抱えてやってる。そこが新しいとこなのさ。商人で言えば、大工の問屋みてえなもんよ。だから、家は、俺が建ててやる。
>熊:おいら、そんなことがあろうとは夢にも思ってませんでした。長屋育ちのおいらが、家持ちですかい?
>源:母ちゃんがどうかしちまったみてえに仕事を請けてきてる訳が分かっただろう?
>熊:そういう、こと、だったんでやすか? こりゃあ・・・
>源:泣くなよ。
>熊:泣きやしませんや。どっちかってえと、両肩にずっしりと重石(おもし)が乗っかったようですよ。
>源:そうだな。そういうつもりでやってりゃ間違いはねえな。

>熊:それで、その八卦見がどう関わってるんでやすか?
>源:甚兵衛の爺さんが見付けてきた家には、庭に池があってよ。
>熊:池? そりゃ凄(すげ)え。お武家の別宅かなんかですかい?
>源:知るか、そんなこと。だがな、なんでも、池の方角が悪いんだとさ。客が流れて逃げていく相(そう)があるんだと。馬鹿馬鹿しい話だがな。
>熊:家の相ですかい? 手相とかご面相とかってのは聞いたことがありますが、そんなのあるんですか?
>源:知らん。なんだか分からねえが、年を取ると信心(しんじん)深くなるって言うからな。
>熊:眉唾(まゆつば)っぽいですね。
>源:甚兵衛父つぁんは信じ込んじまって、こっちの文句なんか聞く耳持たねえって剣幕(けんまく)でな。
>熊:何かご利益(りやく)でもあったんですかねえ?
>源:当たりだ。ちっとは値の張りそうなもんが、庭の土ん中から出てきたんだとよ。
>熊:失くしてたものでやすかい?
>源:前に住んでた人のもんじゃねえかって話だ。御影石(みかげいし)の招き猫だとよ。ちょっとした成金(なりきん)の家なら、どこにでも転がっていそうな奴だ。持ってたからってどうってことねえ代物(しろもの)さ。
>熊:でも、降って湧いた縁起(えんぎ)もんには違いないんでしょう?
>源:どうだかよ。・・・でも、どこそこに埋まってるってぴたりと言い当てられてよ、出てきたもんを自分のもんにして良いってんだから、舞い上がっちまってるんじゃねえのかな?
>熊:ぴたりと当てたんですかい? そりゃぁ凄え。おいらだって、縁(えん)の下から金の鑿(のみ)かなんかが出てきたら、信じちまうかも知れませんよ。
>源:そんなもんが、あの小汚(こぎた)ねえ長屋から出てきたりするもんかってんだ。
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