281.【た】 『多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)』 (2005.04.25)
『多勢に無勢』
敵が大軍であるのに対して、当方が寡兵(かへい)であること。少数の力では、大勢の力にはどうしても敵(かな)わないということ。
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お円が言うには、角之進が商人(あきんど)に向いていないというのは間違った見方であるとのことであった。
こういうところとかああいうところだと、指を折りながら、お咲に向かって捲(ま)くし立てた。
泣き暮らしているという割りには、まあ、良く喋(しゃべ)る。
そのキンキンした声に、熊五郎と猪ノ吉は、密(ひそ)かに眉(まゆ)を顰(ひそ)め合った。

>円:お父つぁんったら、碌(ろく)に見てあげもしないで決め込んじゃうんだもの。ねえ、可笑(おか)しいとは思わない?
>咲:そ、そうね。
>円:ね? あなたもそう思うでしょう? 誰がどう見たって横暴(おうぼう)よね。あたし、断固(だんこ)立ち向かっちゃうんだから。
>但:これこれ、1人で喋ってばかりいないで、皆さんのお話も聞きなさい。聞きたいことがあっておいでになったのだから。
>円:あ、それはそうね。それじゃあどうぞ。なんでも聞いてちょうだいな。
>熊:あ、それじゃあ。・・・ええと、角之進さんと初めて会ったときの話はもう聞きやしたが、それからどういう風に親しくなったんでやすか?
>円:親しくって、やだあ。そんな恥ずかしいこと、事細かに話さなきゃいけないの? うーん、でも、それが大事なことだって言うんだったら、恥ずかしいんだけど話しちゃう。・・・あのね、この先に「桔梗屋(ききょうや)」さんっていう甘味処(かんみどころ)があるのよね。そこでね、偶然に会ったのよ。これは仏様のお導(みちび)きだと思ったわ。
>熊:角之進さんが葛餅(くずもち)かなんかを食ってたってんですかい?
>円:それがね、黒文字(くろもじ)を納(おさ)めに来たのよ。「あらまあ」ってなものよ。それでね、「ここにお座りになっていきませんか?」って聞いたのよ。そしたら、「いえ、楊枝(ようじ)の内職など高が知れております故(ゆえ)」なんて、鯱(しゃち)こ張(ば)っちゃって、もう可愛らしいったらありゃしない。
>咲:そのときはそれっきり?
>円:そうよ。そのときのあたしはね、生糸問屋のお銭(せん)ちゃんと、紙問屋のお文(もん)ちゃんと一緒だったの。みんなしてぽうっとなっちゃったわよ。
>咲:その次に会ったのは?
>円:その日のうちよ。四半時(しはんとき=約30分)と経(た)ってないわ。・・・お銭ちゃんとお文ちゃんったらね、「桔梗屋の旦那に聞けばどこのなんていう人か分かるから、押し掛けちゃいましょう」なんて言うんだもの。図々(ずうずう)しいかなとは思ったんだけどね、2人が付いてきて呉れるって言うから行っちゃった訳。それでね、その日のうちに「あたしをお嫁さんにしてください」って言っちゃったの。胸が一杯になって、張り裂けちゃうかと思ったほどよ。
>咲:それがいつの話なの?
>円:10日と経ってないわ。
>咲:ほんと? それは凄(すご)い。

お咲が凄いと思ったのは、その話を聞き付けてきて、どたばた芝居を仕組み上げてしまった甚兵衛の素早さの方である。
半分くらいまでしか裏話(うらばなし)を聞いていなかった猪ノ吉も目を丸くしていた。

>円:それでね、その日の晩にお父つぁんに話をして、次の日に角之進様に来ていただいたの。そしたら、こんなことになっちゃったじゃない? あたし、やんなっちゃったわ。どうにかしてちょうだいよ。もう、1日だって待てないのよ。
>熊:あんまり急ぎ過ぎなんじゃありませんかい?
>円:そんなことないわよ。お銭ちゃんの姉様(ねえさま)だって、「どこそこへ嫁(とつ)ぎなさい」って言われて、その3日後には、お嫁さんになっちゃったんだから。・・・まあ、それはそれでちょっとだけ可哀想だけどね。
>熊:だけど、今度のはまたちょっと事情が違うでしょう? 相手はお武家なんだし。
>円:そんなの、愛があればなんてことないわよ。そうでしょう? それに、お父上もお母上も喜んで呉れてるみたいだもの。喜んで呉れるってことが一番よ。うちのお父つぁんだけよ、喜んでいないのは。
>但:お前はまだ、夫婦(めおと)になるということが、いま一つ分かっておらんのだよ。
>円:そんなの分かってるわよ。ちゃんと跡継(あとつ)ぎを産めば良いんでしょう? そして、ちゃんと商人に育て上げるの。
>但:それだけではないと言うのだよ。
>円:そんなはっきりしないこと言われたって分かんないわよ。女子(おなご)は稚児(やや)を産むものでしょう? そして、立派な跡継ぎを育てれば良いじゃないの。あと、何をしろって言うの?
>但:主(あるじ)を立てるということも大事な務(つと)めだ。
>円:立てるわよ。だって、角之進様のことを物凄く愛しちゃってるんですもの。

>但:その軽さがいけないと言っているんだ。
>円:どこがいけないって言うのよ。角之進様以外にあたしの旦那様になる人はいないの。一緒になれないんなら、ほんとに心中(しんじゅう)しちゃうんだからね。
>但:人にはね、良いところばかりがあるのではないんだよ、お円。身代(しんだい)を乗っ取ろうと考えているやも知れないではないか。銭金(ぜにかね)に目の眩(くら)む者もいれば、自分で何も決められない者もいる。お前の前で、気(おくび)も出せば屁(へ)も垂(た)れる。
>円:なんてこと言うのよ。角之進様が身代を乗っ取る? とんでもない。あたしが選んだ人にそんな悪い人なんかいる筈(はず)ないわ。それとね、角之進様はおならなんかしないわ。学問だって作法(さほう)だって、お父つぁんなんか足元にも及ばないくらいちゃんとしてるんだから。

>但:分かった分かった。今のお前には何を言っても耳に入るまい。こちらの熊五郎さんとお咲さんの暮らし振りを見せていただけるそうだから、ちょっとは自分たちの足(た)しにしなさい。
>円:ええっ? そんなことして呉れるの? それと、それって、あたしと角之進様が2人で暮らしてみても良いってこと?
>但:そうだ。仕方あるまい。
>円:やったあ。それじゃあ、巧(うま)い具合いに角之進様のことを守(も)り立てながら暮らせれば、もう許して呉れるのね? そういうことでしょう?
>但:言うほど生易(なまやさ)しいことではないぞ。
>円:そんなことあるもんですか。あたしは角之進様を愛していて、角之進様だってあたしのことを好いていて呉れるんだもの。2人で一緒にいられれば、どんなことだってできるわ。火が降っても槍が降っても、2人の間を裂(さ)ける人なんかあるもんですか。そっちの2人の方が、恥ずかしくなって謝(あやま)るほど仲良くして見せてあげる。
>但:まあ、やってみることだ。明日の昼までに、離れの隣(とな)り合わせに部屋を設(しるら)えるからね。・・・熊五郎さんとお咲さんも、ご面倒ですが、よろしくお願いしますよ。

こんなことで良いのだろうか? 熊五郎は、酒の抜け切っていないもやもやした頭で考えていた。
しかし、思うように頭が働いて呉れない。
普通の状態だったら、源五郎親方がそんなことを許す筈がないくらいのことは、考え付きそうなものである。
裏があるのでない限り、お咲と寝食(しんしょく)を共にするなど、許可する道理がない。

>咲:ああ、疲れた。なんだか、30人に囲まれて喋っているみたい。こっちが口を挟(はさ)む暇も何もあったもんじゃないわね。
>猪:親子だけのことはある。但馬屋は苦もなく応戦していた。大したものだな。
>咲:変なとこに感じ入っちゃってるのね。猪ノ吉さんって変わってる。
>猪:ああどうせ俺は変わりもんだ。だがな、鴨太郎ほど変わっちゃいねえぞ。
>熊:・・・なあ、お咲坊。お前ぇ、本当にそんなことしても良いと思っているのか?
>咲:良いわよ。父上が許して呉れればだけどね。
>熊:六さんが許すとでも思うのか?
>咲:6分4分かな? なんてったって人助けだもんね。それに、角之進さんの暮らし振りのことにも、ちょっとは同情しちゃいそうだし。
>熊:参(まい)ったなあ。
>猪:何も参ることはないって、熊ちゃん。真逆(まさか)これ幸(さいわ)いと、嫌らしいことを考えている訳じゃないだろう?
>熊:そ、そ、そんなこと誰が考えるか。
>咲:考えてる癖に。
>熊:か、考えはするが、そんなことするもんか。
>咲:お芝居くらいなら、それっぽいことしても良いわよ。
>熊:冗談は止(よ)せってんだ。お咲坊、お前ぇ、今日はどうかしてるぞ。
>咲:へへ。確かにそうね。・・・しかしねえ、甚兵衛さんでしょう、あやさんに親方でしょう、猪ノ吉さんに大(おお)先生でしょう、それに但馬屋さんやお円さんまで絡(から)んじゃってるんじゃ、あたし1人が騒いだって敵(かな)う訳ないもんね。
>熊:なんだそりゃ? どういうことだ?
>咲:みんなぐるになってるみたい。多分(たぶん)、角之進さん以外、全部。
>熊:なんだと? ・・・するってえと、おいらは良いように操(あやつ)られてるってことか?
>咲:そういうこと。・・・ね、猪ノ吉さん?
>猪:知らん。親方にでも聞くんだな。じゃあな。俺の出る幕(まく)はもう終わりだ。

猪ノ吉は、すたこら、尻に帆を掛けて帰っていった。
後に残された熊五郎はあんぐりと口を開けて立ち尽くし、お咲は、そんな熊五郎の内心を探ろうと、表情の変化を見守っていた。
つづく)−−−≪HOME